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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2007/07/29(日)   CATEGORY: 未分類
赤い靴履いてた女の子~
参院選投票日の直前、高校時代の同級生から電話がかかってきた。

 この同級生、某政党の支持者で、普段はまったく音沙汰ないのに、選挙の前になると電話がかかってくる。

 別にこの人好きでも嫌いでもないが、自分の都合のいい時だけ電話してくる人に対して共感がわくはずもなく、こんな選挙運動はかえって逆効果だと思いつつ

 私「まー、あれだけ強行採決連発すれば、支持者もへるんじゃない」というと

 同級生「そう、だから今回厳しいの。●×という候補者に投票お願いします」

 私「あなたも大変ねー」(棒読み)

 同級生「この間偶然あなたのホームページ見つけたの。小鳥かわいいね」

 私「え、ごろうちゃんの写真みたの? そうでしょう。かわいいでしょう。彼は私の自慢の息子でねー、世界一のオカメインコなの・・・・」(以下永遠に続く・・)

 
 そして本日、投票日。風のように直観に従って投票を行う。

 こう書くと白雪姫はいい加減だ、と思う方もいるだろうが、それは間違い。

 自慢でないがワタシは有権者になってから一度も棄権したことはない。どこぞの自民党候補みたいに、

「ニューヨークから帰ってきて住民票うつしてなかったので投票できませんでした。」

 なんて間抜けなことは言わないのだ。

 チベットにいようがインフルエンザにかかろうが、はってでも投票所にいく。

 でも、政治が好きなわけでも、政治を信じているわけでもない。
 
 政治家や政党が世の中を劇的によくしないくらいのことは百も承知だ。

 だけど、民主主義の世の中である以上、投票は義務であるから行くのだ。

 有権者に告ぐ!

 腹がたつなら、いやがらせ票だろうが、死票だろうが、白票だろうが、投じてこい(今までのワタシの投票行動がバレる発言!)。

 投票しないヤツは、世の中どうなってもかまわない、という意思表示をしたことになるのだから、世の中についてグチグチ文句いう資格は一切なし!


 とはいってみるものの、毎度のことながら全国的に候補者がいまいちですなあ。

 マルカワ珠代よりもまじめに世の中考えている人は一杯いるのに、彼女が自民党の東京の顔になるあたり、ヤンキー先生よりはるかにましな教育者はいくらでもいるのに、彼が候補者になっているあたりに、さらにいえば、アメリカであのブッシュが大統領やっているあたりで、現代における政治の地位というものがよくみえてくる。
 
 プラトンは哲学者が政治を司る哲人政治を理想とといたが、逆にいえば政治家に哲人がでたことがないということなんだろーねー。

 今の時点では、東京選挙区はビリの一議席を自民党の二人の候補者がとりあうと報じられている。

 その候補者の一人がアベ首相がジキジキに口説き落とした元テレ朝キャスターの丸川タマヨさん。

 その人の選挙戦をいろいろなチャンネルでまとめて流していたけど、あまりにもいたくてチョクしできなかった・・・。

 そもそも彼女、政治とか考えたこともなかった人なのだろう。

 知られている限り三年間投票していなかったことがそれを如実に物語っている。

 だからあれこれヘマをして武蔵小山駅前の銀だこの前でお詫びと称して泣き濡れることになるんだよ。
 
 キャスターになって一年目に、レポーターとしてたこやきを一気食いして、口中を火傷して入院した、というエピソードが披露されてたけど、この人の原点を見るようだったよ。

 たこやきがどんなにあついかも確かめずに、口にいれる。
 政治家という職業が、政治という世界がどういうものかも知らずにとびこむ。

 栴檀は双葉より芳しいですなあ。

 東大でても、きっと焼きたてのたこ焼きがいかに熱くねばっこいかも、政治の世界がどれほどドロドロかも知らなかったんだろーね。

 彼女が赤い靴を好んで履くことにちなみ、アンデルセンの赤い靴の童話にひっかけて、赤い靴に踊らされてとまらなくなったあわれな女の子に喩えられていた。

 古巣のテレ朝の選挙特番で。

 他のチャンネルはそこまで嫌みな編集はしていなかったので、いろんな意味で寒かった。

 政治はとにかく汚れ仕事。

 ローマ教皇が世界中に何億人の信徒をもとうとも、決して特定の政治局面に容喙せず(仲介はする)、信徒に対しても、現実をかえるツールに神様を利用するなと固く禁じているのもよく解る。

 不完全な人の考える、不完全な目的のために、最も気高く美しいものは利用してはならないのだ。

 神や道徳や善が、社会や政治を導くべきであり、社会や政治が、道徳や善や神を道具にしてはならないのだ。

 わかりやすくいうと、政治は汚いってこと。
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DATE: 2007/07/25(水)   CATEGORY: 未分類
日光を見ずして結構というなかれ
 五時半にふとおきると、雨がやんでいる。

 外にでてみると、高原のように空気が澄み渡り、さわやか~。

 梅雨が明けたのだろうか。

 夕方には本当に久しぶりの夕焼けがでて、夜には月と星が見えた。

 久々に空を仰ぐと、荘厳な気持ちになり、これまでのこととか、これから先のこととか、普段はあまり考えない長いパースペクティブで人生の物思いにふける。

 学者のべんきょータイム、夏休みがはじまる。

 わーい。わーい。わーい。

 この夏、ゼミ生と日光にいく(宿まだ決まってないけど)。

 なぜ日光かといえば、私が今ハマっているからである。

 家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕えた天海大僧正は、

江戸の鬼門に寛永寺を、
裏鬼門に増上寺(後に目黒の大円寺)を、
関八州の真北に日光輪王寺を建設して、

江戸と関東を守らせた。

 これらの寺はそれぞれ歴代将軍の遺骸が埋められ、将軍は死後も体をはって江戸の町を守り続けた。

 ご苦労なことである。

①日光に眠る将軍たち

  薬師仏=東照大権現(家康)初代
  大猷院(家光) 三代

② 増上寺に眠る将軍たち
台徳院(秀忠)二代
  文昭院(家宣)六代
  有章院(家継)七代
  惇信院(家重)九代
  慎徳院(家慶)十二代
  昭徳院(家茂) 十四代

③ 寛永寺に眠る将軍たち

  厳有院(家綱)四代
  常憲院(綱吉)五代
  有徳院(吉宗)八代
  浚明院(家治)十代
  文恭院(家斉)十一代
  温恭院(家定)十三代

 しかし、話は江戸と関東に留まらず、京都にもかかわってくる。それを説明する前に、山王一実神道とかを説明したい。

  山王一実神道とは、日本の神様は、みな釈迦・薬師・阿弥陀の三仏の化身であり、それは本質的には同じものであるという教えである(天海は天台座主なので、三つのものを一つにまとめるのがお好き)。

 この神道では、家康は東の仏である薬師仏の化身と考えられ、当然他の二つの仏とも本質は同じということになるので、日本の神様の総元締めともなる。
 
 そして、興味深いのは、江戸時代、京都をまもる比叡山の天台座主と日光をまもる輪王寺宮*と江戸をまもる寛永寺のトップをみな同じ人物(皇族)がつとめ、いずれの本尊も薬師仏であったことである。

 *日光の中心は薬師仏としての家康をまつる輪王寺という天台宗の古刹である。昔はこの輪王寺が東照宮を管理していた(今は廃仏毀釈で分離してるけど)。

 京都と江戸と日光の三つを一人の人、しかも、日本でもっとも古い家系の出がたばねることで、空間上三つにわかれた町は理念的に一つに統合されたのである。

 京都と江戸の関係を考える上で面白いくだりが天海の著作にある。

 そこでは、家康を天照大神にたとえ、三代将軍を天孫ニニギノミコトにたとえている。

 言うまでもなく、天照大神は日本のすべての神の総元締めを行う天の神であり、ニニギノミコトはアマテラスの命令により天から地に降りてきた神であり、初代神武天皇のおじいさん。

 このたとえをおおざっぱに考えると、高天原(天界)が京都で、芦原中津国(日本)が江戸にあたることになる。

 徳川が都と定めた当時の江戸はただのド田舎であった。

 しかし、徳川幕府の成立以後、江戸は日本の政治と経済の中心地となり、現在は世界的な大都市にまで発展したことを考えると、天海の慧眼には驚かされる。

 文字通り、京都は古都として、天のように理念的なものとして遠ざかり、江戸は豊原中津国のように"今"人々が生きる中心地となったのである。

 寛永寺は明治元年の上野戦争で炎上し、増上寺は戦災でやけたので、昔のままの姿で残るのは日光のみである。

 仏法と王法がともに世の中を治めていた時代、平和を祈る役割は現在のように民衆にではなく、僧院がになっていた。

 輪王寺はその平和祈願の三つのセンターの一つだったのである。輪王寺が管轄する東照宮に花鳥風月の彫刻がゴテゴテ施されたのも、泰平を言祝いでのことであった。

 「日光を見ずして結構というなかれ」
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DATE: 2007/07/21(土)   CATEGORY: 未分類
渡辺和子先生にハマる
ダンナ「あなた最近、どんどん言葉がオジサン化してる。このあたりでとめないと大変なことになるよ」

 と言われて、自分でも、もっともだと思ったので、この夏休み「美しい日本」ならぬ、「美しい日本語を身につける」一人キャンペーンを始めることにした。

 ダンナはの勧めるまままに、聖心女子大学の元学長渡辺和子先生(1927~)の講演録(35000円なり)をとりよせる(正確にいうと、ダンナが勝手に私のカードでネット注文をした)。

 聖心といえばカソリック系のお嬢様大学である。その大学の学長である渡辺先生は神につかえる清浄な生活を半世紀も続けた方である。

 その環境からねりあがった人格と日本語は、おそらく無類の美しさであろう。おそらくは、ワタクシの汚れきった日本語に革命的な転換をもたらしてくれることであろう。

 で、読者の皆様にも35000円のおすそわけをすると、こんなとこ。↓

「暇」を『大言海』という辞書で引いてみますと、「暇」は「日問」で、「日光之差入ルニ就キテ云フ」という解釈がつけられております。締め切ったカーテンの隙間からお日様の光が差し込んでくることがございますが、私たちのびっしりとつまったスケジュールの間に差し込む日の光。そういう隙間が大切なんだということを、この「日間」という字が教えてくれます。

 私はかつて大学の四階にある修道院に住んでいたことがございます。毎日エレペーターで一階の学長室に執務に行き、仕事が終わりますと、またエレベーターで四階に戻ります。ある日気がつくと、私はエレペーターに乗ったとたんに「閉」のボタンを押してから、階数を押しておりました。エレペーターのドアは、「閉」のボタンを押さなくても閉まるものです。好奇心から計ってみますと、閉まるまでにかかる時間は四秒でした。その四秒が待てるか、待てないか。

 私は決心をいたしまして、待てる自分になろうと思いました。エレペーターに乗りまして、階数を押すだけで待っている。するとドアが閉まって、自分の行きたいところに行ってくれる。「なぜ、そんなちょっとした時間にこだわるのですか?」とおっしゃる方もありますが、時間にこだわっているのではなくて、四秒すら待てない自分になること、いつもイライラ、セカセカしている自分になることが怖かったのです。

 そして、その四秒が待てる自分になったとき、人様の話を中断することなく、最後まで聞くことができる自分に少しなれたと思います。また、どなたかに注意をするときに、感情的になるのでなくて、一呼吸おいてご注意申し上げる自分に、少しずつ変わっていったような気がいたします。つまり、私にとっての「日間」を作ってくれたのが、エレペーターの中の四秒だったのです。少なくとも私は時間の奴隷とならないで、四秒問を私の意志で待つことができたのです。


 ううーむ。上品だ。
 
「その四秒が待てる自分になったとき、人様の話を中断することなく、最後まで聞くことができる自分に少しなれたと思います。また、どなたかに注意をするときに、感情的になるのでなくて、一呼吸おいてご注意申し上げる自分に、少しずつ変わっていったような気がいたします。」

 の部分、私だったら、

「四秒が待てるようになると、他人がアホなことをウダウダ言っていても、それを頭から否定せず、とりあえずはガマンして最後まで聞いて、一呼吸おいてから論理的に批判できるようになった。まあ、徐々にではあるけど、少しは人格が丸くなってきたかな」

とかいうところだ。

 最初のマクラの「暇」の語源などを引いている部分は、内容的には、結婚式に招かれた上司のオヤジのスピーチネタとかわらない。しかし、渡辺先生の人徳と美しい日本語にかかると、「効率重視では心を失う。暇を大切にしよう」という内容が無類の説得力をもって聞く者に響いてくる。

 一夏iPodでこの講演をききまくれば、わたくしの日本語では夏休みが終わった頃には大幅にカイゼンをみることであろう。しかし、

予定は未定にして決定にあらず。

 何より、その内容のあまりの清らかさから、聞き疲れして長時間きくことができない。CD果たして最後まで聞き終わることができるのか。

 ところで、渡辺先生の話を聞いていて意外だったのは、仏教や儒教の聖典からの引用があったり、自分のみのまわりにいる世俗の人の体験談などが自在に素材に使われていて、聖書やイエス様の話とかの引用が予想外に少ないことであった(そういう部分ばかりを集めた講演録なのかもしれないけど)。

 まあ、しかしそれも、渡辺先生が、聖書のよき教えを日常の中でいかにして実践するかを人々に伝えることに長けているゆえであろう。

 たとえば、仏典や聖典にでてくる言葉をそのまま使い、テニヲハ以外はすべて漢字、なんて講演をするご住職は、仏教を人に理解させるという意味では巧者とは言えないだろう。

 のぞましい説者とは、仏様の教えを正しく理解した上でそれをどのように日常の中で実践していくかを人に示せることができる人である(たとえばダライラマ猊下みたいにね)。

 この場合、重要なのは「仏教を正しく理解して」の部分である。よく、膨大な仏典の中から思いつきだけで一文をきりとって、それを自らの勝手な思いこみで解釈して、それを俗なたとえ話で人に伝えようとする人がいるが、これは論外。

 こんな法話聞くくらいだったら、中村元先生の「ブッダのことば」(岩波文庫)とか初期仏教の原典読んだ方が百倍まし。
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DATE: 2007/07/17(火)   CATEGORY: 未分類
本庄ワセダ山の迷い人
 早稲田大学本庄高等学院のサマーセミナーに呼ばれる。

 普通に行けば我が家から本庄早稲田まで一時間五十分くらいであるが、前日、ご存じ中越沖地震がおきた。

 本庄早稲田駅は上越新幹線の駅なので、当然ダイヤに影響がある。

 わたしが事前に買っておいた切符は12時42分着であり、これで駅から徒歩十分の高校にいき、十三時からの授業に間に合わすつもりであったが、なんとなく不安になる。

 講師の遅刻。これはかなーり、かっこ悪い。

 しかし、前の便に乗るのはちょっとなあ。一時間もはやく家でなきゃいけなんだよなあ。

 そう、本庄早稲田駅には一時間に一本しか電車はとまらない。学バスで在来線の本庄駅にいったら、時間はかかるが確実かな、とかいろいろ迷う。

 朝起きてネットで運行状況を確認すると一応「平常通り」とのことなので、予定通りの時間にでる。不安だったが、さすがニッポン。新幹線はつつがなく時刻通りに出発。

 本庄早稲田駅は相変わらず、過疎だった。

 三年前の初夏この駅で新幹線から降りた時、午前の中途半端な時間であることもあり、降りた客は私以外にもう一人しかいなかった。今回はさすがに人がもう少し人はいたが、それでも御嶽山駅くらいの乗降数であり、寂しい限り。

 で、ホームで待ってた人は何と三人。これは御嶽山以下の人数。

 駅前は三年前からあまり変わっていない。

 左手はいきなり山(ワセダ山)で、右手は駐車場に田んぼ。この駅前の駐車場代がタダなのでそれがこの駅をかろうじて支えている。本来熊谷でのる人とかが駐車場代ただにひかれてこの駅から乗るからだ。

 最近、滋賀県で米原と京都というすごく近い二駅の間にもう一つナントカいう駅を繕うとして、地元民から

「こんな京都から近いとこに駅作ってどーすんだ。誰も使わん。税金のムダだ。これ以上自治体の借金を増やすなー」

という反対運動が起きているが、その時必ずひきあいに出されるダメ駅がこの本庄早稲田である。

さすがである

 熊谷から僅か十分の山と田んぼの中、なぜここに駅があるのかは、この駅を使わせてもらっている私にすら永遠のナゾである。採算を取るためには狸や狐を客にとることもまじめに考えた方がいい。

 駅を降りるとひたすら山登り。鳥の声が美しく、セミも鳴いている。久しぶりの森林浴を楽しんでいると山の中に建物が見える。事務室風の部屋をみつけたのでそこの人に声を掛けると、まったく話が通じない。それもそのはず、そこは学生の寮だったのだ!

 時間に余裕がまったくないのに!

 警備の人に、「職員室は、事務所は?」とあせってきくと、「道なりにいって」といわれて、
「あとどのくらいかかりますか」と聞くと
「五分」という。

 あわてた私、山道を走りだすが、よくわからない。途中、また別の建物が現れたので、そこにはいって学生を捜して案内させようと思う。

 しかし、共同教室と書かれたその棟には人の気配がない。やっと、トイレに入る直前の男の子をつかまえて、

私「十三時から授業しなきゃいけないの。もう時間ないの。誰でも良いから職員室につれていってぇ。

男の子、不審そうな顔をして

「職員室ってないんですよね」(そういえば、本庄早稲田では先生はみな個室をもっていて職員室はない)

わたし「じゃあ、事務室でいい。はやく~

と食い下がると、誰かに聞きにいってしまった。次につかまえた女の子は、頼もしいことに目的地がわかっているようで、おかげで目的地を確保し、

ひたすらまた山道をかける(笑)。

 髪振り乱して、ゼイゼイいいながら事務棟にたどりつくと、世話係の先生と偶然出会い、その足で教室へ連行される。つくやいなや、チャイムがなる。

 わーい、まにあったー。

 ここまでですべてのエネルギーを使ったよ。しかし、普段から怠けて充電してる成果をここで見せねばと、授業は映像をみせたり、文献学のさわりをやったりと、本格的に講義する。学生の感想文をもらったが、みなよくわかった、面白かった、と好感触(まあ外からきた先生にそう悪口はかかんわな)。

 それでまた一時間に一本の新幹線にのりこみ、東京にむかう。

 「MAXたにまち」の二階席で高崎名物ダルマ弁当をつつきながら、

「ああ~、今日はすごい仕事したなあ~」

と感慨にひたるが、よく考えたら実働時間は

一時間半(笑)。

ほとんどは気疲れ(笑)。

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DATE: 2007/07/14(土)   CATEGORY: 未分類
ミャンマーの柳生一族
同僚の先生から『ミャンマー(ビルマ)の柳生一族』という本を貸してもらったら、これがものすごく面白かった。

 早稲田大学探検部出身の作者が、小説家の舟戸与一とミャンマーを取材旅行で珍道中をした話なのだが、著者の処女作が

『幻獣ムベンベを追え』(笑)

であることが示すように、作風は徹頭徹尾お笑いである(早稲田のサークルって・・・笑)。

 ただし、ミャンマーはけっしてお笑いの舞台になるような平和な国ではない。

 1990年に行われた民主選挙は軍部に粉砕されて、民主化をとなえる政党のリーダー、アウンサン・スーチー氏は軍部に軟禁されて約二十年になる。当然、現政権は世界中から非難を浴びていて、思いっきり孤立している。

 このような国の常として、ミャンマーは外国人、とくにジャーナリストを忌み嫌い、外国人のみならず、自国民も

「大学生は政治運動したがるからいらないよ」

と、東大や京大にあたる大学を閉鎖するというものすごい政府である。

 まじめに扱えば扱うほど、とめどなく暗い気持ちになるこの国を、この作者は実にライトに料理する。

 宮島茂樹の自衛隊シリーズもそうであるが、まっ正面から取り扱うと、いろいろ問題が生じるようなテーマは、こうやってシャレのめして笑いにまぎらして扱うのは効果的である。

 チベットもそうだけど、正面から「こんな不条理が行われている」と告発すると、それを聞く側は

「このような不条理を前にして自分は何ができるのだろうか」、と無力感にさいなまれるし、告発された側も、自分をまもるために、さらに横暴なリアクションをとることになる。
 
 粗暴な男が弱者をたたきのめしているような場面を考えてもらいたい。

 通行人がとめにはいろうものなら、この粗暴な男は間違いなく、止めに入った人間を殴るだろう。通行人もそれがわかっていてるから、その弱者が自分の身内でもない限り、間に割って入ることはない。

 しかし、その不条理な現場を「見た」にもかかわらず、見て見ぬふりをすることは良心の痛みを伴う。

 人は生来ストレスを避けたがる生き物である。

 だから、大半の人は良心を傷めないように、悲惨な状態にある人や民族の姿を最初から「見ないように」する。

 これでは、問題は永遠に直視されない。

 しかし、同じことでもこれをユーモアたっぷりに伝えれば、読者にも自分にもまた告発対象にもストレスがかかることはない。

シャレのめされた側は、内心怒っていても

「まあ、こんなヤツ相手にしても仕方ない」
と嘯くことができるし、

読者もストレスを感じることなく、問題を理解することができる。

 だから、この作者が ミャンマーの軍政を徳川幕府にたとえ、軍の情報部を柳生一族にたとえ、アウンサン・スーチー氏を千姫にたとえ、彼らのツァーを監視するためにつきまとう情報部の人間を、そのあまりの無能さから、柳生一族のみそっこという意味で、「柳生三十兵衛」(みそべえ)と名付けてちゃかすのをみたりすると、そのあざやかな手法に嬉しくなった。

 彼はミャンマーの麻薬王との半年間を記した『アヘン王国潜入期』というルポも書いていて、これはミャンマーの首相の参考文献にすらなっているらしい。

 この地域に通い詰め、その現実を肌で知っているからこそのでてくる余裕のユーモアなのである。

 どこぞの新聞社の解説員や政治学者のコメントをきくよりもはるかにミャンマーが近くなった一冊であった。

 
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DATE: 2007/07/10(火)   CATEGORY: 未分類
英語で読まナイト、書かナイト
 また英語で苦しんでいる。
 とある研究書について英文で書評を書かねばならない。
 いやでいやで「しょうがない」(キューマ前防衛大臣)。
 
 まず、自分のオリジナリティをだせる論文と違い、書評は対象も決められており、好き放題もかけなくていまいちモティべーションがあがらない。

 さらに、英語で論文を書く場合は、「書きたいことがある」→「英作文」と二段階だが、英文書評だと、「英語の本を一冊読む」→「かく内容をきめる」→「英作文」と段階が一つ多くなって手間も三倍増。

 まるでヘレンケラーの三重苦。

 ウォーター!!!!(分かる人だけウケて下さい)

 しかし今回の書評対象は、専門書であり、専門家の数がすくない以上、やらねばならない。書評を書くのはオリジナルの論文執筆とともに、研究者の義務一つだ。
研究とは箇々の研究の積み重ね。たにんが研究書だしたら、それをそれ以前の研究との関係で位置づけねばならない。そもそも、それがないものは研究書とはみなされない。

 しかし、どうしたことだろうか。本を開いて一行も読むと眠くなる。朝起きて十分睡眠が足りている午前中でも眠くなる。
 下手な睡眠薬よりもこの本はきく。

 しかし、これではいつまでたっても読み終わらない。そこで、考えた。この本を読んで損にならない他の研究者と読書会をやろうと。彼は彼で別のところで和文で書評を書けばいい。

 そこで、とりあえず、この本を読んでムダのなさそうな研究者に電話をいれる。もうすぐ試験期間なので大丈夫かと思ったが、意外に多忙。25日以後しかあかないという。わたしの締め切りは七月いっぱいなのに、これはきつい。

 わたしがウダウダ窮状を訴えると、

 某研究者「自動読み取り(OCR)で英文読み取って、それを自動翻訳ソフトにかけたら、いやこれ30%くらい本気よ」

 30%って高いのか低いのか。どのように評価すべきか微妙な数値だが、とりあえずわたくしは日曜日にダンナと秋葉原にいき、OCRと自動翻訳ソフトと新しいスキャナーをかう。しめて30000円。

 で、機械をセッティングしてみたわけですよ(ダンナが)。で、翻訳してみたんですよ。

そしたらね。OCRは完ぺきでした。↓

 CHAPTER ONE

On June 28,1626, an alliance was sealed by sacrificing a white horse and a black ox on the banks of the Hun River in Liaodong.

でもね、自動翻訳ソフトがねー。これがねー、おばかさん。

みて。

「1章 征服の前夜のモンゴル人
1626年6月28日に、同盟は、遼東のフン川の銀行の白波および黒い雄牛を犠牲にすることにより密閉された。」

あってんの最初の一行だけじゃん。正しくは

「1626年6月28日に、遼東の渾河のほとりで、白馬と黒牛を犠牲に捧げて、同盟が結ばれた。」

bankは「銀行」でなくて、土手。sealは「密閉」でなく「調印」だよ。わたしはこんなダメ・ソフトにお金を払ったのか・・・・。

 しかも、OCRに時間がかかるから、自分で英文読んだ方が数段早い。30%発言した研究者に「責任をとれー」と電話したら

「だから70%は冗談だって」

 そうきたか。

 もうこうなっては仕方ない。自力で読むしかない。

問題は眠くなることだ。もティべーションをあげれば目が覚めるかも。

そこで、Introductionと参考文献とEpilogeと註をまずみる。
これであらかた、著者のスタンスとレベルが知れる。

日本語の研究が引用されていない。私の研究も二つ引かれているが、英文のもののみで関連する日本語の論文はまったくひかれていない。

 じつは東洋の研究において日本の研究レベルはごっつ高い。

その秘密はわれわれの言語、日本語にある。

 日本語はアルタイ語系。これで、同じ系列の満洲語・モンゴル語・トルコ語といった言語の習得がとってもラクになる。語順が一緒だからね。
 それで、小学校一年生から漢字を使うから、中国語を読解するのも比較的らく。成人になってから漢字を覚える西洋人はどうがんばっても我々に太刀打ちできない。
 さらに、われわれは中学校から英語をやらされる。
 これで、英語論文、すなわちヨーロッパの学問動向もこれでわかってしまう。

 最強。

 したがって、東洋哲学と東洋史に関する日本の研究は文字通り世界最高水準なのである。
 東洋を研究しようとする欧米人は、自分の専門とする東洋の言語はようやっと習得するが、日本語までは手が回らない。従って、進んだ日本の研究を結果として参照できず、日本人の研究者からはつめたい眼でみおろされることがままあるのである。

 この著者も思いきり日本語はできないようだ。ここから攻めよう。ついでだから、欧米・中国・日本の歴史論文のスタイルの違いもモデル化してみるか。

 あと彼が参照するべき資料を参照しない点を指摘しよう。
 こうして弱点をボディブローのようにせめ、日本の研究者の研究を示して

 日本の学界の学威を示すのだ~。

 とここまで考えたら、急に元気がでてきて、英文を読むのがはかどること。
 一行読んでは意識がなくなっていた一週間前がウソのよう。

 がんばれ、自分。

 いつまで続くかこの集中力。
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DATE: 2007/07/07(土)   CATEGORY: 未分類
山川草木悉皆仏性
前にぶろぐの記事の下に「ブックマーク」というボタンがあった。それがいつのまにか「拍手」というボタンに変わったが、これは、ぶろぐを運営している側がかってに設定を変えているらしい。

 私はこの「拍手」って、読者に拍手を強要しているように思えていやだったのだが、設定のはずしかたがわからなかったので、しばらくそのままにしていた。しかし、ようやくダンナにいって設定をはずしてもらったので、

 今まで「拍手」を下さった皆様、ありがとうございました。

 昨日、メールボックスにゼミ生の一人から送られてきた絵はがきが届いた。彼は大学を休学して世界一周中なのだが、すでに二度盗難にあっており、茨のシルクロードを歩んで現在はカザフスタンあたりにいるはずである。

 兵馬俑(西安)から送られてきた送られてきたその絵はがきは

「先生のあの"どっはっはっ"という笑い声が聞きたいです」

と結ばれていた。

私「ちょっと待ってよ。私、どっはっはっなんて笑いかたしてる?」
学生A「ええ」
学生B「そうっすね」
学生C「笑ってますよ」
家に帰ってダンナに聞いてみたら

「あなた気づいてないの? あなたの笑い方ってまったくオヤジよ」

そしてそのあと仏青の例会にいく。今度の夏、みなで比叡山旅行を計画(比叡山観光・宿坊精進料理の旅 笑)しているので、机の上には比叡山とか京都とかの資料がならんでいる。しかし、京都のガイドブックが異常に年代ものである。

私「古いねー、このガイドブック。いつのだよ」
N君「ソ連がまだある頃のものです」

現代史オタクの彼らしい答え。まあ、京都のお寺なんて十年単位で生滅するもんじゃないから、昭和くらいまでならオッケーか。

 そして破顔くんを講師に迎えて、比叡山関連の知識を学ぶ。先週破顔くんは

「宿題です。ネットで調べられることがいいですよね。来週までに天台宗にいる大師号をもつ方を調べてきなさい」

という下命があったので、わたくしはせっせと六人分の大師号と法名覚えてきたのに当の破顔君は

「ボクそんな課題だしましたっけ」

そして、おもむろに天台教学の講義をはじめた。
わたしもアバウトだが彼もアバウトだな。
早稲田大学は天台宗の教学を研究している先生が多いので、佛教大学ではないが天台を学ぶにはいい環境。

 破顔君が天台本覚思想はすべての人が仏になれることを説くのがポイントです、というと、わたくしが絡む。

 すべての人がすべて仏になれる、という思想は美しいことだとは思うが、ホントーにすべての人が仏になれるのだろうか。わたしは歴史家だから、まず、「かくかくしかじかの根拠があって、それに基づいてだから仏になれるんだ」というよう論理的な証明がほしい。


だって、何の証明もできないのなら、まず、「こうあってほしい」という結論が先にあって、その結論を導くのに都合のいい教えを述べている『法華経』を奉じたんだ、と謂われても反論できないし、かりにそうだとしたら、それは俗世間の話からすれば、まず、「あいつが犯人だ」という思いこみがあって、その人を犯人にするのに都合のいい証拠を集める無能な警官と同じレベルになってしまう。

 つまり、それがたとえ美しい思想であったも、根拠がないなら絵に描いた餅じゃあないか。

 すべての人が仏になれるのなら、とりあえず、その論理的根拠を示して欲しいものである。

 だって、チベット仏教ではねえ(でた、チベット語り)。

 「金塊がホンモノであるかどうかを確かめるために、こすったり、叩いたりするように、仏の教えも、いろいろな角度から吟味してその真贋を確かめなさい」という有名な警句がある。

 それにねえ、師を求める場合も、エラソーな人がいるから盲信するというのではなく、その人の人となりをあらゆる角度から観察し、吟味して、その結果師事するかどうかを決めなさい、と求道者に徹底的な批判精神を求めるのである。

 だから、チベットの修行カリキュラムではまず得度した少年僧は論理学の勉強にとりかかり、しかるのちに仏教思想のいろいろな概念を学び、最後に実践を行うことになっているのである。

 しかし、天台教学にはチベットのようなこのような修道カリキュラムはないようで、そのうえ、いろいろな哲学や修行を包摂してそれを排除しないようである。

 何か情緒的・精神論すぎてついていけん。

 というか、これじゃ、無関係な人を説得してこの教えを信じさせることはほとんど不可能な気がする。

 論理に基づいて哲学するチベット仏教は、何もかも失い、国さえ失っても、しぶとく生き延びている。彼らの説く思想は普遍的で多くの人々の心をとらえ、その援助を受けることができたからである。

 正しい論理は万国共通の普遍言語なのである。

 翻って考えるに、情緒的な日本仏教は墓と檀家がなくなったらもう生活がなりたたくなくなり、国を失ったらもうカイメツだろう。

 今時の日本人に仏教を説こうとするとき、「信仰」とかの精神論を声高に叫んでも共感はえられない。

 ましてや「祖先を大事にしないと祟りがある。だから墓の維持費払え」とか仏教の思想にすらない脅し文句を並べるにいたっては、逆効果。

 各宗派ともに、現代人の吟味にたえうる鉄壁の教学造り--それはむろん論理に基づくものでなければならない--、をつくることに励んでいただきたいとつくづく思う今日この頃であったった。
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DATE: 2007/07/02(月)   CATEGORY: 未分類
究極のリサイクル
最近、プライベートでいろいろあって、そのことによって動揺した結果おきる日常の様々な不具合にわれながら驚いている。

 日常なにごともない場合は、生活、研究、授業準備、雑用etc.の一つ一つがスムーズに流れていき、しかるべき時にしかるべきことを行い、その手順もむだがなく、時間もかからない。


 ところが、とある事件により常時頭をしめる心配事ができる。そしたら、そのトタンに何もかもがうまく流れなくなってきた。

 朝、ゴミ出しを忘れ、回収車の到来音を聞いて思いだし、ゴミの袋をもって

回収車の後を

"カムバーック"

と叫びながら追いかけ

 いつもと同じように家をでたつもりなのに、いつもの電車に目の前で行かれて、

 コンビニに買い物にいくと、複数あった目的物のうち一部を買い忘れ、再び出直すハメになり

 近所のナチュラルハウスが三日間の10%オフをやっていたのに、気がついたのが三日目の閉店時間直後だったり

 食事に入ったレストランがいつになく混んでいて、さんざん待たされて、帰りに買い物によるはずだったスーパーの閉店時間がすぎ

 昨日は録ろうと思っていたドキュメンタリー「ダーウィンの悪夢」を取り忘れたり、

 どれも一つ一つは小さいことだが、こうまで積み上がってくると、もうイライラコップの水が縁まできて、表面張力でふくれあがった水面が一触即発で

うがーっ、

とだだ漏れてきそうな今日この頃。

一つの心配事が、かくも日常生活のすべてにひずみをもたらすのかとある意味感心するよ。

 思うようにいかない現実に直面した時、それに対してどのように反応するかによって人の器が決まるとすると、白雪姫はかなり下品("げぼん"と読む)に属するな。

 本来なら、どのような苛酷な環境にあろうとも、その倫理観や判断力はブレてはならず、ましてや、八つ当たりやウツや責任転嫁はみっともない。

 何の心配ごともない世界なんてこの世にはない。

 だから、自分は「かくかくしかじかの不幸な環境にあったから、こうなったんだ」なんていっても仕方ないし、ソンするのも所詮自分。

 そう思ってここ数日自分の中にわきおこってくる想念をチェックしている。マイナスな感情がおきたら、それがいかに無駄な感情かを自分で口にだして解説して、無意味である、と結論づける。

 こうして、いつかはマイナス感情をスルーできるようになる予定である。

 そいえば、仏教では六道輪廻という思想があり、大体こんな定義である。

天 快楽の世界
阿修羅 恨みと戦いの世界
人 生きる・老いる・病む・死ぬ苦しみの世界
畜生 役使される苦しみの世界
餓鬼 飢えと渇きの世界
地獄 肉体的痛みの世界


 このうち、天人は、毎日ラリホーに遊び暮らして、死が目の前に近づくまで人生を空費する、お気楽な人達である(無論死に際して悲嘆にくれる)。

 阿修羅・餓鬼・地獄・畜生などの領域にうける生は、憎しみや痛みや仕事や飢えや渇きの想念に忙しく、そもそも「自分をよくする」ゆとりなんかない。

 その点、このうち、人間界はそこそこの安穏と、そこそこの痛みによってバランスがとれているので、「自分をよくしよう」という意志がもっともおきやすい領域であると謂われている。

 たしかに、心配事があって、それに対して動揺する自分に気づいたからこそ、自分の器の小ささを実感できたワケである、

 そういう意味では苦しみというものもムダではないということになるワケで。

 とにかく今は災いを転じて幸福へつなげていく究極のリサイクルだけを心がけねば。ねばはねば、ネバーギブアーップ!

(きてます)
 
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