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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2007/05/28(月)   CATEGORY: 未分類
まわる~まーわる~よ、輪廻はまわる~
 『Tibet Tibet』というドキュメンタリー映画の監督のキムスンヨン(金森太郎)氏が沖縄から仕事で上京してきて、聞きたいことがあるというので、自宅最寄り駅まできてもらい初対面する。「民族区分は幻想である」やチベット仏教話でもりあがる。その中で彼が

 「六道輪廻(天・阿修羅・人・畜生・餓鬼・地獄)とは人の意識のありようではないか、具体的に言えば、天は遊んでばかり、畜生は本能のままにいき、餓鬼は精神的に満たされない、阿修羅は闘いたい人の意識ではないか? 」と質問してきたので、

 私「もちろんあなたが言った解釈とは微妙に違うけど、チベットでも六道輪廻をそれぞれ人の意識の状態と考えることはあるよ。でも同時に本当にそういう世界が客観的に実在するとも考えているよ」

 と答える。じつは輪廻は現代仏教界においてとってもセンシティブな問題。

 この輪廻思想が過去のある時期社会差別や格差を助長したという意見があり、その反省から、現代仏教界では「輪廻は客観的にはない」ことにしている宗派が多い。

 まー、あれだな。

 ビンボーにうまれた人に「あんた前世に金持ちだった時、ケチで弱者に施さなかったから今ビンボーに生まれたんだよ」といか言ったら、ビンボーに生まれて苦労している人に精神的ダメージを与えるばかりか、自業自得なんだからあきらめろ、といってるようなもんだ。これじゃー、万民平等を原則とする民主主義も、ビンボー人が金持ちを倒し革命することを善とする社会主義も勢いがつかない。
 
 あと、初期仏教の経典によると、お釈迦様は十四無記といって、「死後、意識はどこにいくか」などのわからん問題十四題については答えなかったという有名な説話があるため、これも輪廻が否定される一つの根拠となっている。

 しかし、そもそも輪廻思想は差別思想ではないし、仏教の典籍の大半は輪廻の実在を前提として説かれている。

 輪廻とは「いいことをすればいいことがあり、悪いことをすれば悪いことになる」ということを教える、じつに道徳的な教えである。

  この思想が過去に弱者を痛め付ける道具に使われていたとするならば、差別は「自業自得だからその痛みをひきうけろ」と冷たく語った人の心の中にあるのであり、輪廻思想にあるのではない。

 本来の輪廻思想は、「輪廻は始まりのない昔から∞に続いてきたことだから、すべての生き物はかつて自分の母となり自分を慈しんでくれだことがあるものである。だからすべての生き物を母を愛するように平等に愛し慈しまねばならない」という美しき究極の平等思想なのである。

 相手がビンボーだろうが、みにくかろうが、動物だろうが、○×民族であろうが、△□教徒であろうが、なんだろうが、そのすべてをひっくるめて自分の未来の姿、過去の姿であるとして生き物を平等に愛する思想なのである。
 
 また、来世があるから人は「今の自分を客観的によくしよう」と思うのではないか。来世がないと思えば「アンタ癌であと数ヶ月の命ですよ」と告知されたら、「チクショー、銀行強盗でもなんでもやって、その金で最後ぱーっと派手に遊んでやる」なんて気持ちになることもあるかもしれない。

 でも来世があると思えば、「来世のために、残る人生はできるだけ善いことをしよう。そして穏やかな気持ちで死を迎えよう。」と考えることもあろう。いい教えじゃん。

 さらにいえば、歴史時代を通じて現れた仏教の聖者の大半--ツォンカパにせよ、最澄にしろ、親鸞にせよ--が、「輪廻が実在する」とみなが信じている時代に出現し、輪廻の実在を前提として教えを説いている。

 過去の聖者たちはむろん善の文脈でこの輪廻思想を説いているのである。

 最後に彼が、

「最近この"地獄"のゾーンに、中国人に拷問されるチベット人の絵が描かれている六道輪廻図を見たことがあるが、輪廻をこのように解釈するのはアリか」と聞いてきた。

ので私は

「"痛み"を一般的に表現する絵なら問題ないだろうけど、特定の民族に対して怒りや恨みを喚起するような絵は、怒りや欲望をすてることをテーマとする仏教絵画としてはふさわしくないだろう。また、長く伝統的な形式によって描かれてきたものを、画家個人の体験によって変更することは、多くの人には受け入れられない」と答える

 その精神を理解せずに安易に、伝統を現代風に解釈するのは、とてもキケン。

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DATE: 2007/05/25(金)   CATEGORY: 未分類
はじめての参禅
木曜日、泉岳寺でひらかれる月例の座禅会に参禅した。

白雪姫はオタクなので、結跏趺坐がくめる。
両足の甲を太ももの上にのせ、座った姿がちょうどクフ王のピラミッド型になる、アノいかにもありがたいスタイルである。

はじめて結跏趺坐をやる人はまず片方の足をあげた半跏趺坐しかできない。これだと体が傾くのであまりよろしくない。

初めての人はちょっと早めにお堂に通される。このお堂鎌倉期の建築様式で建てられているので、ムードがもりあがりまくる。たちこめるお香のにおい、掲げられた御簾、暗い本堂、そこにともる灯明、

 座禅ムード満点。

ほぼ中央に座ったので、本堂を観察しまくる。

若い僧が、座り方について指導してくれるが、簡単なもので質問も受けない。曹洞宗は座禅をもっとも重視する宗派なのだから、形式だけでももう少し気合いいれて指導してほしい。

たとえば、「ただ座れ」というにしても、たとえば「数息観をすると精神が集中しますよ」とか、「何らかの想念が頭に浮かんでも、その心をおってはいけません」とかアドヴァイスすべきことはあるだろう。

うるさい初心者である


六時半きっかりに太鼓の音とともに座禅がはじまる。
そしてお線香が香炉にたつ。このお線香のもえつきるまでのおよそ四十五分間がお座り時間の一クールである。

 町中であるにもかかわらず、堂内はとても静か。

 表にはワカケホンセイインコの夕方の雄叫びが聞こえる。このインコはペットショップから逃げた後、たくましく野生化して世田谷あたりで群れをなしているのだが、インドにもいるインコなので、お手軽にインドの深山で座禅しているような気持ちになる。

しばき棒(警策)をもった僧がわれわれの列の間をしずしずと歩く。

横のオバハンは端からこっくりこっくり船をこいでいるが、しばき棒もった僧がくるとがんばって頭をおこす。

白雪姫ははやくこのオバハンに気付け。そしてしばいたれ」と無念無想の境地にはほど遠い煩悩まみれの座禅。

 じつは、心の観察はわりとすきなのだが、「何も心に思い浮かべない」という日本・中国型の精神集中はまったくできない(いばっていうな)。

座禅とはお釈迦様が覚った時のお姿そのままだから、その姿をまねるだけでもありがたい気持ちになる。かつてのお坊さんたちはこの座禅スタイルをくんだまま死に、チベットなんかだとその姿のまま塩漬けにしてミイラにして塔におさめたものだ。

禅僧がみな異常に長生きなのは毎朝座禅しているからというのは有名な話。

 座禅スタイルをしてみると自分のゆがんだ背骨と腹筋のなさがよくわかる。ともすれば猫背になりがちな自分にかつを入れつつ、無事一クールを終える。

 このあとは、曹洞宗の宗祖道元禅師の主著『正法眼蔵』の講義を、『正法眼蔵』の注釈者としては日本で二本の指に入る河村孝道老師の解説できく。十年前からやっていて本日は「梅花」の章である。

 講義はNHK市民講座風にテクストをよみながらその字句を解説するというあの方式。テクストはその場で配布してくださる。13世紀の中国語と日本語ちゃんぽんのテクストを読むので、宗教的な感動を得るというよりは、お勉強をするというかんじ。

 白雪姫は「梅花」のテクストを見て勝手にこう解釈した。

 仏典では「花」というものは仏教の真理(仏法)を象徴する。太陽(仏法)が昇ると暗闇(煩悩)がきえ、花(人のよい性質=仏になれる可能性)はいっせいにさく。

 禅宗には、お釈迦様が在世中に霊鷲山の上で優曇華の花を手にしたところ、それをみた弟子のマハーカーシャパがにっこりほほえんだ、という「拈華微笑」(ねんげみしょう)という故事がある。

 これはお釈迦様が花をとったことを、マハーカーシャパがお釈迦様が弟子たちに法(優曇華によって象徴)を伝えようするサインだ、と以心伝心でさとって笑ったものと思われる。

で、梅花である。

道元禅師は仏法を求めて中国にいき、そこで如浄という得難いお師匠様と出会った。そして、お釈迦様が覚りを開いた記念日の十二月八日(臘八)の日、如浄は、臘八記念講演で、

「お釈迦様の覚りは、一面の雪の中に一輪だけさいた梅の花である」といった。

 これを聞いた瞬間、道元禅師は、如浄のいう「梅の花」は、お釈迦様における優曇華の花であると覚った。つまり、自分はお釈迦様の教えをまとめて後世に伝えたマハーカーシャパの立場にいることに気づいたのである。

 梅の花(人の中にある仏になれる可能性)が花開くと、春がはじまる。今は一輪だが春たけなわともなれば他の花もどんどん花開いていく、世界は梅の花でいっぱいとなり、その香りでみたされていく。

 梅花の講義を聴いた時、道元禅師の眼には、仏法がインドから中国へ、中国から自分によって日本につたわり、春がどんどんたけなわになっていくその様がみえたのである。

 道元禅師は師子相承の悠久の歴史に自分が参入するという宗教的感動にふるえたことであろう(たぶん)。

 ありがたいのう。

白雪姫の話をするのもおこがましいが、チベットのお坊さんから灌頂儀礼などの場で、

「あなたが今授かった法は、お釈迦様からはじまってインドの誰それ論師を経由して、かれかの時代にチベットに入り、チベットに入ってからはこれこれで、そして今あなたにこれをつたえる」

と言われると、何かほんのりと「(できる範囲内で)日本でチベット仏教を紹介しなきゃなー」と使命感のようなものを感じる。道元禅師がこの「梅花」の説法を聞いた時には、この何百倍もの感動があったことは疑いない。

 『正法眼蔵』の提唱をはじめて聞く今回、いかにも『正法眼蔵』らしいこの「梅花」の章にあたったのは、何かとても仏縁を感じる。

 ちなみに、この参禅会と講義は事前予約もしなくてよし、参加費も無料。いい仕事してますね、泉岳寺。

 余談であるが、如浄は中国人の弟子でも、「やる気のないやつは、寺からでてけえ」と追い出し、日本からきた若僧でも道元のようなみどころがある僧だと、自由に出入りさせて話を聞かせたという。

 白雪姫が「この理解できる人だけに法を伝えりゃあいい、というスタンスが仏教の衰退を招いたんじゃないの」というと、破顔くん「道元禅師の頃、如浄のお寺には何千人もいましたからねえ。少々追い出しても大丈夫だったんじゃないですか」とつっこみ。
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DATE: 2007/05/21(月)   CATEGORY: 未分類
仏教的生き方入門(マンセー)
はしかで全学休講になった。

わたしの口を思わずついたのは「マンセー」の一言。

神仏が下さったこの魂の時間、大事に使わせてもらいます。

学会発表の準備もあるし、あの英文書評もかかにゃいかんし、二つも翻訳とめてるし、三月末の締め切りのはもうぶっちぎって二ヶ月だし、不義理の山が少しは小さくなるかも。

何より嬉しいのは、木曜日に仏青で参禅を予定しているのだが、六時半からはじまるのに授業が五時五十分まであるので、授業をはやくおわらなきゃなー、とちょっと心苦しかったのだ。

それが、早めにきりあげ、ど・こ・ろ・か、全学休講だもんねー。

もう数時間前からお寺にいって準備しちゃうもんねー。
座禅のあとは、正法眼蔵の「梅花」の講義だもんねー。

ああ、なんてすばらしい。

この年になって小学生の気持ちにもどれることがあるなんて、人生まだまだ捨てたもんじゃない。
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で、マクラが終わったところで、お知らせ。
osada

 ごぞんじチベット・バックパッカーの神、長田くんが新刊をだしました。

 題して『仏教的生き方入門--チベット人に学ぶがんばらずに暮らす智慧--』

 アノ中国にふんだりけったりの目にあいながらも、それを「忍耐」を学ぶチャンスと自己陶冶にはげみ、どんな苛酷な体験も受け入れ、PTSDとかトラウマとかは無縁な健全な精神をもち、かつ、論理的で知能の高いチベット人。

 息を吸うようにエゴをコントロールすることに長けたチベット人の生き方がチベット人と日常的に接している長田くんならではの豊富なエピソードによって描かれているのでとても読みやすい。

 この本は、何でもかんでも悲観的に考えてしまい、自意識過剰で一歩も前に進めなくなっている、鬱病気味の人とかには、オススメしたい。

 私事だが「ダライラマはもっとひどい目にあってきたけど笑っている。」と考えることによって、わたしはかなーりいろいろなことが気にならなくなった。

 みなさんも、ダライラマやチベットの悲惨な現代史を学び、そのあとこの長田君の本をよんで、いかにチベット人がすごいかを実感してみるといいですよ。

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DATE: 2007/05/19(土)   CATEGORY: 未分類
自我の檻からの脱出
着々と近づいてくる誕生日。
わが家の誕生日は食事に行くくらいでトクベツのイベントはしない。
たまには、プレゼントくらい欲しいものだが、わたしの欲しいものはお金で買えるものではない。
ちなみに、わたしが今欲しいもの

ごろうちゃんの永遠の命
われわれ夫婦の無病息災
庭で毎朝アオゲラをみたい
寛永寺か増上寺の将軍灯籠を庭にほしい(これはギリギリどうにかなるかも)

というわけで、かぐや姫なみにずうずうしいリクエストにダンナが応えられるわけもないのであった。

 母親の首きって自分の首を警察にさしだしたり、警察官を撃ち殺すDV組長とか、最近すさんだ事件が続発している。

 DV組長は「自分がこのような事件を起こした動機をFMラジオ局に話したい」なんていって実際DJと電話で話していたらしいが、

誰も共感するはずもない極私的な動機を、ラジオというマスコミをつかって世界に宣伝したがるあたり、他者に対する共感も自己を顧みる能力にもまったく欠けた、自分の感覚を肥大化させて世界を包み込もうとする、ゆがんだ人格がよくでていた。

 彼は、日常的に妻を殴りつけていたという。
 そして今回、日本では規制されている銃を所持していた上に、発砲して子供をうち、警官を殺した。
 
 彼がいかに「オレがこんなことをしたのは、妻が悪いんだ、子供が悪いんだ、とめにはいった警官が悪いんだ」と叫び続けたところで、彼の行なった数々の悪行は天地人の中で明らかであり、消えることはない。

 この犯人たちに限らず、他者と共感するセンサーがきれ、自分の感情におおいつくされた、自分の問題を他人に転嫁するような個人が、最近、五月のショウジョウ蠅のように異常発生している。
 
 仏教ではエゴを克服して煩悩がなくなると仏になるという。

 この逆でエゴを野放しにしている人は「無明」(まっくら)な状態というが、仏教修辞学でこの無明の同義語は「我にとらわれている状態」「ものにとらわれている状態」「わたしのものであると執着している状態」である。

 つまり、エゴにとらわれた人生はマックラなのだ。
 
 いつも他人が悪くて、自分はかわいそうで、他人は「冷たい」ヤツばかりだ。でもこんな考え方ばかりしていると、人は去っていく。

 なので自分からつきまとうしかなく「ストーキング行為をしていやがらせする」、ひいては「相手を殺して思い切る」、という貧困な選択肢にとびつく。

 こういうのが心の地獄に堕ちるということだな。

 キリスト教や浄土真宗は、こういう底辺の人でも、神や阿弥陀仏によって愛され、哀れまれると説き、最底辺の人々に救いを与えてきたが、裏返せば、人間社会ではだーれも相手にする人がいないから、超人ないし超越的な存在を構想せざるを得なかったとも言える。

 いくところまでいってしまった人はもうこの社会のいかなるシステムによっても救われない。

 木曜日に久しぶりに卒業生と食事をした。彼は仕事で優秀な成績をあげているそうだが、業務の内容があまりやりがいがないので、今年の空前の売り手市場をうけてより有利な転職を考えているという。

 彼いわく、仕事の内容は辞めるくらいだから、いまいちノレなかったわけだが、今まで営業していたお得意様から「君がやめるのならここの●×はもう入れない」といわれたらすごく嬉しくて、この仕事でえた人間関係はよかったです、とのこと。

 そう、人は他人との関係の中からこそ、まことの喜びを得ることができる存在なのだ。「この仕事は自分に合わないから、自分は不幸だ」とくずぐず自分を哀れんで業績もあがらない状態でいたら、会社も自分もつらい。

 しかし、彼はいまいちノレない業務でも、誠実にこなしてお客さんを大切にしたから、笑ってさわやかな転職ができるのだ。
 
 誰だって、おいしいごはんを、一緒に「おいしいね」といって食べてくれる人がいる方が、一人で食べる時よりだんぜんおいしく感じられるだろう。

 これは、人間の本性にはエゴに満ちた部分があると同時に、じつは利他的な性質も持っていることを示している。
 
 自意識過剰で、自分も他人も不幸にしていく人には、まさにこの点を考えて、自己の内にひそむ利他性をひきだす努力をしてほしいと思う。

 (それがムリでも、せめて人にメイワクかけない程度にまでエゴを押さえてほしい)
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DATE: 2007/05/16(水)   CATEGORY: 未分類
洗足池で足ではなく心を洗う
夫婦で学者をしているのでわが家には当然のことながら本があふれている。廊下も戒壇おっと階段も本がつみあがり、すごいことになっている。

 したがって最近は専門に直結する本以外は買い控え、授業で使うような一般的な本は近所の図書館から借りることにしている。

 地域の図書館を書庫にしていればわが家はすっきり片付き(片付いてないだろ)、大田区に治めているバカ高い住民税のもとがささやかにとりもどせるという寸法である(とりもどせてないだろ)。

 しかし、この場合も問題はある。貸し出し中であったり、目指す本が図書館に所蔵されていない場合である。

  最近は図書館同士の連携もよく、一つの図書館になくとも他の図書館からとりよせてくれたり、リクエストすれば買ってくれる。

 ただし、時間がかかる。

 明日の授業で使うのにー、なんて場合は自分でいく方が早い。

 本日も目指す本が貸し出し中で、一番近くて洗足池図書館まで行かねばならなくなった。

 幸い本日は五月晴れで天気もいい。オカメ一号(自転車)こいで洗足池図書館までいく。

 図書館で目指す本をかりて、自転車置き場にいくと、隣が寺であることに気づく。そうだここは日蓮聖人が足を洗ったので洗足池という名前がついたくらいで、日蓮宗の寺くらいあるよな、と門をくぐってみる。

 この前このお寺にきた時は本堂が修復中であったが、完全に終わっている。竹藪があり風の音が涼やか~。

 本堂で手を合わせてから池の方に進むと、日蓮聖人袈裟掛の松という霊場があった。私は今までこの寺の門前にある松をそれだと思っていたが、これが本家のよう。

 そばに日蓮聖人の御遠忌550年(となると江戸時代か?)の巨大なおマンダラの碑文もある。

 そのまま池のほとりに向かうと、池の湖面にむかってふなつきばのように階段状に降りていくスペースがあった。

 こみあう洗足池公園に比すと、この岸は、あたかもプライベートビーチのように落ち着いている。

 ちょうど木陰で直射日光も射さないので、階段にすわりこんで、今し方借りてきたばかりの本を読む。

 ●ン十年若かったら、ここで昼寝をするところだが、この年でそれをするとホームレスにみえるので自重する。

 洗足池をわたる新緑の匂いをふくんだ五月の風はとても気持ちいい。

 このここちよさはここが「霊場」であることにもよるかも。お寺とか神社は昔から、俗世とは一線を画した聖なる空間であった。

 寺については最近は僧侶が妻帯するなどずいぶん俗化が進んだが、それでも宗教法人法によって護られたお寺の境内は、資本主義(私有)の餌食となることを免れて、都内にはありえない緑の空間を形成している。

 この幸いにして残った空間は大事にしなくてはいけない。

 最近、お寺は境内に墓地をつくりそれを分譲して収入源にするところが多い。しかし、そういう経営は長い目でみてもあまりうまくいくとは思えない。

 それよりは、木の一本、花の一輪を植え育てることからはじめて、花の時分にそれに誘われてはいってきた人に、世間話からはじめて仏教の話をとくくらいは、やってもいいと思う。

 て、仏教をちゃんと説明できる坊さんは稀少だからムリか。


 
 
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DATE: 2007/05/12(土)   CATEGORY: 未分類
「世界を一つにする」という病
 仏青の例会で破顔くんから、路上でうられていたという葵の御紋スタンプをいただく。
とても嬉しい。

 その後、新しく入ってきた一年の子に仏教のイロハをレクチャーしていると、ドアがノックされた。

 入ってきたのは某宗教団体の宣伝部。五人くらいいたかな。
 彼らは自分たちの団体がいかにすばらしいかという話をはじめた。

 われわれ仏教を勉強しているのをみてとると、彼らは勢いづいて、

 自分たちの宗祖はお釈迦様や道元禅師の生まれ変わりであり、彼らの団体○×はすべての宗教を一つにして、いずれは世界中を幸福にするのだ、という。
 
 人を幸せにするのはいいことだし、世界を平和にするのもいいことだが、

 この「自分を拡大していずれは世界を一つにする」という考え方はひっかかる。

 どんな宗教であれ、どんな思想であれ、人を幸せにできるのであれば(そしてむろん大前提として人に迷惑をかけない限りは)、存在価値があると思う。

 しかし、どんな宗教であれ、どんな思想であれ、自分は正しいのだから、それによって世界を一色にしてしまおうと考えるなら、その時点でその教えは大変に危ういものになっている。

 自分を拡大して世界をおおいつくす、という考えには、他者の存在を否定するエゴイスティックな思考がひそんでいる。

 自分の会社の製品が、世界中の人々に幸せを与える
 自分の団体の教えが、世界中の人々に幸せを与える

 そこには、人々のためといいつつも、現実には他者を拒否した病的なエゴの匂いがまとわりついている。

 たとえば、戦前、国柱会という団体は日本に○ケ経の戒壇をつくり、○ケ経の力により世界平和を実現しようとしてアジアを侵略した。

 これがどのような禍根をわれわれ子孫に至るまで残し、どのように歴史に評価されたかは周知の通りである。
 
 この世界は多様であり、イワシの頭で幸せになれる人もいれば、こりにこった哲学、あるいは、ハードな修行によってしか救われない人もいる。

 すべての病にきく万能薬がこの世のどこにも存在しないように、すべての人を幸せにできる哲学などない。

 だって、人はそれぞれ理解力も知力も体力も異なるから、幸せになるなり方も様々だからである。
 
 そのため、お釈迦様は相手の知能や状況をみて、その人にあわせて対機説法で真理を説いた。

 相手の人のレベルにあわせて、その時その人にとってもっとも有効な教えを説いたのである。
 
 いきつく先は同じ頂上であっても、登山道はいくつあってもいい。

 そして、すべての人がこの短い人生において頂上につけるわけではないのだから、少しでも上にあがれればいい。

 その土地、その人のレベルにあった様々な救いの手段はあっていいのである。

 煩悩ある限りこの生はなんども繰り返される。ダメ人間がいても、少しずつ正道に導いて、何生かかけて最後の部分でいつかは頂上につけばいい。

 とくに八合目以上の道である仏教思想の心髄部分は、修行と哲学ができる人によってのみ理解・実践してもらえればいい、

 うっとりするほど知識人な教えである。

 とはいっても、こうやって余裕かましてきたから、仏教も早大仏青(YBA)も退潮してきたんだよな。

 しかし、感心したのは一年生の子。○×団体を相手にし、ちゃんとしっかり反論している。かれは仏教に興味をもってまだ一ヶ月足らずなのに、エゴをカッパし中道を提示する論法が身に付いている。

 YBAは、サークル活動というにはあまりにもこい人材を養成しているような気がする今日このごろであったった。
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DATE: 2007/05/08(火)   CATEGORY: 未分類
祝! ●×年目の結婚記念日
GWが終わる。五月病の学生はさぞや気が重いことであろう。
ゼミの四年生はぼちぼち内定が出始めている。中にははやばやと就活をやめて

学生A「就活決まったので、ストレス解消に海外いってきます。授業休みますが、就活していると思ってください」

なんて日本からいなくなっちゃうのまでいる。

まあ、この学生は口で言うほど不真面目ではないから笑い話であるが、ホントーにまったく授業に一度もでてこないくせに

「就職きまったので単位ください」

とかいうヤローがいたりするので気が抜けない。

学生生活の最後の年とは長期の休みが取れる最後の年ではなく、
資格のための勉強とかではない純粋な意味での学問ができる最後の年だ。
就活きまったなら授業にでて、知的冒険のできる最後の日々を惜しんで欲しい。

そいえば、五月四日は結婚記念日だった。
世の中にはよく夫が結婚記念日を忘れて夫婦喧嘩になるなんてベタな話があるが、わが家は連休の中日で毎年休みなので忘れる心配もない。

みな、後後のことを考えて、結婚式は旗日にあげよう。

というわけで、今年の結婚記念日は、田園調布倶楽部でイタリアンのランチをいただき、夜はシネコンではじまったばかりのスパイダーマン3を見る。最近は席はインターネットで予約できて会場受け取りなので、待たずにロードショーがかかったばかりのが見られて便利。


 結婚してからずいぶんたつが、「いろんなことがあったねー」とかいう感慨はまったくない。こうして映画みてても出会った当初に映画みてたころと何もかわった感じがしない。

きっと子供がいないからだろうな。

子供がいたら、「●×がまだ小さかった時、三人でどこそこにいったわよねー。」とかいう思い出話が∞にあって、月日の経過が実感できる。

ちなみに、二人の間でイグアスの滝のように愛情をそそがれてきた御年10才のオカメインコごろうちゃんは、相も変わらず童顔で愛くるしいエンジェルのままなので、月日の経過などまったく実感できない。

スパイダーマンの第一作目はちょうど2001年に封切り予定で、911のあと、急遽WTO→摩天楼の映像にさしかえたという記憶があるから、三作目の今年は六年後のものか。

アメリカ人が造っているにしては、ヒーローが等身大で、言うことも真っ当で(「偉大なる力には偉大なる責任がともなう」「復讐よりも許すことが大切」「ヒーローは必要とあれば自分の夢を諦めねばならない」etc.)、やることも真っ当で、どこかの宇宙人なんかよりゃ(スーパーマンともいう)わたしは好きだ。

 しかし前二作に比べ今回は脚本が甘い。見てもらえばわかるけど、とにかくストーリーが後づけ・こじつけ。

 それに、幼なじみのメリージェーン(ブサイク)に結婚を断られて(メリージェーンは実はゴブリンジュニアにそう言わされているのだが)、黒スパイダーマンになって彼女にいやがらせをするのは、スバイダーマンのアイデンティティにかかわるのでやめてほしい。

スパイダーマンは、これまでこのブサイク女が自分以外の男(複数)にふらふらしようと、アホでヘタレな親友が逆恨みしてこようと、その友人の父ちゃんから殺されかけようと、タコ博士におそわれようと、どんなに報われなくとも無料でアメリカ人を救ってきた。

 報われなくともひたすら自己を犠牲にして公に奉仕する、それがスバイダーマンだからだ。
 その彼の姿はあたかもキリストか菩薩様のようであり、これがハリウッド映画らしからぬ奥行きをこの作品に与えていた。

 なのによりにもよって、彼が純愛の対象としてきたメリージェーンを傷つけるというんだったら、こりゃすでにスバイダーマンのテーマがなくなっているつの。

 何作つくってもいーから、一本スジは通して欲しい。

自分の娘を出演させてよろこんでる場合じゃないよ、サム・ライミ監督。
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DATE: 2007/05/05(土)   CATEGORY: 未分類
護国寺・伝通院徳川ツァー
GWに早大生有志をつのって、「護国寺と伝通院江戸ツァー」に行く。
護国寺は五代将軍綱吉の母(桂昌院 俗名お玉)がたてた寺で、江戸の大火と廃仏毀釈と関東大震災とアメリカの空爆を奇跡的に生き延びた元禄期のお堂で有名である。

ちなみに、将軍様の母は、じつは前身は京都の大徳寺近辺にあった八百屋の娘。すっごい美人で評判で、家光にみそめられて、大奥にあがった。以来みぶん違いのエライ殿方に嫁ぐ女性を「玉の輿」というようになった。

 ちなみにかつてうちのダンナにこの由来についていった時、

「『美人』に生まれているという時点で、すでに『身分』と同様の価値を手にしているのだから、思いもかけない良縁にめぐりあう『玉の輿』の語源にはふさわしくない」と理屈をこねられた。
 
 折しもゴールデンウィークの護国寺にはチベットのナムゲル寺から僧侶十名がきて、護摩・チャム(舞踊)・灌頂など行うチベットフェスティバルも開かれている。新聞で紹介されたり、無料であることもあり、お客さんがわんさか来ている。

 どのくらいわんさかかというと本堂にある薬師如来の砂曼荼羅をみるために、不老門のあたりから延々並ばねばならない。

 ちなみに、不老門の額は16代将軍になったかもしれない、家達の書で、本堂の「悉地院」の扁額は五代将軍綱吉の手である。あー、ありがたい。

 しかも、GW中、お玉さんの念持仏の瑪瑙の如意輪観音様と薬師堂の薬師仏もご開帳。仏像マニア「お好きな方にはたまらない」ラインナップである。

 本堂の砂曼荼羅と瑪瑙の観音様をおがみ、薬師堂をまわり、桂昌殿に向かう途中、わたしの視界のすみに例のものがとびこんでくる。

わたし徳川とーろーだー!!!」

説明しよう。

かつて、将軍家は上野の寛永寺と芝の増上寺にお墓があった。しかし、両方とも戦災とかで荒れ果て、両寺とも徳川家の墓域の土地の大半をうりとばしちゃってその上にのっていた灯籠(歴代の将軍様に大名が献じた灯籠)は全国にちらばった。
(参考ここクリック)

寛永寺も増上寺も基本的に同じカタチで、傘部分に葵紋のついた巨大な灯籠で、見つかると何かとても嬉しい。

この灯籠の送り主の将軍様の名前を見ようとしたが、まわりに植え込みがあり近くによれない。しかしかろうじて、八大将軍吉宗の戒名有徳院が読み取れ、つまりは寛永寺からの流出灯籠であることがわかる。

まわりの植木の育ち方からみてここにこの灯籠が生えてからずいぶんたつのだろう。

ちなみにわたしが今までリアルやネットでみつけたり他人様から教えていただいたりした、寛永寺の灯籠のありかは、早稲田の側の宝泉寺、ホテルニューオータニの日本庭園、武蔵野の名刹深代寺、浅間山ふもとの鬼押し出し観音(笑)などである。

このサイトを見ているアナタ、もし「東叡山」の刻まれた葵紋灯籠があったら、ご一報ください。
時効警察ではないですが

「趣味で捜査してます」

そのあと、「仏教世界からみた江戸」というテーマで蘊蓄を傾けつつ、徳川家の子女が眠る伝通院とその周辺史跡をめぐる。

最後に、あまり気が進まないが「こんにゃくえんま堂」にいった。それまで回ってきた徳川家のお膝元のお寺などと違い、庶民寺である。

 えんま様にはこんにゃくが山のように供養され、塩地蔵はまっしろな塩にうもれ、サイパン平和の鐘には珊瑚が供養されていた。お堂の前には台湾製とおぼしき香炉と獅子一対祭られている。

 この寺、何を目指しているかさっぱりわからん。

 こういうお寺は、歴史モードでは理解は難しく、民俗学・宗教学モードにきりかえなければならない。

 それから後楽園駅について解散。

コネタについてはおいおい。
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DATE: 2007/05/02(水)   CATEGORY: 未分類
キリシタン退治の南無阿弥陀佛
○世尼とともに光源寺を再訪する。

 境内には一ヶ月前にはなかった鉄骨がくまれて何かを建設中である。

 ご挨拶をすませて伺ってみると、とある劇団(水族館劇場)のテント小屋の建設とのこと。

 この劇団を気に入ったご住職一家が、期限付きで無料で境内の一角を貸したのだそうな。

 水族館劇場という名前だけあって、何か、バスクリンの入った色つきの水槽が設置されて、そこに死体役の人が流れてくる・・・とかいうような芝居をするらしい。

 このシーンを聞く限りでは、シェークスピアのオフィーリアを彷彿とさせるが、おそらくまったく違うものだな。

 驚いたのは、このテント小屋の建設を行っているのが劇団員自身だということ。中小の劇団員自らチケットさばいたり、大道具小道具つくるのは知っていたが、鉄筋の建物たてるまでするとはしらなんだ。

 本日の訪問の目的は、○世尼様を光源寺のご住職にひきあわせること。○世尼は何度もインドのデプン寺にいってチベット語で仏教を学んできた方である。

 ご住職の奥様とお嬢様は○世尼と「仏教をとく心構え」のようなまじめな話でもりあがっていた。

 一方、白雪姫とご住職は二人は別の意味でもりあがっていた。

ご住職「じつは幡随意上人の手になるという、キリシタン掛け軸があるんですよ」

 幡随意上人とは、家康の命によって九州にいってキリシタンの改宗に携わったと言われる高僧である。

白雪姫「おお、この前の九条袈裟に続いてキリシタン絡みですか。是非、拝見させてください。」

 本堂の横の蔵からでてきたその掛け軸には「なむあみだぶつ」が記されており、寺に伝わる覚え書きには「切支丹退治名号」(笑)と記されている。
<span style=font-size:x-large>キリシタン退治の南無阿弥陀仏</span>

うーん、ありがたい。

ご住職「他にも幡随意上人真筆の巻物がいくつかあるんですよ。」

 ご住職がおもちになったそれらの巻物は、「幡随意上人真筆」とあり、内容は大きく言って布薩戒とかの戒律ものと、浄土宗の伝法の儀式「五重相伝」についてのものに分かれていた。
蟠随意上人の巻物

白雪姫「キリシタン退治名号の花押と巻物の花押を比べてみましょう。同じ人が書いたのなら、同じはずですよ。」

 (巻物の終わりにある花押と名号の花押を並べてみて)

住職・白雪姫「おおー、一緒だあ (感動)」

白雪姫「巻物の年号が幡随意上人の生没年内かを確認してみましょう」

住職・白雪姫「慶長二年(1597年)、まだ江戸幕府ができる前だ(感動)」

などと、マニアにもりあがる。

 江戸の初期キリシタン反抗と宣教師の行動に手を焼いた幕府は、キリスト教を禁制にし、すべての人民にいずれかの寺の所属となることを強制した。

 全国民仏教徒化計画である。

 寺で法事を行わないとキリシタン扱いされて首チョンパになるので、人々は自分が所属するダンナ寺でせっせと法事を行った。その結果、この制度がお寺に経済的安定をもたらし、江戸時代寺の数はぐーんと増えた。

 一方、信者の側は寺や住職が選べなくなり、信仰のモティべーションがさがりまくり、寺に求める物が心の救済ではなく、儀式というカタチにシフトしていった。

 葬式仏教のはじまりである。

 保護貿易は国内の産業から国際競争力を奪う。そのように、この寺檀制度は日本のお寺から、努力し発展する力も奪った。

 家康の命令でキリシタンの仏教改宗に向かったという幡随意上人の遺物をみると、「江戸時代は果たして日本仏教の最盛期だか衰退期なんだかわかんないなー」と、改めて思う白雪姫なのであったった。
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