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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2007/03/03(土)   CATEGORY: 未分類
石頭希遷のミイラ
 古巣の東洋史専修室に遊びにいった。

 東洋史では、新しく入ってくる二年生を歓迎して近場のおとまり旅行に行く習わしがある。

 私が学生だった頃は日帰りで、国立博物館の特別展示をみたあと、湯島聖堂とニコライ堂を見学して、夜は飲み会だった。

 東洋史といえば、中国・韓国・遊牧民・東南アジア・イスラームで、日本国内にジャストフィットな展示や見学場がそうそうあるわけもなく、行き先を決めるのも大変らしい。

 今年もどこぞの博物館・美術館の展示に行こうかと思ったらどうもパッとするものがないらしい。

 そこで、わたし

わたし「じゃあ、寛永寺にある徳川将軍廟の見学なんてどうかしら。増上寺は年に何回か公開しているけど、寛永寺は非公開なのよね。人数集まれば、早稲田大学だし見学させてもらえるかも」

A先生「あのね、東洋史だよ。徳川将軍家は、どっちかっていうと日本史じゃない」

私の心の声(ちっ、だめか)

私「じゃあ、ミイラなんてどう? 唐代の禅宗の高僧のミイラよ。もとは早稲田にあったもので、中国革命のどさくさにまぎれて日本にもってこられて、今は曹洞宗の大本山総持寺にあるの。いしあたまに、希望の希、変遷の遷。検索してみて」

 説明しよう。

 石頭希遷(700-790)とは唐代の禅宗の高僧で、石頭宗の祖とされている。この人のミイラが日本にあるという情報は、じつは仏青のOBの方にうかがったものである。

 彼らが学生の頃、このミイラは早稲田にあって普通に見学できたという。

 そこでわたし、学内のお宝を一手に引き受けている会津八一博物館に電話をしてみた。会津八一博物館は早稲田の各部署にあるお宝(でないものも含む)を一括して管理する組織である。

 わたし「ミイラー」
 担当者は「ミイラですか。問い合わせてみますので、しばらくお待ちください」。

 ただ待つのもなんなのでとりあえず、「石頭 早稲田 ミイラ」で検索してみると、
「日本に残るその他のミイラ」というページがヒットし、以下の情報が。

(1)石頭希遷(無際大師)は、湖南省南岳(衡山)の南寺(南台寺?)で790年に91歳で入寂。遺体は即身仏に作られたらしい。
(2)辛亥革命(1911)の時に、石頭希遷のミイラを祀った寺が革命軍により焼かれたが、当時大師を研究していた日本の山崎彪氏が寺から大師の即身仏を救い出し、つてにより三井物産の船で日本に運んだ。
(3)山崎氏は「大師奉讃会」なる組織をつくり、方々で御開帳を行った。大正五年に上野で開かれた大正博覧会にも出品されている。その後、「奉讃会」の主力メンバーであった平野氏により昭和五年(1930)に青梅市の山に祀り、山名を石頭山とした。
(4)戦時中、この大師を祀った寺は陸軍の結核病棟となり、平野氏没後は祀る人もなく荒廃した。この山にミイラがあるとの噂を聞いてやってきた松本昭氏が1960年に平野氏の息子から即身仏を譲り受け、日本ミイラ研究グループのものとして早稲田大学に安置された。
(5)その後曹洞宗の総本山総持寺(鶴見)がこの事実を知り、副貫首である乙川禅師が再三再四松本氏に要請し、結局1970年に総持寺に移されている。

 
 つか、早稲田にないじゃん

 しかも、なにこの経緯。

 「大師奉讃会」なる組織をつくり、方々で御開帳って、単なる興行師じゃん。
 早稲田大学の「日本ミイラ研究グループ」ってなに。

 昭和史って、かなりやばい。

 話を戻すと、石頭希遷のミイラはいまや信仰者の手の中にあるため、おいそれと見せてくれる可能性は限りなく低い。

 そこで一度は諦めたのだが、志やみがたく(何の志かい)、もう一度提案ときたわけだ。

 何とかみたい、あいたい、さわりたい(こらこら)。
 
 
 あー、東洋史の遠足、ここに決まらないかなあ。

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