世界一精神的に豊かな難民たち
チベットの支援団体KIKUが翻訳した海外ドキュメンタリー『ヒマラヤを越える子どもたち』(ここクリック)をご存じだろうか。
これは、中国領内(本来ならチベット本土なんだけどねー)にいるチベット人たちが、国境警備が手薄になる極寒期に、ダライラマのいるインドをめざして危険なヒマラヤ超えをするのをおったフィルムである。
現在も続くチベット難民はその大半は子どもがしめる。
去年、このような子どもばかりのキャラバンが中国の国境警備兵にみつかって、無惨に撃ち殺される図が、YouTubeに流れて大騒ぎになった。
このことからもわかるように、この国境越えは途中でみつかったら悪くて銃殺、よくて強制送還である。
無事でも、まだ小さい子どもは道中ずっと親を思って泣き続ける。親ももちろん断腸の思いで子どもを送り出しているのである。どうしてそのような思いまでして彼らはヒマラヤを越えるのであろうか。
それは親が子どもをダライラマのもとで学ぶことが、自分のもとに留まるよりもよい人間に育つ、と判断するからである。
ダラムサラ(チベット亡命政府所在地)にはこのような子どもたちを受け入れるチベット子ども村(TCV)がある。ここは全寮制で、インドの義務教育+チベット文化も身につけることができる。
チベット文化、それは言わずもがなの仏教文化である。
寮の共有スペースには仏画がかかっており、みなはそこで朝のおつとめをする。授業が始まる前もおつとめ。
お手本は世界も認める大聖者ダライラマ。
とくりゃあ、あなたもお子さんをいれたくなりますよね。
で、わたしは、このチベット子ども村で使っているチベット文化学習用のテクスト(中学生用)を翻訳するという仕事をやっているのだが、ようやっと、ざっと訳が終わった。
疲れた。
「俗人の中学生向けかー、楽勝、楽勝」と思った私はバカだった。
レベル高すぎなんだよ、ちべっと人。
13才から存在論とか論理学とかやるなよ!
14才で普遍と特殊だし、
15才で認識論だよ。
ついていけないよう(泣)。
論理学だけではない。
仏教哲学もすごいのである。
13才で釈迦伝、四聖諦、
14才でインドの論師の伝記、チベット仏教の各宗派の哲学と実践のアウトライン
15才でさわりとはいえ、心所、業論、説一切有部、唯識、中観を学ぶ。
繰り返すが、これ俗人の子ども向けである。僧侶向けではないのである。
カリキュラムを見る限りでは、日本の佛教系の大学の宗学の学科をでた人は、チベット人の中学生の知識に勝てない(おそらくはそれ以前に、仏教に対する姿勢その他のオールラウンドでまったく負け)。
しかも、三年になるとダライラマ猊下の伝記をサイドリーダーに使うので、チベット近現代史とともに非暴力思想も自然とみにつく。
この教育内容みると、親が「自分のもとで育つよりも、ダライラマのもとで育つ方が子どもがいい人間になる」と思う気持ちがなんとなくわかる。
仏教はつまるところ、エゴの克服をとく、そのお手本がいきて彼らの目の前にいる。
これ以上すばらしい教育はあるまい(プラス、ヒンドゥー語や英語という国際人に必須の学問も学べるという実利的な判断もある)。
この学校はありがたいことに全世界からの寄付でなりたっている。チベット仏教のお寺を復興する、というと、自分がキリスト教徒だったり、ユダヤ教徒だったりするとやや抵抗があるが、学校を支援する、というのは抵抗が少ないせいか、難民社会の他の組織よりは資金はあるそうである。
教育内容は仏教ばっちりだけどね!
ここから巣立った子どもたちは、再び中国の親元に戻るものもあり、自分で奨学金をゲッとして世界にはばたくものもいる。いろいろな道を歩もうとも、ここで寝起きした何年かに「チベット人」としてのアイデンティティはしっかりと身に付いていることだろう。
チベット人は仏教文化をまもるために、社会主義国が軍事占領した母国を去った。
彼らに取って守るべきは、今も昔も、領土や財産や地位ではない。仏教文化である。
だから、今も親は子どもをヒマラヤの向こうへ送り出すのだ。
誰しもが認める素晴らしい文化があり、さらに、それを体現する立派なオトナがいる。
チベット難民は、「よく世界一豊かな難民」と言われるが、これは精神的な意味でもそうだよな、と思う今日このごろなのであった。
これは、中国領内(本来ならチベット本土なんだけどねー)にいるチベット人たちが、国境警備が手薄になる極寒期に、ダライラマのいるインドをめざして危険なヒマラヤ超えをするのをおったフィルムである。
現在も続くチベット難民はその大半は子どもがしめる。
去年、このような子どもばかりのキャラバンが中国の国境警備兵にみつかって、無惨に撃ち殺される図が、YouTubeに流れて大騒ぎになった。
このことからもわかるように、この国境越えは途中でみつかったら悪くて銃殺、よくて強制送還である。
無事でも、まだ小さい子どもは道中ずっと親を思って泣き続ける。親ももちろん断腸の思いで子どもを送り出しているのである。どうしてそのような思いまでして彼らはヒマラヤを越えるのであろうか。
それは親が子どもをダライラマのもとで学ぶことが、自分のもとに留まるよりもよい人間に育つ、と判断するからである。
ダラムサラ(チベット亡命政府所在地)にはこのような子どもたちを受け入れるチベット子ども村(TCV)がある。ここは全寮制で、インドの義務教育+チベット文化も身につけることができる。
チベット文化、それは言わずもがなの仏教文化である。
寮の共有スペースには仏画がかかっており、みなはそこで朝のおつとめをする。授業が始まる前もおつとめ。
お手本は世界も認める大聖者ダライラマ。
とくりゃあ、あなたもお子さんをいれたくなりますよね。
で、わたしは、このチベット子ども村で使っているチベット文化学習用のテクスト(中学生用)を翻訳するという仕事をやっているのだが、ようやっと、ざっと訳が終わった。
疲れた。
「俗人の中学生向けかー、楽勝、楽勝」と思った私はバカだった。
レベル高すぎなんだよ、ちべっと人。
13才から存在論とか論理学とかやるなよ!
14才で普遍と特殊だし、
15才で認識論だよ。
ついていけないよう(泣)。
論理学だけではない。
仏教哲学もすごいのである。
13才で釈迦伝、四聖諦、
14才でインドの論師の伝記、チベット仏教の各宗派の哲学と実践のアウトライン
15才でさわりとはいえ、心所、業論、説一切有部、唯識、中観を学ぶ。
繰り返すが、これ俗人の子ども向けである。僧侶向けではないのである。
カリキュラムを見る限りでは、日本の佛教系の大学の宗学の学科をでた人は、チベット人の中学生の知識に勝てない(おそらくはそれ以前に、仏教に対する姿勢その他のオールラウンドでまったく負け)。
しかも、三年になるとダライラマ猊下の伝記をサイドリーダーに使うので、チベット近現代史とともに非暴力思想も自然とみにつく。
この教育内容みると、親が「自分のもとで育つよりも、ダライラマのもとで育つ方が子どもがいい人間になる」と思う気持ちがなんとなくわかる。
仏教はつまるところ、エゴの克服をとく、そのお手本がいきて彼らの目の前にいる。
これ以上すばらしい教育はあるまい(プラス、ヒンドゥー語や英語という国際人に必須の学問も学べるという実利的な判断もある)。
この学校はありがたいことに全世界からの寄付でなりたっている。チベット仏教のお寺を復興する、というと、自分がキリスト教徒だったり、ユダヤ教徒だったりするとやや抵抗があるが、学校を支援する、というのは抵抗が少ないせいか、難民社会の他の組織よりは資金はあるそうである。
教育内容は仏教ばっちりだけどね!
ここから巣立った子どもたちは、再び中国の親元に戻るものもあり、自分で奨学金をゲッとして世界にはばたくものもいる。いろいろな道を歩もうとも、ここで寝起きした何年かに「チベット人」としてのアイデンティティはしっかりと身に付いていることだろう。
チベット人は仏教文化をまもるために、社会主義国が軍事占領した母国を去った。
彼らに取って守るべきは、今も昔も、領土や財産や地位ではない。仏教文化である。
だから、今も親は子どもをヒマラヤの向こうへ送り出すのだ。
誰しもが認める素晴らしい文化があり、さらに、それを体現する立派なオトナがいる。
チベット難民は、「よく世界一豊かな難民」と言われるが、これは精神的な意味でもそうだよな、と思う今日このごろなのであった。
ホンモノは人種・宗教・国境を越える
昨日は授業で「非暴力のDNA」のテーマで話をして、キング牧師が暗殺される直前の最後のクリスマスで行った演説を見ていたら、それがあまりにダライラマ14世と似ていることに読んでいて気づいて、カンドーした。
ちょっと長くなるけど、さわりを紹介。まずキング牧師から。
もしわれわれがこの地に平和をもたらすことができるとすれば、われわれの忠誠心は地域的ではなくてむしろ全世界的でなくてはならない、ということであります。
われわれの忠誠心は、自分の人種や種族・階級それに国家を越えるものでなくてはならず、それには世界的な見通しをたてねばならないということです。
いかなる個人も単独で生きてゆくことはできません。かえって、単独で生きようとするかぎり、いよいよ多くの戦争をこの世に引き起こすことになるのです。
いまこそ、神の審判がわれわれの上に下されつつあります。そして、われわれはここで兄弟としてともに生きてゆくことを学ぶか、さもなくばともに愚か者として全員破滅へ向かって歩むかなのであります。
まったく、国家としても個人としても、われわれは相互依存の状態にあります。
・・・私はこの国では何百万ドルという金を使って毎日余剰食料品を貯蔵しているという事実について考え始めました。
「あの食物をしまっておく適切なところを私は知っている。それはアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ、それからまたわれわれの国の中にさえ存在する、空腹のまま夜、寝床につく何百万人という神の子たちの、空っぽの胃袋の中だ」と。・・・
われわれはすべて相互依存という逃れがたい網の目に捉えられており、同じ一枚の運命の衣装の中に結び付けられているのです。何かあるひとつのことに直接影響を与えるものは、間接的にほかのすべてに影響を及ぼしているのです。
われわれは力を合わせてともに生きるべく創られているのです。なぜなら、現実世界が相互依存方式によって仕組まれているからです(『良心のトランペット』)。
キング牧師は
「平和は、みなが自分、自分というところには実現できない、そのような「自分」を超えた上に実現する」
このことを、 キリストやガンジーやソローの哲学から学んで、それをわかりやすい美しい言葉で述べたのだ。
そいで、以下がダライラマ14世猊下が1989年にノーベル平和賞を受賞された時のスピーチより。
私たちは同じ人間であって、苦しみを逃れ、安楽を求めるものであることを理解することは、人類愛、つまり他人に対する愛情のこもった暖かい思いやり、すなわち慈悲の心を育てる助けとなります。
このことは、ゆれ動く現在の世界に生きていくためには、なくてはならぬものです。
そうでなければ、私たちは自分の利益になると思い込んでいるものを、他人のことを意に介さずにがむしゃらに求め続け、他人ばかりでなく自分自身をも傷つけてしまうことになります。
この事実は今世紀に入ってよりはっきりとしてきました。たとえば、核戦争を今起こしたら、それはそのまま自殺行為です。あるいは、目先の利益を求めて大気や海を汚染すれば、それは私たちの生存の基盤を破壊していることになります。個人や国家の相互依存(縁起)の度合いが増加しつつある現在、私が「普遍的責任感」(増上意楽)と呼ぶものを育てていく他、残された道はありません。
今日では、私たちは本当に地球家族なのです。世界の一地域で起きたことが、私たち全員に影響を及ぼします。もちろん否定的なことばかりでなく、肯定的なことについても同じことがいえます。現代の非常に進歩した通信技術のお陰で、遠くで起きた事件を知ることができるばかりてはなく、その影響をも直接受けます。・・・・大陸を隔てて敵対する国々の間に平和がもたらされれば、私たち自身の安全もより確かなものになります(『愛と非暴力』より)。
------------------------
似てる。
世界が「縁起」(相互依存)している。だから、自分の利益ばかりを求め続けることは、いずれ世界を滅ぼすようになる、
このような両聖者の言葉は普遍的であり、それであるがゆえに多くの人の魂をゆさぶる。
キング牧師は最後は暗殺されたことが示すように、つねに自らの命の危険に身をさらしつつ、この普遍的な信念をまげることはなかった。
ダライラマ猊下も席の温まるまもなく、チベット難民や彼の教えをまつ人々のもとに行くために世界中をとびまわっていることはよく知られている。
彼らは文字通り自らを省みることなく、一切の生きとし生けるもののために生きているのである。言行一致である。
ダライラマは仏教哲学の大家でありながら、その哲学を誰にでもわかるような平易な言葉でかたりかけてくれる。
ダライラマの講演は、じつによくできている。
だいたい
前半は英語で、仏教の思想を現代的な文脈でとりあげ誰にでもわかる平易な言葉でかたりかける。
そして後半ではチベット語で、その同じ内容を仏教用語を駆使して、伝統的な説法の形で行う。
前半は聴衆の目線で語り、
後半ではチベット仏教の伝統的な講義も行う、
じつに絶妙なバランスなのである。
なによりすごいのは、そこで口にしたことは、いずれも猊下の日頃の生活の中できちんと実践されていることなのである。
このどれか一つを行える人は数多いだろうが、全部をできる人はなかなかおらず、やはりそれができるのはダライラマが聖者だからであろう。
ホンモノは、時代、宗教、国境、人種などの壁をかるがると超えていく。
ちょっと長くなるけど、さわりを紹介。まずキング牧師から。
もしわれわれがこの地に平和をもたらすことができるとすれば、われわれの忠誠心は地域的ではなくてむしろ全世界的でなくてはならない、ということであります。
われわれの忠誠心は、自分の人種や種族・階級それに国家を越えるものでなくてはならず、それには世界的な見通しをたてねばならないということです。
いかなる個人も単独で生きてゆくことはできません。かえって、単独で生きようとするかぎり、いよいよ多くの戦争をこの世に引き起こすことになるのです。
いまこそ、神の審判がわれわれの上に下されつつあります。そして、われわれはここで兄弟としてともに生きてゆくことを学ぶか、さもなくばともに愚か者として全員破滅へ向かって歩むかなのであります。
まったく、国家としても個人としても、われわれは相互依存の状態にあります。
・・・私はこの国では何百万ドルという金を使って毎日余剰食料品を貯蔵しているという事実について考え始めました。
「あの食物をしまっておく適切なところを私は知っている。それはアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ、それからまたわれわれの国の中にさえ存在する、空腹のまま夜、寝床につく何百万人という神の子たちの、空っぽの胃袋の中だ」と。・・・
われわれはすべて相互依存という逃れがたい網の目に捉えられており、同じ一枚の運命の衣装の中に結び付けられているのです。何かあるひとつのことに直接影響を与えるものは、間接的にほかのすべてに影響を及ぼしているのです。
われわれは力を合わせてともに生きるべく創られているのです。なぜなら、現実世界が相互依存方式によって仕組まれているからです(『良心のトランペット』)。
キング牧師は
「平和は、みなが自分、自分というところには実現できない、そのような「自分」を超えた上に実現する」
このことを、 キリストやガンジーやソローの哲学から学んで、それをわかりやすい美しい言葉で述べたのだ。
そいで、以下がダライラマ14世猊下が1989年にノーベル平和賞を受賞された時のスピーチより。
私たちは同じ人間であって、苦しみを逃れ、安楽を求めるものであることを理解することは、人類愛、つまり他人に対する愛情のこもった暖かい思いやり、すなわち慈悲の心を育てる助けとなります。
このことは、ゆれ動く現在の世界に生きていくためには、なくてはならぬものです。
そうでなければ、私たちは自分の利益になると思い込んでいるものを、他人のことを意に介さずにがむしゃらに求め続け、他人ばかりでなく自分自身をも傷つけてしまうことになります。
この事実は今世紀に入ってよりはっきりとしてきました。たとえば、核戦争を今起こしたら、それはそのまま自殺行為です。あるいは、目先の利益を求めて大気や海を汚染すれば、それは私たちの生存の基盤を破壊していることになります。個人や国家の相互依存(縁起)の度合いが増加しつつある現在、私が「普遍的責任感」(増上意楽)と呼ぶものを育てていく他、残された道はありません。
今日では、私たちは本当に地球家族なのです。世界の一地域で起きたことが、私たち全員に影響を及ぼします。もちろん否定的なことばかりでなく、肯定的なことについても同じことがいえます。現代の非常に進歩した通信技術のお陰で、遠くで起きた事件を知ることができるばかりてはなく、その影響をも直接受けます。・・・・大陸を隔てて敵対する国々の間に平和がもたらされれば、私たち自身の安全もより確かなものになります(『愛と非暴力』より)。
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似てる。
世界が「縁起」(相互依存)している。だから、自分の利益ばかりを求め続けることは、いずれ世界を滅ぼすようになる、
このような両聖者の言葉は普遍的であり、それであるがゆえに多くの人の魂をゆさぶる。
キング牧師は最後は暗殺されたことが示すように、つねに自らの命の危険に身をさらしつつ、この普遍的な信念をまげることはなかった。
ダライラマ猊下も席の温まるまもなく、チベット難民や彼の教えをまつ人々のもとに行くために世界中をとびまわっていることはよく知られている。
彼らは文字通り自らを省みることなく、一切の生きとし生けるもののために生きているのである。言行一致である。
ダライラマは仏教哲学の大家でありながら、その哲学を誰にでもわかるような平易な言葉でかたりかけてくれる。
ダライラマの講演は、じつによくできている。
だいたい
前半は英語で、仏教の思想を現代的な文脈でとりあげ誰にでもわかる平易な言葉でかたりかける。
そして後半ではチベット語で、その同じ内容を仏教用語を駆使して、伝統的な説法の形で行う。
前半は聴衆の目線で語り、
後半ではチベット仏教の伝統的な講義も行う、
じつに絶妙なバランスなのである。
なによりすごいのは、そこで口にしたことは、いずれも猊下の日頃の生活の中できちんと実践されていることなのである。
このどれか一つを行える人は数多いだろうが、全部をできる人はなかなかおらず、やはりそれができるのはダライラマが聖者だからであろう。
ホンモノは、時代、宗教、国境、人種などの壁をかるがると超えていく。
金剛兄弟
日曜日はチベットの高僧ロサンガワン先生の灌頂を受けに大阪にいった。とてもいい会だった。
仏典には、その経典がいかなる、説く人、場所、時、聴く人、においてなされ、その内容はいかなるものであるかの五つが必ず記される。
最初の四つが完璧であることが、師をして最後の素晴らしい教えを語しめるのである。
そのような意味で、今回の集まりはロサンガワン先生という得難い高僧を師とし、先生をずっと支えてきた大施主の清風学園が会場となり、そして施主となり、晴天吉日が選ばれ、(自分はともかく)聴衆もとてもよい集まりであった。
何か、ブッダガヤの説法会が、そのまま現代の日本に再現されたかのようであった。
今回は前行の途中で、チベット風まぜごはんとお茶が配られ、
「昔は大説法会の時には、何日もかけて法話をしたので、師と弟子は食事をともにして、来世もまた出会える因を造った」ということで、十五分ほどの軽食休憩があった。
つまり、この共食儀礼によって、この一處に集ったものたちは再びなにがしかの時をへて、また、仏の教えを聞くためにどこかで集うというのである。
うーん、ファンタスティック
17世紀に、モンゴルのアルタン=ハーンは、ダライラマ三世とあった時、ダライラマ三世はハーンに
「あなたとは私は今初めてあったのではない。遠い昔、汝はフビライ=ハーンとして、私は僧パクパとして東方に仏教を伝えた。われわれは今生においても東方に仏教の太陽をあげよー」といい、
これにガビーンときたアルタン=ハーンは、
「今生もやったるでえ」
とばかりに、モンゴルにおいて衰えていたチベット仏教を復興させ、その後300年間、(社会主義の嵐が訪れる前)モンゴル高原にチベット仏教が栄える契機をつくった。
チベットの高僧の謦咳に接してさまざまな会に参加していると、こういう歴史書の一節一節が当時の文脈で理解できる。
そして、式の最後、ロサンガワン師は、十四のサマヤ戒をわれわれに授けた。
今、この時、灌頂を受けた聴衆を「金剛兄弟」と呼び、仲良くするように結んだ。
つまり、この儀式で一處に会したわれわれは、仏様の子どもとなって生まれ変わったのだから、「兄弟」なのである。そいで本尊が密教の仏だから、「金剛」(ダイヤモンドの武器=何物にも壊されない仏の境地を暗示)なのだ。
またまた歴史話で恐縮なんだけど、清朝最盛期の皇帝、乾隆帝は即位の九年目に、チベット僧チャンキャからチャクラサンヴアラの灌頂を授かって、その時、一緒に灌頂をうけた二人の高僧に向かって
「汝らと我はこれから金剛兄弟だな」と言ったセリフがあった。
乾隆帝はその後の人生をかけて命の限りチベット仏教の振興につくし、チベットの高僧を厚遇した。なぜ彼があんなに真剣だったのか、今ならわかる。
このような伝統を昔から現代にいたるまで続けているチベット人はすごい。
神秘と論理を共存させ、古代と現代がともにある、チベット仏教はやはりすごい。
仏典には、その経典がいかなる、説く人、場所、時、聴く人、においてなされ、その内容はいかなるものであるかの五つが必ず記される。
最初の四つが完璧であることが、師をして最後の素晴らしい教えを語しめるのである。
そのような意味で、今回の集まりはロサンガワン先生という得難い高僧を師とし、先生をずっと支えてきた大施主の清風学園が会場となり、そして施主となり、晴天吉日が選ばれ、(自分はともかく)聴衆もとてもよい集まりであった。
何か、ブッダガヤの説法会が、そのまま現代の日本に再現されたかのようであった。
今回は前行の途中で、チベット風まぜごはんとお茶が配られ、
「昔は大説法会の時には、何日もかけて法話をしたので、師と弟子は食事をともにして、来世もまた出会える因を造った」ということで、十五分ほどの軽食休憩があった。
つまり、この共食儀礼によって、この一處に集ったものたちは再びなにがしかの時をへて、また、仏の教えを聞くためにどこかで集うというのである。
うーん、ファンタスティック
17世紀に、モンゴルのアルタン=ハーンは、ダライラマ三世とあった時、ダライラマ三世はハーンに
「あなたとは私は今初めてあったのではない。遠い昔、汝はフビライ=ハーンとして、私は僧パクパとして東方に仏教を伝えた。われわれは今生においても東方に仏教の太陽をあげよー」といい、
これにガビーンときたアルタン=ハーンは、
「今生もやったるでえ」
とばかりに、モンゴルにおいて衰えていたチベット仏教を復興させ、その後300年間、(社会主義の嵐が訪れる前)モンゴル高原にチベット仏教が栄える契機をつくった。
チベットの高僧の謦咳に接してさまざまな会に参加していると、こういう歴史書の一節一節が当時の文脈で理解できる。
そして、式の最後、ロサンガワン師は、十四のサマヤ戒をわれわれに授けた。
今、この時、灌頂を受けた聴衆を「金剛兄弟」と呼び、仲良くするように結んだ。
つまり、この儀式で一處に会したわれわれは、仏様の子どもとなって生まれ変わったのだから、「兄弟」なのである。そいで本尊が密教の仏だから、「金剛」(ダイヤモンドの武器=何物にも壊されない仏の境地を暗示)なのだ。
またまた歴史話で恐縮なんだけど、清朝最盛期の皇帝、乾隆帝は即位の九年目に、チベット僧チャンキャからチャクラサンヴアラの灌頂を授かって、その時、一緒に灌頂をうけた二人の高僧に向かって
「汝らと我はこれから金剛兄弟だな」と言ったセリフがあった。
乾隆帝はその後の人生をかけて命の限りチベット仏教の振興につくし、チベットの高僧を厚遇した。なぜ彼があんなに真剣だったのか、今ならわかる。
このような伝統を昔から現代にいたるまで続けているチベット人はすごい。
神秘と論理を共存させ、古代と現代がともにある、チベット仏教はやはりすごい。
恐るべき子どもたち
昨日梅雨入りしたかと思ったら、今日はもうすっきり晴れている。今年は
「一日梅雨」か。
ここまで異常が続くと異常も日常。
季節の変わり目のせいかダルイ。
しかし、多かれ少なかれ一年中365日ダルイので、これは私が怠け者なだけなのかも。
でも、季節は常時動いていて諸行無常なわけだから年中季節の変わり目だから、正当に体がダルイのかもしれない。
アメリカでパリスヒルトンなるお嬢サマが、常識はずれの行動をとって笑いものになっている。
なんでも、小さな頃から何一つガマンしたことがなく、自分がしたいことを、本能と気の赴くまま、法律とか世間の目とかまったく気にせず、やっちゃうらしい。
入場料が30万円というチャリティパーティで、
ねぎる。
また、パーティでおトイレにいって行列ができていたら、
その場でおもらし。
免停中だろうが、なんだろうが車は運転。
業を煮やした警察が刑務所に入れたら、一晩中泣き明かし、まわりの囚人大迷惑。
これは、お嬢サマでガマンをしらないというよりは、ちょっと●りないのでは、また、もし●りないのだとすると、その奇行を楽しんで癒されているアメリカ人ってかなーり、疲れているなと思うのであった。
でだ。
なぜこんな話をしたかというと、わたしがパリスヒルトンのような奇行女だからではなく(反論はいっさい受け付けません)、本日のダンナの衝撃の体験のまえふりなのだ。
ダンナは某駅前の□ブン・イレ△ンでごろうちゃんにさしあげる出雲の水を買うべくレジに並んでいた。
夕食時で駅前ということもあり、店は混雑してレジまちの時間は長い。ダンナの前には幼稚園の制服をきた女の子をつれた若いお母さんが並んでいた。
すると、いきなりその女の子、パリスヒルトンばりに、おもらし。
日本人笑いしながら堂々と。
いくら子供とはいえ、多少の羞恥心とかないのか。
それを掃除する店の人とかに悪いと思わないのか。
某私立幼稚園の制服をきているのだから、お受験を突破する頭はもっているわけで、●りないわけじゃない。しかし、情操教育には明らかに問題がある。
話は変わるが、三週間くらい前のおなじ金曜日、全国放送されたので知っている人も多いが、高田馬場ちかくのスーパーオリンピックで火災がおきた。
大火災で、火事のにおいは学校にまで漂ってきた。
当初から、花火コーナーで火遊びしていた子供が犯人ではないかと云われていたが、二~三日前、犯人として十歳の子供がつかまった。
何とこの子供、お母さんと一緒にオリンピックにきたまでは認めたが、火をつけたことについては、
「〔捜査員には〕教えない」といったのだそうな(笑)。
「十歳にして、黙秘権」。
孔子もひっくりかえる末恐ろしさ。
たてものの被害を含めて億の損失だというのに、80台の消防車が出動する大騒動になったというのに、
「教えない」らしい。
フツーの神経だったら、自分のしたいたずらで思っても見ないオオゴトになってしまったなら、不安で不安で、はやく自分の罪を誰かに告白して楽になろうとするもんじゃないか?
アンファン・テリブル(by ジャン・コクトー)。
【と書いたら、読者より、オリンピックで火をつけた子は、「知的障害を抱えていた」とのご指摘を受けました。
専門家でないので、知的障害のある子どもがオオゴトをしてしまった場合どのような反応をするかはわかりませんが、情報としてつけくわえておきます。】
孔子もいっている。
己の欲するがままにふるまっていいのは、まじめに生きてて、かつ70歳こえてから。
人格を陶冶すべく努力し続けても、70すぎなきゃ人に迷惑かけない境地にはなれないという意味だ。
裏返せば、70より若い場合、また、自分を省みないままいたずらに年とって70すぎた人間は、本能の赴くままに動けば、人に迷惑をかけちゃう。てーこと。
ところで、儒教だと70こえなきゃみにつかない自制心も、仏教だともっと低年齢でゲットできる。
それは人の行いをシステマティツクに矯正する「戒律」という学問があるから。
戒律は出家した人々の規則であり、放っておくと暴走する体と心と言葉を「戒め律する」ための諸規則である。
服装、歩きかた、歩いている時の視線のおとしさき、立ち居振る舞い、食事の仕方と、日常生活全般の動作にそれはもう細かい項目があり、いろいろな規定を加えている。
この戒律にのっとって動くものは、あら不思議、誰でも、他の生き物に迷惑をかけたり、不快感を与えたりしないように自然となる。
ご用とお急ぎでない方は、この戒律を一度じっくりみてみてください。本当によく考えられています。
ここクリック。
ちなみに、日本の仏教においては戒律の伝統が途絶えて久しいです。聖職者からしてこうですから、社会が煮くずれるのも仕方ないのかもしれません。
「一日梅雨」か。
ここまで異常が続くと異常も日常。
季節の変わり目のせいかダルイ。
しかし、多かれ少なかれ一年中365日ダルイので、これは私が怠け者なだけなのかも。
でも、季節は常時動いていて諸行無常なわけだから年中季節の変わり目だから、正当に体がダルイのかもしれない。
アメリカでパリスヒルトンなるお嬢サマが、常識はずれの行動をとって笑いものになっている。
なんでも、小さな頃から何一つガマンしたことがなく、自分がしたいことを、本能と気の赴くまま、法律とか世間の目とかまったく気にせず、やっちゃうらしい。
入場料が30万円というチャリティパーティで、
ねぎる。
また、パーティでおトイレにいって行列ができていたら、
その場でおもらし。
免停中だろうが、なんだろうが車は運転。
業を煮やした警察が刑務所に入れたら、一晩中泣き明かし、まわりの囚人大迷惑。
これは、お嬢サマでガマンをしらないというよりは、ちょっと●りないのでは、また、もし●りないのだとすると、その奇行を楽しんで癒されているアメリカ人ってかなーり、疲れているなと思うのであった。
でだ。
なぜこんな話をしたかというと、わたしがパリスヒルトンのような奇行女だからではなく(反論はいっさい受け付けません)、本日のダンナの衝撃の体験のまえふりなのだ。
ダンナは某駅前の□ブン・イレ△ンでごろうちゃんにさしあげる出雲の水を買うべくレジに並んでいた。
夕食時で駅前ということもあり、店は混雑してレジまちの時間は長い。ダンナの前には幼稚園の制服をきた女の子をつれた若いお母さんが並んでいた。
すると、いきなりその女の子、パリスヒルトンばりに、おもらし。
日本人笑いしながら堂々と。
いくら子供とはいえ、多少の羞恥心とかないのか。
それを掃除する店の人とかに悪いと思わないのか。
某私立幼稚園の制服をきているのだから、お受験を突破する頭はもっているわけで、●りないわけじゃない。しかし、情操教育には明らかに問題がある。
話は変わるが、三週間くらい前のおなじ金曜日、全国放送されたので知っている人も多いが、高田馬場ちかくのスーパーオリンピックで火災がおきた。
大火災で、火事のにおいは学校にまで漂ってきた。
当初から、花火コーナーで火遊びしていた子供が犯人ではないかと云われていたが、二~三日前、犯人として十歳の子供がつかまった。
何とこの子供、お母さんと一緒にオリンピックにきたまでは認めたが、火をつけたことについては、
「〔捜査員には〕教えない」といったのだそうな(笑)。
「十歳にして、黙秘権」。
孔子もひっくりかえる末恐ろしさ。
たてものの被害を含めて億の損失だというのに、80台の消防車が出動する大騒動になったというのに、
「教えない」らしい。
フツーの神経だったら、自分のしたいたずらで思っても見ないオオゴトになってしまったなら、不安で不安で、はやく自分の罪を誰かに告白して楽になろうとするもんじゃないか?
アンファン・テリブル(by ジャン・コクトー)。
【と書いたら、読者より、オリンピックで火をつけた子は、「知的障害を抱えていた」とのご指摘を受けました。
専門家でないので、知的障害のある子どもがオオゴトをしてしまった場合どのような反応をするかはわかりませんが、情報としてつけくわえておきます。】
孔子もいっている。
己の欲するがままにふるまっていいのは、まじめに生きてて、かつ70歳こえてから。
人格を陶冶すべく努力し続けても、70すぎなきゃ人に迷惑かけない境地にはなれないという意味だ。
裏返せば、70より若い場合、また、自分を省みないままいたずらに年とって70すぎた人間は、本能の赴くままに動けば、人に迷惑をかけちゃう。てーこと。
ところで、儒教だと70こえなきゃみにつかない自制心も、仏教だともっと低年齢でゲットできる。
それは人の行いをシステマティツクに矯正する「戒律」という学問があるから。
戒律は出家した人々の規則であり、放っておくと暴走する体と心と言葉を「戒め律する」ための諸規則である。
服装、歩きかた、歩いている時の視線のおとしさき、立ち居振る舞い、食事の仕方と、日常生活全般の動作にそれはもう細かい項目があり、いろいろな規定を加えている。
この戒律にのっとって動くものは、あら不思議、誰でも、他の生き物に迷惑をかけたり、不快感を与えたりしないように自然となる。
ご用とお急ぎでない方は、この戒律を一度じっくりみてみてください。本当によく考えられています。
ここクリック。
ちなみに、日本の仏教においては戒律の伝統が途絶えて久しいです。聖職者からしてこうですから、社会が煮くずれるのも仕方ないのかもしれません。
やめる勇気(これは勇気なのか)
「西暦1048年から1089年までの間、中国とチベットの間では蘭洲方面の国境地帯で紛争が起こり、中国のホチャンは前後あわせて60000人のチベット人を殺し、将軍自身も戦闘中に死んだ事は、中国の史書の中に明記されている。」
これは今飜訳中のチベット文からの一節である。
「ホチャン」は明らかに中国人であるから、漢字で名前を訳したい。また、典拠となった歴史書の名前を注記した方が読む人の信用も得られる。
でも、何だよ「中国の史書」って。
固有名詞をあげてくれ。
仕方ないので、時代からいって『宋史』だろうと思い、『宋史』に「蘭州 六萬」で検索をかけてみるも、いまいち。
「蘭州 吐番」でもいまいち。
そのほかいろいろの検索語をかけてみるもどうもはかばかしくないので、今度はネットを捨てて、リアル『宋史』を手にして、「列伝」からホーチャンという発音があたりそうな人物の伝記をかたっぱしからあたる。
該当者見つからず。
それでチベット医学の勉強会であったNさんに聞いてみると、
"hr"は現代中国語の"sh"をうつすので、ショーチャンじゃないかというので、再びショーチャンと読める人で該当の伝記があるかを捜すが、やはりダメ。
「典拠探し」というのは一度はじめると結果がでるまでやめられない。
よく、敦煌あたりから出土した経典の破片に何という経典の何という一節かが注記されているが、あれが可能となる背景には、一学者がそのリソースを傾けて、大変な時間と労力をかけて、膨大な大蔵経の中からその一節をさがしあてているのである。
しかも、その典拠探しをやってる学者は、好きでやっているというよりは、気になって気になって仕方ないので、ついついやり続けてしまっているのである。投入した労力に比べて、結果はささやか。なのに、ついついのめりこんでしまうのは、
「この人がこのようなことを書くのは何か必ず根拠があってのこと、だから、その根拠を見つけねば」、という一念があるからである。
こうしてワタクシ、あっという間に一日が、二日が、三日がつぶれました。
それはもう音をたてて、グシャッとつぶれる。
その上、リアルとパソコン上のテクストと検索画面をなんども往復しているうちに、頭痛・かすみ眼・イライラ感ももれなくついてくる。
そこで、疲れ目対策に、奥義「ヤツメウナギの肝」を飲む。
八つも目があるだけあり(実は六つは呼吸孔らしい)、ヤツメウナギは目にいい。
「キモ」というだけあって、キモイ。

学生に課題をだして、「かくかくしかじかの関係の本を調べてごらん」とここまで指定しても、
1.まったく調べてこない
2.ちょっと調べて分からないとそこで投げ出し、「じゃ、こっちから調べてみようか」とかいう「分かるまで追求する」という熱意がない
こんなのが必ずいる。
しかし、このような反応は不思議でならない。「人生の意味」のような、答えのでない問題を追求しろ、といっているのではない。すごく具体的な一つの事柄について、その典拠を調べてね、というのである。
何であれ答えがでることが予想されているのに、分からないまま放置しておいて、簡単に「わかりませんでした」という結論にとびつくのは、あまりにも安易。
答えのでないことをグジグジ悩むのは不健全であるが、答えがでることが分かっていながら、答えをださないのも不健全である。
しかして、答えが出ることが分かっているテーマであっても、ズルズル続けるというのも不健全な気がする。そもそも自分は宋代のチベット史を専門としていないのだから、このまま続けても時間がかかるぱかり。
とりあえず、
雪山登山で頂上を前にして悪天候に遭遇したときではないが、「不完全燃焼ではあるものの、総合的な判断から登山とりやめ」という勇気も大切なような気がしてきた。
これは今飜訳中のチベット文からの一節である。
「ホチャン」は明らかに中国人であるから、漢字で名前を訳したい。また、典拠となった歴史書の名前を注記した方が読む人の信用も得られる。
でも、何だよ「中国の史書」って。
固有名詞をあげてくれ。
仕方ないので、時代からいって『宋史』だろうと思い、『宋史』に「蘭州 六萬」で検索をかけてみるも、いまいち。
「蘭州 吐番」でもいまいち。
そのほかいろいろの検索語をかけてみるもどうもはかばかしくないので、今度はネットを捨てて、リアル『宋史』を手にして、「列伝」からホーチャンという発音があたりそうな人物の伝記をかたっぱしからあたる。
該当者見つからず。
それでチベット医学の勉強会であったNさんに聞いてみると、
"hr"は現代中国語の"sh"をうつすので、ショーチャンじゃないかというので、再びショーチャンと読める人で該当の伝記があるかを捜すが、やはりダメ。
「典拠探し」というのは一度はじめると結果がでるまでやめられない。
よく、敦煌あたりから出土した経典の破片に何という経典の何という一節かが注記されているが、あれが可能となる背景には、一学者がそのリソースを傾けて、大変な時間と労力をかけて、膨大な大蔵経の中からその一節をさがしあてているのである。
しかも、その典拠探しをやってる学者は、好きでやっているというよりは、気になって気になって仕方ないので、ついついやり続けてしまっているのである。投入した労力に比べて、結果はささやか。なのに、ついついのめりこんでしまうのは、
「この人がこのようなことを書くのは何か必ず根拠があってのこと、だから、その根拠を見つけねば」、という一念があるからである。
こうしてワタクシ、あっという間に一日が、二日が、三日がつぶれました。
それはもう音をたてて、グシャッとつぶれる。
その上、リアルとパソコン上のテクストと検索画面をなんども往復しているうちに、頭痛・かすみ眼・イライラ感ももれなくついてくる。
そこで、疲れ目対策に、奥義「ヤツメウナギの肝」を飲む。
八つも目があるだけあり(実は六つは呼吸孔らしい)、ヤツメウナギは目にいい。
「キモ」というだけあって、キモイ。

学生に課題をだして、「かくかくしかじかの関係の本を調べてごらん」とここまで指定しても、
1.まったく調べてこない
2.ちょっと調べて分からないとそこで投げ出し、「じゃ、こっちから調べてみようか」とかいう「分かるまで追求する」という熱意がない
こんなのが必ずいる。
しかし、このような反応は不思議でならない。「人生の意味」のような、答えのでない問題を追求しろ、といっているのではない。すごく具体的な一つの事柄について、その典拠を調べてね、というのである。
何であれ答えがでることが予想されているのに、分からないまま放置しておいて、簡単に「わかりませんでした」という結論にとびつくのは、あまりにも安易。
答えのでないことをグジグジ悩むのは不健全であるが、答えがでることが分かっていながら、答えをださないのも不健全である。
しかして、答えが出ることが分かっているテーマであっても、ズルズル続けるというのも不健全な気がする。そもそも自分は宋代のチベット史を専門としていないのだから、このまま続けても時間がかかるぱかり。
とりあえず、
雪山登山で頂上を前にして悪天候に遭遇したときではないが、「不完全燃焼ではあるものの、総合的な判断から登山とりやめ」という勇気も大切なような気がしてきた。
66●を徴にもつ女
今日は白雪姫の生まれた日。
父母もなくなってから久しいため、自分が本当に人間から生まれたかすら怪しくなってきたこのごろ。
とりあえず、覚えていないン十年前の自分の誕生した日を思うが、
当然のことながら、何も思い出せない。
でも、日大の非常勤をしていた頃にしりあって以来メールし続けてくださっている、△□さんや、早稲田に入ってすぐ、それはもう言うに言われぬ苦労を(回りがか?)していた頃、いろいろアドヴァイスをくれた●×センセなどからおめでとうメールをいただき、また、オカメインコ仲間からもローズ焼酎(仮称)を拝受したりして、何か万感の思いがあふれる。
みなさんなんでこんな勝手な白雪姫に優しくしてくれるのだろう。
ありがとうございます。
ところで、
癌で早世の多いわが家にあって、誕生日は
「父が死んだ年まであと何年」というカウントダウンの暗さと
「この年まで生きられたのはラッキー」という達成感がないまざり、ようは「死」を意識する微妙な日。
で、ヤマーンタカである。
この前言ったかどうか忘れたけど、今度17日にギュメ寺の元管長ロサンガワン師によってヤマーンタカの灌頂が執り行われる。
ギュメ(下密教寺)はゲルク派最大の密教学堂であり、ロサンガワン師は密教の見行をきわめられた高徳の僧である。ダライラマ猊下がカーラチャクラ灌頂などを行い、6000人の僧侶が集まる席で、その最上座にお座りになるような格式の方である。
このヤマーンタカは文殊菩薩の忿怒行であり、仏の境地の二大原理である
この世の人を救う働き(方便=男性原理)と
空を実現した意識(智慧=女性原理)を兼ね備えた尊格として知られ、密教経典の中でも最上級の無上ヨーガタントラ、に属する。
無上ヨーガタントラのホトケのならいとして、ヤマーンタカ尊は顔も手足も一杯ある。
正面に九面をもち、そのうち正面は水牛面であり、手は34本足は16本というスゴイ風体である。
マルコ・ポーロは仏教徒を「手足がいっぱいある偶像を崇拝するものたち」と呼んだが、それはポーロの時代のモンゴル宮廷では、このヤマーンタカのような手足のわさわさあるチベット密教の仏がはやっていたからである。
ちなみに、仏様に手足や顔が一杯あるのは、あらゆる方角にいる命あるものをすべて救済する仏の力とか愛とかを表現するためのものであり、仏教徒は決してこれらの仏様を実体視しない。
で、ヤマーンタカであるが、この方は水牛にのる死神ヤーマ(閻魔)を倒したが故に、その属性を身に帯びているのである。
後期密教の仏たちは、ヒンドゥーの神を倒し、その倒した相手の属性を足の裏からすいあげて、自分の体にとりこんでいった。
ヤマーンタカ(ヤーマを倒すもの)は水牛にすわるヤーマをとりこんだので、水牛の顔をもち、ヤーマの武器もとりこんで、それをもつため手足もふえた。
つまりヤマーンタカは死(ヤーマ)をも超える最強のホトケなのである。
ヤマーンタカが戦勝祈願の本尊にされたのも、じつはこの「死を超える」→「死を操る」性格があったが故である。
お誕生月にギュメの高徳の僧がヤマーンタカの灌頂を授けてくださるのも何かのごえん。何とか「ヤーマ」をだまくらかして、人なみの寿命をまっとうするために、
白雪姫、行きまーす
ヤマンタカ灌頂 情報
導師 元ギュメ寺管長ロサンガワン=リンポチェ
日時 6/17 九時半から十五時三十分(途中一時間休憩)
場所 清風学園南館七階大ホール(大阪市天王寺区石ヶ辻町12-16)
お問い合わせ先 06-6771-5757(内線222 担当山本・梅野)
父母もなくなってから久しいため、自分が本当に人間から生まれたかすら怪しくなってきたこのごろ。
とりあえず、覚えていないン十年前の自分の誕生した日を思うが、
当然のことながら、何も思い出せない。
でも、日大の非常勤をしていた頃にしりあって以来メールし続けてくださっている、△□さんや、早稲田に入ってすぐ、それはもう言うに言われぬ苦労を(回りがか?)していた頃、いろいろアドヴァイスをくれた●×センセなどからおめでとうメールをいただき、また、オカメインコ仲間からもローズ焼酎(仮称)を拝受したりして、何か万感の思いがあふれる。
みなさんなんでこんな勝手な白雪姫に優しくしてくれるのだろう。
ありがとうございます。
ところで、
癌で早世の多いわが家にあって、誕生日は
「父が死んだ年まであと何年」というカウントダウンの暗さと
「この年まで生きられたのはラッキー」という達成感がないまざり、ようは「死」を意識する微妙な日。
で、ヤマーンタカである。
この前言ったかどうか忘れたけど、今度17日にギュメ寺の元管長ロサンガワン師によってヤマーンタカの灌頂が執り行われる。
ギュメ(下密教寺)はゲルク派最大の密教学堂であり、ロサンガワン師は密教の見行をきわめられた高徳の僧である。ダライラマ猊下がカーラチャクラ灌頂などを行い、6000人の僧侶が集まる席で、その最上座にお座りになるような格式の方である。
このヤマーンタカは文殊菩薩の忿怒行であり、仏の境地の二大原理である
この世の人を救う働き(方便=男性原理)と
空を実現した意識(智慧=女性原理)を兼ね備えた尊格として知られ、密教経典の中でも最上級の無上ヨーガタントラ、に属する。
無上ヨーガタントラのホトケのならいとして、ヤマーンタカ尊は顔も手足も一杯ある。
正面に九面をもち、そのうち正面は水牛面であり、手は34本足は16本というスゴイ風体である。
マルコ・ポーロは仏教徒を「手足がいっぱいある偶像を崇拝するものたち」と呼んだが、それはポーロの時代のモンゴル宮廷では、このヤマーンタカのような手足のわさわさあるチベット密教の仏がはやっていたからである。
ちなみに、仏様に手足や顔が一杯あるのは、あらゆる方角にいる命あるものをすべて救済する仏の力とか愛とかを表現するためのものであり、仏教徒は決してこれらの仏様を実体視しない。
で、ヤマーンタカであるが、この方は水牛にのる死神ヤーマ(閻魔)を倒したが故に、その属性を身に帯びているのである。
後期密教の仏たちは、ヒンドゥーの神を倒し、その倒した相手の属性を足の裏からすいあげて、自分の体にとりこんでいった。
ヤマーンタカ(ヤーマを倒すもの)は水牛にすわるヤーマをとりこんだので、水牛の顔をもち、ヤーマの武器もとりこんで、それをもつため手足もふえた。
つまりヤマーンタカは死(ヤーマ)をも超える最強のホトケなのである。
ヤマーンタカが戦勝祈願の本尊にされたのも、じつはこの「死を超える」→「死を操る」性格があったが故である。
お誕生月にギュメの高徳の僧がヤマーンタカの灌頂を授けてくださるのも何かのごえん。何とか「ヤーマ」をだまくらかして、人なみの寿命をまっとうするために、
白雪姫、行きまーす
ヤマンタカ灌頂 情報
導師 元ギュメ寺管長ロサンガワン=リンポチェ
日時 6/17 九時半から十五時三十分(途中一時間休憩)
場所 清風学園南館七階大ホール(大阪市天王寺区石ヶ辻町12-16)
お問い合わせ先 06-6771-5757(内線222 担当山本・梅野)
白雪姫の不徳
木曜日の日は大荒れであった。川崎で雹がふり、新幹線は豪雨で遅れ、庭のもくれんは雨でひっくりかえった。
この日も、わたしはいつものように駅の外に踏み出した。でも傘はない(by 揚水)。
タクシー乗り場はとみると長蛇の列。
とりあえず家に帰っているはずのダンナに電話をして傘を持ってきてもらおうと思ったら、
出ない(後で判明したことによると新幹線の遅れのせい)。
とりあえずスーパーの入り口まで数メートル走ってみた。
数メートルでも、びちょぬれ。こりゃいかん。
スーパーに入って傘をさがすも、傘がない(by 陽水 もういい)。
その時、わたしは今から考えると限りなくアホなでもそのときは英断と思ったものを下した。
「傘もないし、タクシーも行列だし、どーせ濡れて帰るなら、自転車できていることだし、自転車で帰っちゃえ。歩くよりは早いから濡れる時間も短いだろう」
そこで自転車置き場にいく。忘れっぽい私は今朝、自分がどこに自転車を置いたかもわすれている。
もたもた捜しているウチに体はずぶぬれ濡れていき、もはや体のどこにも乾燥している場所はない。
いくも地獄、戻るも地獄。
やけくそになって自転車にのり、三こぎめくらいで、全身から水がしたたり落ち、ニューヨーカーのスーツがぺったりと体にはりつく。
家に帰る頃にはもう水に落ちたような状態でどこからもかしこからも水がぽたぽた、気持ち悪いのなんのって。
その気持ち悪さに、家につくや、水をしたたらせたまま、ダンナのケータイに電話を入れ、
「なんで帰ってないんだ!」とドスのきいた声で怒りまくる。
ところで、
ダライラマ猊下がよく講演でお使いになる『覚りへの道』の「忍耐」の章には
「無限の昔から積み重ねてきた善の徳を怒りは一瞬のうちに焼き尽くす」とかいっているので、温厚とは言い難い白雪姫の善行ポイントはマイナス十の何乗とかになっているはずである。
しかも、その「忍耐」の章の39節に
人に危害を加えるのが人の性質ならば、
人に腹を立てるのは
「焼く」という性質をもつ火に腹を立てるのと同じ。
とかいう条がある。これを説明をする時、こんなこと言わなかったか自分。
「この一節は、人というものは本性人を傷つけるようにできているのだから、イチイチ怒っても無意味である、という意味です。
そうですね、人にコップで水をかけられたら、その人に対して腹を立てるでしょ、
でも突然の雨でズブ濡れになっても、腹がたたないでしょ?だから、腹を立てる合理的根拠なんてないのです 」
とかいっておきながら、思いきり雨に腹をたて、あまつさえダンナに八つ当たりをしている自分、人生ってエニグマね。
自然現象の雨にこれだけ腹をたてる白雪姫は、コップで水をかけられたら、かけた相手は瞬殺かもしれない。
いかん。
きっと、疲れていたのね。 授業をよんコマやったあとで、体調も悪く、土日も学会発表やなんやらがあるので仕事あふれてるし。
というわけで、今から関西いってきます。
もう一度はしか休校こないかな。
この日も、わたしはいつものように駅の外に踏み出した。でも傘はない(by 揚水)。
タクシー乗り場はとみると長蛇の列。
とりあえず家に帰っているはずのダンナに電話をして傘を持ってきてもらおうと思ったら、
出ない(後で判明したことによると新幹線の遅れのせい)。
とりあえずスーパーの入り口まで数メートル走ってみた。
数メートルでも、びちょぬれ。こりゃいかん。
スーパーに入って傘をさがすも、傘がない(by 陽水 もういい)。
その時、わたしは今から考えると限りなくアホなでもそのときは英断と思ったものを下した。
「傘もないし、タクシーも行列だし、どーせ濡れて帰るなら、自転車できていることだし、自転車で帰っちゃえ。歩くよりは早いから濡れる時間も短いだろう」
そこで自転車置き場にいく。忘れっぽい私は今朝、自分がどこに自転車を置いたかもわすれている。
もたもた捜しているウチに体はずぶぬれ濡れていき、もはや体のどこにも乾燥している場所はない。
いくも地獄、戻るも地獄。
やけくそになって自転車にのり、三こぎめくらいで、全身から水がしたたり落ち、ニューヨーカーのスーツがぺったりと体にはりつく。
家に帰る頃にはもう水に落ちたような状態でどこからもかしこからも水がぽたぽた、気持ち悪いのなんのって。
その気持ち悪さに、家につくや、水をしたたらせたまま、ダンナのケータイに電話を入れ、
「なんで帰ってないんだ!」とドスのきいた声で怒りまくる。
ところで、
ダライラマ猊下がよく講演でお使いになる『覚りへの道』の「忍耐」の章には
「無限の昔から積み重ねてきた善の徳を怒りは一瞬のうちに焼き尽くす」とかいっているので、温厚とは言い難い白雪姫の善行ポイントはマイナス十の何乗とかになっているはずである。
しかも、その「忍耐」の章の39節に
人に危害を加えるのが人の性質ならば、
人に腹を立てるのは
「焼く」という性質をもつ火に腹を立てるのと同じ。
とかいう条がある。これを説明をする時、こんなこと言わなかったか自分。
「この一節は、人というものは本性人を傷つけるようにできているのだから、イチイチ怒っても無意味である、という意味です。
そうですね、人にコップで水をかけられたら、その人に対して腹を立てるでしょ、
でも突然の雨でズブ濡れになっても、腹がたたないでしょ?だから、腹を立てる合理的根拠なんてないのです 」
とかいっておきながら、思いきり雨に腹をたて、あまつさえダンナに八つ当たりをしている自分、人生ってエニグマね。
自然現象の雨にこれだけ腹をたてる白雪姫は、コップで水をかけられたら、かけた相手は瞬殺かもしれない。
いかん。
きっと、疲れていたのね。 授業をよんコマやったあとで、体調も悪く、土日も学会発表やなんやらがあるので仕事あふれてるし。
というわけで、今から関西いってきます。
もう一度はしか休校こないかな。
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