はじめての参禅
木曜日、泉岳寺でひらかれる月例の座禅会に参禅した。
白雪姫はオタクなので、結跏趺坐がくめる。
両足の甲を太ももの上にのせ、座った姿がちょうどクフ王のピラミッド型になる、アノいかにもありがたいスタイルである。
はじめて結跏趺坐をやる人はまず片方の足をあげた半跏趺坐しかできない。これだと体が傾くのであまりよろしくない。
初めての人はちょっと早めにお堂に通される。このお堂鎌倉期の建築様式で建てられているので、ムードがもりあがりまくる。たちこめるお香のにおい、掲げられた御簾、暗い本堂、そこにともる灯明、
座禅ムード満点。
ほぼ中央に座ったので、本堂を観察しまくる。
若い僧が、座り方について指導してくれるが、簡単なもので質問も受けない。曹洞宗は座禅をもっとも重視する宗派なのだから、形式だけでももう少し気合いいれて指導してほしい。
たとえば、「ただ座れ」というにしても、たとえば「数息観をすると精神が集中しますよ」とか、「何らかの想念が頭に浮かんでも、その心をおってはいけません」とかアドヴァイスすべきことはあるだろう。
うるさい初心者である。
六時半きっかりに太鼓の音とともに座禅がはじまる。
そしてお線香が香炉にたつ。このお線香のもえつきるまでのおよそ四十五分間がお座り時間の一クールである。
町中であるにもかかわらず、堂内はとても静か。
表にはワカケホンセイインコの夕方の雄叫びが聞こえる。このインコはペットショップから逃げた後、たくましく野生化して世田谷あたりで群れをなしているのだが、インドにもいるインコなので、お手軽にインドの深山で座禅しているような気持ちになる。
しばき棒(警策)をもった僧がわれわれの列の間をしずしずと歩く。
横のオバハンは端からこっくりこっくり船をこいでいるが、しばき棒もった僧がくるとがんばって頭をおこす。
白雪姫は「はやくこのオバハンに気付け。そしてしばいたれ」と無念無想の境地にはほど遠い煩悩まみれの座禅。
じつは、心の観察はわりとすきなのだが、「何も心に思い浮かべない」という日本・中国型の精神集中はまったくできない(いばっていうな)。
座禅とはお釈迦様が覚った時のお姿そのままだから、その姿をまねるだけでもありがたい気持ちになる。かつてのお坊さんたちはこの座禅スタイルをくんだまま死に、チベットなんかだとその姿のまま塩漬けにしてミイラにして塔におさめたものだ。
禅僧がみな異常に長生きなのは毎朝座禅しているからというのは有名な話。
座禅スタイルをしてみると自分のゆがんだ背骨と腹筋のなさがよくわかる。ともすれば猫背になりがちな自分にかつを入れつつ、無事一クールを終える。
このあとは、曹洞宗の宗祖道元禅師の主著『正法眼蔵』の講義を、『正法眼蔵』の注釈者としては日本で二本の指に入る河村孝道老師の解説できく。十年前からやっていて本日は「梅花」の章である。
講義はNHK市民講座風にテクストをよみながらその字句を解説するというあの方式。テクストはその場で配布してくださる。13世紀の中国語と日本語ちゃんぽんのテクストを読むので、宗教的な感動を得るというよりは、お勉強をするというかんじ。
白雪姫は「梅花」のテクストを見て勝手にこう解釈した。
仏典では「花」というものは仏教の真理(仏法)を象徴する。太陽(仏法)が昇ると暗闇(煩悩)がきえ、花(人のよい性質=仏になれる可能性)はいっせいにさく。
禅宗には、お釈迦様が在世中に霊鷲山の上で優曇華の花を手にしたところ、それをみた弟子のマハーカーシャパがにっこりほほえんだ、という「拈華微笑」(ねんげみしょう)という故事がある。
これはお釈迦様が花をとったことを、マハーカーシャパがお釈迦様が弟子たちに法(優曇華によって象徴)を伝えようするサインだ、と以心伝心でさとって笑ったものと思われる。
で、梅花である。
道元禅師は仏法を求めて中国にいき、そこで如浄という得難いお師匠様と出会った。そして、お釈迦様が覚りを開いた記念日の十二月八日(臘八)の日、如浄は、臘八記念講演で、
「お釈迦様の覚りは、一面の雪の中に一輪だけさいた梅の花である」といった。
これを聞いた瞬間、道元禅師は、如浄のいう「梅の花」は、お釈迦様における優曇華の花であると覚った。つまり、自分はお釈迦様の教えをまとめて後世に伝えたマハーカーシャパの立場にいることに気づいたのである。
梅の花(人の中にある仏になれる可能性)が花開くと、春がはじまる。今は一輪だが春たけなわともなれば他の花もどんどん花開いていく、世界は梅の花でいっぱいとなり、その香りでみたされていく。
梅花の講義を聴いた時、道元禅師の眼には、仏法がインドから中国へ、中国から自分によって日本につたわり、春がどんどんたけなわになっていくその様がみえたのである。
道元禅師は師子相承の悠久の歴史に自分が参入するという宗教的感動にふるえたことであろう(たぶん)。
ありがたいのう。
白雪姫の話をするのもおこがましいが、チベットのお坊さんから灌頂儀礼などの場で、
「あなたが今授かった法は、お釈迦様からはじまってインドの誰それ論師を経由して、かれかの時代にチベットに入り、チベットに入ってからはこれこれで、そして今あなたにこれをつたえる」
と言われると、何かほんのりと「(できる範囲内で)日本でチベット仏教を紹介しなきゃなー」と使命感のようなものを感じる。道元禅師がこの「梅花」の説法を聞いた時には、この何百倍もの感動があったことは疑いない。
『正法眼蔵』の提唱をはじめて聞く今回、いかにも『正法眼蔵』らしいこの「梅花」の章にあたったのは、何かとても仏縁を感じる。
ちなみに、この参禅会と講義は事前予約もしなくてよし、参加費も無料。いい仕事してますね、泉岳寺。
余談であるが、如浄は中国人の弟子でも、「やる気のないやつは、寺からでてけえ」と追い出し、日本からきた若僧でも道元のようなみどころがある僧だと、自由に出入りさせて話を聞かせたという。
白雪姫が「この理解できる人だけに法を伝えりゃあいい、というスタンスが仏教の衰退を招いたんじゃないの」というと、破顔くん「道元禅師の頃、如浄のお寺には何千人もいましたからねえ。少々追い出しても大丈夫だったんじゃないですか」とつっこみ。
白雪姫はオタクなので、結跏趺坐がくめる。
両足の甲を太ももの上にのせ、座った姿がちょうどクフ王のピラミッド型になる、アノいかにもありがたいスタイルである。
はじめて結跏趺坐をやる人はまず片方の足をあげた半跏趺坐しかできない。これだと体が傾くのであまりよろしくない。
初めての人はちょっと早めにお堂に通される。このお堂鎌倉期の建築様式で建てられているので、ムードがもりあがりまくる。たちこめるお香のにおい、掲げられた御簾、暗い本堂、そこにともる灯明、
座禅ムード満点。
ほぼ中央に座ったので、本堂を観察しまくる。
若い僧が、座り方について指導してくれるが、簡単なもので質問も受けない。曹洞宗は座禅をもっとも重視する宗派なのだから、形式だけでももう少し気合いいれて指導してほしい。
たとえば、「ただ座れ」というにしても、たとえば「数息観をすると精神が集中しますよ」とか、「何らかの想念が頭に浮かんでも、その心をおってはいけません」とかアドヴァイスすべきことはあるだろう。
うるさい初心者である。
六時半きっかりに太鼓の音とともに座禅がはじまる。
そしてお線香が香炉にたつ。このお線香のもえつきるまでのおよそ四十五分間がお座り時間の一クールである。
町中であるにもかかわらず、堂内はとても静か。
表にはワカケホンセイインコの夕方の雄叫びが聞こえる。このインコはペットショップから逃げた後、たくましく野生化して世田谷あたりで群れをなしているのだが、インドにもいるインコなので、お手軽にインドの深山で座禅しているような気持ちになる。
しばき棒(警策)をもった僧がわれわれの列の間をしずしずと歩く。
横のオバハンは端からこっくりこっくり船をこいでいるが、しばき棒もった僧がくるとがんばって頭をおこす。
白雪姫は「はやくこのオバハンに気付け。そしてしばいたれ」と無念無想の境地にはほど遠い煩悩まみれの座禅。
じつは、心の観察はわりとすきなのだが、「何も心に思い浮かべない」という日本・中国型の精神集中はまったくできない(いばっていうな)。
座禅とはお釈迦様が覚った時のお姿そのままだから、その姿をまねるだけでもありがたい気持ちになる。かつてのお坊さんたちはこの座禅スタイルをくんだまま死に、チベットなんかだとその姿のまま塩漬けにしてミイラにして塔におさめたものだ。
禅僧がみな異常に長生きなのは毎朝座禅しているからというのは有名な話。
座禅スタイルをしてみると自分のゆがんだ背骨と腹筋のなさがよくわかる。ともすれば猫背になりがちな自分にかつを入れつつ、無事一クールを終える。
このあとは、曹洞宗の宗祖道元禅師の主著『正法眼蔵』の講義を、『正法眼蔵』の注釈者としては日本で二本の指に入る河村孝道老師の解説できく。十年前からやっていて本日は「梅花」の章である。
講義はNHK市民講座風にテクストをよみながらその字句を解説するというあの方式。テクストはその場で配布してくださる。13世紀の中国語と日本語ちゃんぽんのテクストを読むので、宗教的な感動を得るというよりは、お勉強をするというかんじ。
白雪姫は「梅花」のテクストを見て勝手にこう解釈した。
仏典では「花」というものは仏教の真理(仏法)を象徴する。太陽(仏法)が昇ると暗闇(煩悩)がきえ、花(人のよい性質=仏になれる可能性)はいっせいにさく。
禅宗には、お釈迦様が在世中に霊鷲山の上で優曇華の花を手にしたところ、それをみた弟子のマハーカーシャパがにっこりほほえんだ、という「拈華微笑」(ねんげみしょう)という故事がある。
これはお釈迦様が花をとったことを、マハーカーシャパがお釈迦様が弟子たちに法(優曇華によって象徴)を伝えようするサインだ、と以心伝心でさとって笑ったものと思われる。
で、梅花である。
道元禅師は仏法を求めて中国にいき、そこで如浄という得難いお師匠様と出会った。そして、お釈迦様が覚りを開いた記念日の十二月八日(臘八)の日、如浄は、臘八記念講演で、
「お釈迦様の覚りは、一面の雪の中に一輪だけさいた梅の花である」といった。
これを聞いた瞬間、道元禅師は、如浄のいう「梅の花」は、お釈迦様における優曇華の花であると覚った。つまり、自分はお釈迦様の教えをまとめて後世に伝えたマハーカーシャパの立場にいることに気づいたのである。
梅の花(人の中にある仏になれる可能性)が花開くと、春がはじまる。今は一輪だが春たけなわともなれば他の花もどんどん花開いていく、世界は梅の花でいっぱいとなり、その香りでみたされていく。
梅花の講義を聴いた時、道元禅師の眼には、仏法がインドから中国へ、中国から自分によって日本につたわり、春がどんどんたけなわになっていくその様がみえたのである。
道元禅師は師子相承の悠久の歴史に自分が参入するという宗教的感動にふるえたことであろう(たぶん)。
ありがたいのう。
白雪姫の話をするのもおこがましいが、チベットのお坊さんから灌頂儀礼などの場で、
「あなたが今授かった法は、お釈迦様からはじまってインドの誰それ論師を経由して、かれかの時代にチベットに入り、チベットに入ってからはこれこれで、そして今あなたにこれをつたえる」
と言われると、何かほんのりと「(できる範囲内で)日本でチベット仏教を紹介しなきゃなー」と使命感のようなものを感じる。道元禅師がこの「梅花」の説法を聞いた時には、この何百倍もの感動があったことは疑いない。
『正法眼蔵』の提唱をはじめて聞く今回、いかにも『正法眼蔵』らしいこの「梅花」の章にあたったのは、何かとても仏縁を感じる。
ちなみに、この参禅会と講義は事前予約もしなくてよし、参加費も無料。いい仕事してますね、泉岳寺。
余談であるが、如浄は中国人の弟子でも、「やる気のないやつは、寺からでてけえ」と追い出し、日本からきた若僧でも道元のようなみどころがある僧だと、自由に出入りさせて話を聞かせたという。
白雪姫が「この理解できる人だけに法を伝えりゃあいい、というスタンスが仏教の衰退を招いたんじゃないの」というと、破顔くん「道元禅師の頃、如浄のお寺には何千人もいましたからねえ。少々追い出しても大丈夫だったんじゃないですか」とつっこみ。
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