春の鎌倉で江戸を捜す
去年チベット旅行に参加してくださった方がかまくらで書展(かまくら画廊 繭の会)を開くというので、春の鎌倉にいく。
横浜駅でえんえん横須賀線をまつ。
わたし「だから乗り換え案内で乗り換え時間調べておけばよかったのに。これだけ時間あるならコーヒーが買えたよ」
その上電車がはいってきて自分たちはグリーン車の前でまっていたことに気づく。今から並び直しても座れまい。
わたし「鎌倉まで三十分もたつの? だから調べておいてっていったのに。」
ダンナ「グリーン車なんて事前にどう調べるのよ」
やけくそになったわたしは「もういいグリーン料金払って座る。」
横須賀線のグリーン車は二階建て。バカと煙はなんとやらで迷わず二階へ。お姉さんが現れて、「どこでも好きな席にお座りください。」とその場でグリーン券をうってくれる。我々が座ると席の頭上には翠のランプがともる。
なんか、行楽気分がもりあがってきて、白雪姫の機嫌はとたんに治る。
鎌倉駅におりたつと、昨日から満開になった桜をみに人出がどっと繰り出したりしているので、小町通りは押しくらまんじゅう。
主催者の方の書は「すべてのものに皆仏となる性質がある」(一切衆生悉有仏性)など仏の言葉が多く、鎌倉の雰囲気によくマッチしている。小さな焼き物も置いていて、前回は招き猫をテーマにし、今回はおひな様がテーマだそう。
わたし「何処で焼くんですか」
会の主催者「これはうちにある電気ガマでたくんです」
わたし「・・・・」
ダンナ「あなた今炊飯器を想像しなかった? 電機で焼き物やく機械って意味だからね」
あまり自分の考えが人に読まれるというのは思考が単純であることの現れであり、いいことではない。
この画廊を辞去したあと、たまたま並びにあった美術館で徳川家伝来の御所人形展をやっていたのをみつけフラフラと入る(吉兆庵美術館)。
おお、葵の御紋が人形の着物に・・。葵中毒となっているわたくしに神が用意してくださったかのような展覧会である。
そのあと、普通の観光客なら鶴岡八幡宮とか建長寺とか行くのであろうが、徳川オタクはそんなありきたりの所にはいかない。
迷わず、水戸徳川家の姫君が代々尼となってまもった英勝寺にいく。受付には「山門復興のため拝観料をくれ」とあるものの、洋犬が一匹受付に座っているだけで誰もおらん。お金を払わないとこの犬かほえて中から人がくるシステムだろうか。
突然ダンナ「あなた、大変よ、ここあと三十分で閉まる」
わたし「やる気ないなー、まだ三時じゃん」
ダンナ「それどころか、そもそもこの寺五のつく日とゼロのつく日しか開けてないんだ。あなたこそよくガイドブックみてよ。」
わたし「まあいじゃない。開いてたんだから。これぞ仏様のおめぐみ。なーむー」
境内に入ると、葵の御紋の瓦をおいた江戸初期の仏堂がある。このお寺が所蔵する阿弥陀三尊はとっても小さいのだが、仏像とそれを入れる厨子が、一つの木材で彫られた「檀龕仏」。つい最近重文指定されたことで話題になっている。
これは破顔君がすきだといっていたタイプの仏ではないだろうか。(気がついたら記事トラバしてくれい。)
例によって寺は明治期に一時期廃絶し、山門の一つは金持ちの家に売り飛ばされたそうだが、最近買い戻してバラバラ状態でプレハブ小屋におさまっている。今年から復活事業が始まるそうである。
がんばってくれい。
そのあと、徒歩十分くらい歩いてこれまた徳川家ゆかりの薬王寺(日蓮宗)へ。ここは三代将軍家光の弟の菩提を弔う寺である。ご存じ家光には弟がいたのだが、両親は帝王教育をうけるため早くから親元から離れた家光よりも、手元にいる弟ばかりかわいがり、三代将軍をこの弟につがせようとした。
そこで登場するのが家光の乳母の春日局。大御所家康に直訴して、家康の裁可で家光の将軍継承は決定する。
まあ、そういうわけで将軍になりそこねた弟は粗暴な振る舞いを続け酔っては人を斬り殺すの繰り返しで荒れ狂い、最後は横死する。そんな男でも乳母や妻はやっぱりかわいそうと思ったのか菩提を弔うんだけど、乳母は後楽園にある昌清寺に尼となって蟄居し、妻はここ薬王寺に彼の供養碑をたてる。
両寺ともに葵のごもーん、をシンボルにいただいている。
いつも思うのだけど、家光の家族って問題の多い今の上流家庭そのまま。家光38までお世継ぎ生まれなかったんでホモだのなんだのいろいろ言われてたけど、あれ明らかにウツだよ。弟もかわいそうかもしれないけど、家光も憐れである。
やっぱ、庶民が一番である。
そのあとしまりかかつた東慶寺に飛び込んで、日本を代表する哲学者、西田幾多郎の墓前に額づく。
ついでにあたりを見回すと岩波の社長やら、和辻哲郎やら、鈴木大拙やら有名人の墓だらけ。
鎌倉の文化人はここに眠るのがステいたすなのだな。
パリのモンマルトルの墓地みたいなもんか。常々思うのだがみなが一個ずつこんな墓もっていたら今に日本列島は墓だらけになって生者が住むスペースがなくなるんじゃないか。
まあ火葬にするだけ西洋人の土葬よりゃコンパクトだが。
横浜駅でえんえん横須賀線をまつ。
わたし「だから乗り換え案内で乗り換え時間調べておけばよかったのに。これだけ時間あるならコーヒーが買えたよ」
その上電車がはいってきて自分たちはグリーン車の前でまっていたことに気づく。今から並び直しても座れまい。
わたし「鎌倉まで三十分もたつの? だから調べておいてっていったのに。」
ダンナ「グリーン車なんて事前にどう調べるのよ」
やけくそになったわたしは「もういいグリーン料金払って座る。」
横須賀線のグリーン車は二階建て。バカと煙はなんとやらで迷わず二階へ。お姉さんが現れて、「どこでも好きな席にお座りください。」とその場でグリーン券をうってくれる。我々が座ると席の頭上には翠のランプがともる。
なんか、行楽気分がもりあがってきて、白雪姫の機嫌はとたんに治る。
鎌倉駅におりたつと、昨日から満開になった桜をみに人出がどっと繰り出したりしているので、小町通りは押しくらまんじゅう。
主催者の方の書は「すべてのものに皆仏となる性質がある」(一切衆生悉有仏性)など仏の言葉が多く、鎌倉の雰囲気によくマッチしている。小さな焼き物も置いていて、前回は招き猫をテーマにし、今回はおひな様がテーマだそう。
わたし「何処で焼くんですか」
会の主催者「これはうちにある電気ガマでたくんです」
わたし「・・・・」
ダンナ「あなた今炊飯器を想像しなかった? 電機で焼き物やく機械って意味だからね」
あまり自分の考えが人に読まれるというのは思考が単純であることの現れであり、いいことではない。
この画廊を辞去したあと、たまたま並びにあった美術館で徳川家伝来の御所人形展をやっていたのをみつけフラフラと入る(吉兆庵美術館)。
おお、葵の御紋が人形の着物に・・。葵中毒となっているわたくしに神が用意してくださったかのような展覧会である。
そのあと、普通の観光客なら鶴岡八幡宮とか建長寺とか行くのであろうが、徳川オタクはそんなありきたりの所にはいかない。
迷わず、水戸徳川家の姫君が代々尼となってまもった英勝寺にいく。受付には「山門復興のため拝観料をくれ」とあるものの、洋犬が一匹受付に座っているだけで誰もおらん。お金を払わないとこの犬かほえて中から人がくるシステムだろうか。
突然ダンナ「あなた、大変よ、ここあと三十分で閉まる」
わたし「やる気ないなー、まだ三時じゃん」
ダンナ「それどころか、そもそもこの寺五のつく日とゼロのつく日しか開けてないんだ。あなたこそよくガイドブックみてよ。」
わたし「まあいじゃない。開いてたんだから。これぞ仏様のおめぐみ。なーむー」
境内に入ると、葵の御紋の瓦をおいた江戸初期の仏堂がある。このお寺が所蔵する阿弥陀三尊はとっても小さいのだが、仏像とそれを入れる厨子が、一つの木材で彫られた「檀龕仏」。つい最近重文指定されたことで話題になっている。
これは破顔君がすきだといっていたタイプの仏ではないだろうか。(気がついたら記事トラバしてくれい。)
例によって寺は明治期に一時期廃絶し、山門の一つは金持ちの家に売り飛ばされたそうだが、最近買い戻してバラバラ状態でプレハブ小屋におさまっている。今年から復活事業が始まるそうである。
がんばってくれい。
そのあと、徒歩十分くらい歩いてこれまた徳川家ゆかりの薬王寺(日蓮宗)へ。ここは三代将軍家光の弟の菩提を弔う寺である。ご存じ家光には弟がいたのだが、両親は帝王教育をうけるため早くから親元から離れた家光よりも、手元にいる弟ばかりかわいがり、三代将軍をこの弟につがせようとした。
そこで登場するのが家光の乳母の春日局。大御所家康に直訴して、家康の裁可で家光の将軍継承は決定する。
まあ、そういうわけで将軍になりそこねた弟は粗暴な振る舞いを続け酔っては人を斬り殺すの繰り返しで荒れ狂い、最後は横死する。そんな男でも乳母や妻はやっぱりかわいそうと思ったのか菩提を弔うんだけど、乳母は後楽園にある昌清寺に尼となって蟄居し、妻はここ薬王寺に彼の供養碑をたてる。
両寺ともに葵のごもーん、をシンボルにいただいている。
いつも思うのだけど、家光の家族って問題の多い今の上流家庭そのまま。家光38までお世継ぎ生まれなかったんでホモだのなんだのいろいろ言われてたけど、あれ明らかにウツだよ。弟もかわいそうかもしれないけど、家光も憐れである。
やっぱ、庶民が一番である。
そのあとしまりかかつた東慶寺に飛び込んで、日本を代表する哲学者、西田幾多郎の墓前に額づく。
ついでにあたりを見回すと岩波の社長やら、和辻哲郎やら、鈴木大拙やら有名人の墓だらけ。
鎌倉の文化人はここに眠るのがステいたすなのだな。
パリのモンマルトルの墓地みたいなもんか。常々思うのだがみなが一個ずつこんな墓もっていたら今に日本列島は墓だらけになって生者が住むスペースがなくなるんじゃないか。
まあ火葬にするだけ西洋人の土葬よりゃコンパクトだが。
そうだ、京都行こう。
というわけで、月曜日に西本願寺の附属大学、龍谷大学に行った。
京都駅におりたつと、温かい。コートなしのブレザーできたが正解だったな。
歩いて十分の距離だが、だるいのでタクシーにのる(歩け)。
校門前にタクシーがつくと、龍谷大学のA先生がお迎えにきてくれていた。
みれば、校門がすごいレトロ。校門からみえる講堂も校舎も品のある洋館。レトロつったって、最近はやりの昭和三十年とかのもんでない。明治期くらいのレトロである。
校門前の案内板をみると、なんと門から教室から講堂まで重文指定。明治期の大学建築は珍しいということと、木造建築なのに石のようにみせる工法の初期のものだからだそう。
明治期のドラマのロケによく使われるという。言われてみるとデジャブ感のあるたたずまい。
しぶい。
もっとすごいのは、このどこからみても明治期の校舎のすぐ脇には西本願寺の南門があり、そこには豊臣秀吉の伏見城から移築したケンランゴーカな唐門がある。
わずか数十メートル離れたところには戦国時代である。その唐門の西には大玄関門があり、ここは大名屋敷のロケなどに使われるそうである。
わずか数十メートルの範囲内で明治のハイカラと江戸の大名屋敷と戦国の門という様々な建築様式がつまりまくっている。
こゆい。
早稲田は来年開学125周年だが、ここ龍谷大学はあと数年後に何と開学370年を迎えるそうである。どこをどう計算したら370年?と聞いたら、お坊さんの大学がはじまってから数えるそうで、総合大学になったのは、20世紀の六十年代からだそうである。総合大学になってからの年数が百年いかないところがまたシブイ。
さてさて、目的は大谷探検隊の将来品の拝観である。
その前に大谷探検隊を知らない人のために、超簡単にレクチャー。
大谷光瑞という西本願寺のトップが、20世紀のはじめに仏教の来た道をたどるべくシルクロードに探検にいった。そいで、いろいろな文物を持って帰りましたとさ。終わり。
それがおっかしいんだけど、この探検隊、わざわざロンドンから出発している。京都からでて京都にかえっても宣伝にならないので、当時の世界帝国イギリスの首都から出発したのだ。
彼らがもたらしたものは大谷コレクションといい、中央アジア研究にはかかせない史料となっている。
みせていただいたものの中で、現存する世界最古の紙「李柏文書」、あと大谷光瑞が朝鮮半島で買ったといわれる(諸説あり)明代の東アジア地図などが興味深かった。
世界最古の紙李柏文書は調査の結果、様々な植物の繊維とともに、鳥の羽毛が増量剤に使われていたことがわかったという。
そして、地図。明代初期とはいえ、そこに書かれている地理情報はモンゴル帝国時代のものであるとされるその地図は、
見事にチベットが入っていない。
成都の東はまっしろ、東印度の西は真っ白、星宿海の南はまっしろ。
チベットがあるべき場所が見事にブランクになっている。
地図の作製者は情報があったのに興味がないから書かなかったのか、情報がないから駆けなかったのか、何にせよもし、チベットが中国の強い影響下にあったとすれば、人も物も交流しているのでこんなまっちろになることはあるまい。
おもしろい。
中国の文書館では地方の地図は貸し出し禁止の場合が多いが、この地図も中国にあったら貸し出し禁止になっていただろうな。
余談だが大谷光瑞は探検やら蒐集やらであまりにお金を使いすぎて西本願寺の法主をおわれ、大陸にあった彼の別荘とその財産もその際さしおさえられたため、大谷コレクションは中国・韓国などに散逸してしまった。行方不明のものも多いという。
もったいないのう。
京都は戦災がなかったのでここにきていれば全部残ったのに。
東京だったら灰燼に帰したけどね(笑)。
京都駅におりたつと、温かい。コートなしのブレザーできたが正解だったな。
歩いて十分の距離だが、だるいのでタクシーにのる(歩け)。
校門前にタクシーがつくと、龍谷大学のA先生がお迎えにきてくれていた。
みれば、校門がすごいレトロ。校門からみえる講堂も校舎も品のある洋館。レトロつったって、最近はやりの昭和三十年とかのもんでない。明治期くらいのレトロである。
校門前の案内板をみると、なんと門から教室から講堂まで重文指定。明治期の大学建築は珍しいということと、木造建築なのに石のようにみせる工法の初期のものだからだそう。
明治期のドラマのロケによく使われるという。言われてみるとデジャブ感のあるたたずまい。
しぶい。
もっとすごいのは、このどこからみても明治期の校舎のすぐ脇には西本願寺の南門があり、そこには豊臣秀吉の伏見城から移築したケンランゴーカな唐門がある。
わずか数十メートル離れたところには戦国時代である。その唐門の西には大玄関門があり、ここは大名屋敷のロケなどに使われるそうである。
わずか数十メートルの範囲内で明治のハイカラと江戸の大名屋敷と戦国の門という様々な建築様式がつまりまくっている。
こゆい。
早稲田は来年開学125周年だが、ここ龍谷大学はあと数年後に何と開学370年を迎えるそうである。どこをどう計算したら370年?と聞いたら、お坊さんの大学がはじまってから数えるそうで、総合大学になったのは、20世紀の六十年代からだそうである。総合大学になってからの年数が百年いかないところがまたシブイ。
さてさて、目的は大谷探検隊の将来品の拝観である。
その前に大谷探検隊を知らない人のために、超簡単にレクチャー。
大谷光瑞という西本願寺のトップが、20世紀のはじめに仏教の来た道をたどるべくシルクロードに探検にいった。そいで、いろいろな文物を持って帰りましたとさ。終わり。
それがおっかしいんだけど、この探検隊、わざわざロンドンから出発している。京都からでて京都にかえっても宣伝にならないので、当時の世界帝国イギリスの首都から出発したのだ。
彼らがもたらしたものは大谷コレクションといい、中央アジア研究にはかかせない史料となっている。
みせていただいたものの中で、現存する世界最古の紙「李柏文書」、あと大谷光瑞が朝鮮半島で買ったといわれる(諸説あり)明代の東アジア地図などが興味深かった。
世界最古の紙李柏文書は調査の結果、様々な植物の繊維とともに、鳥の羽毛が増量剤に使われていたことがわかったという。
そして、地図。明代初期とはいえ、そこに書かれている地理情報はモンゴル帝国時代のものであるとされるその地図は、
見事にチベットが入っていない。
成都の東はまっしろ、東印度の西は真っ白、星宿海の南はまっしろ。
チベットがあるべき場所が見事にブランクになっている。
地図の作製者は情報があったのに興味がないから書かなかったのか、情報がないから駆けなかったのか、何にせよもし、チベットが中国の強い影響下にあったとすれば、人も物も交流しているのでこんなまっちろになることはあるまい。
おもしろい。
中国の文書館では地方の地図は貸し出し禁止の場合が多いが、この地図も中国にあったら貸し出し禁止になっていただろうな。
余談だが大谷光瑞は探検やら蒐集やらであまりにお金を使いすぎて西本願寺の法主をおわれ、大陸にあった彼の別荘とその財産もその際さしおさえられたため、大谷コレクションは中国・韓国などに散逸してしまった。行方不明のものも多いという。
もったいないのう。
京都は戦災がなかったのでここにきていれば全部残ったのに。
東京だったら灰燼に帰したけどね(笑)。
春の雨の中卒業式
早稲田の桜は入学式ではなく卒業式に咲く。
何年ぶりかに雨の卒業式。
専修主任のA先生はウランバートルでかったモンゴル服をきているが、あの服は浅草でうっている着物なみにモンゴル服ではない。
Aセンセ「イシハマ先生の冷たい視線は予想していました」
B先生が贈る言葉をのべるため、教壇にたつ。なぜかみな笑う。キャラ立ってるからな。
松下幸之助と早稲田ラグビーの創設者のエピソードをひいて「人生運だが、その運は努力によって作り出す」という趣旨の話をする。
学位授与が終わったあと中庭にでると、雨は小降りになっていたので、みなで無理矢理に記念撮影。
たまたま居合わせた三年ゼミ長のCくんにシャッターおしてもらう。
今年の女の子の髪型はマリーアントワネットのように高くもりあげて、大きな花をつけるゴージャスなものになっている。美容院でおまかせにするとこうなるらしい。
研究室でみなで乾杯。
Dりん「イシハマ先生のゼミに入ったおかげで卒論をいい点つけてもらえました」
私「私にきをつかわなくて、いいのよー、みなに言いたいことを言って」
Eくん「立派な坊主になります」
Hくん「先生めざしてがんばります」(オイオイあんた金融決まってるのに)
Aさん「一年の時先生にはじめてあった時、なんてヘンな人なんだろう、大学の先生って思いました」(といいつつ涙をぬぐう。ヘンで悪かったな!)
Kくん「先生、僕の名前いえますか? 覚えてますか」(私はこの二年間カレの名前をなんでかわからんが何度もよび間違えた。スマン)
わたし「当然じゃないか。今日なんてA先生が君の性別間違えたの直したじゃん(彼の名前は読み方によっては女性になる名前)。」
Fくん「立派な先生になって、朝までナマテレビにでるまでがんばります」
わたし「ヤンキー先生ののりですね。では、朝起きたら知らない女が寝ていたことが三度ほどあったSくん」
Sくん「これからは少しおとなしくなります」
Tさん「○ュ×ク堂で働いてます。池袋にきたらみなよってね」
Sさん「サークルはもちろん友達いるけど、ゼミってなかなか友達つくれないからこのゼミでよかったです」
わたし「卒業旅行のルーマニアどうだった?」
Sさん(勢い込んで)「それがハンサムな男がいたるところに(以下略)」
Hくん「センセ、全体の卒業式ってどんなんですか」
わたし「うーん、総長、学部ごとに六回同じ祝辞述べるんで、最後はやる気なくなるんだよねー。ま、来賓の人はありがたいこというんじゃない」
以下、ナゾの四年生以上。この子たちは試験の時以外ほとんど顔をみせない猛者ぞろい。
わたし「就活をしたくないあまり雀荘に通い詰めたYMくん、どーぞ」
YMくん「あの卒論すいませんでした。ま、そのくらいで」
YYくん(YMくんに)「どんな役が好き? 今から雀荘いこうぜ。あ、先生のことを本当に尊敬してます」
私「就活をへて建前がいえる大人になったというわけだ」
MTくん「○ーヤは就活なんかしてないよ。パパのコネだよなー」
YYくん「うっせーな」
四年で卒業する学生よりも、五年生、六年生の方が子供っぽく見えるのはなぜだろう。そう考えてみると、大学からでずに研究を続けている私は、一番子供っぽいことになる。
つきつめると落ち込むので、思考停止する。
この子たちに、これからたくさんの幸せが舞いおりますように。
何年ぶりかに雨の卒業式。
専修主任のA先生はウランバートルでかったモンゴル服をきているが、あの服は浅草でうっている着物なみにモンゴル服ではない。
Aセンセ「イシハマ先生の冷たい視線は予想していました」
B先生が贈る言葉をのべるため、教壇にたつ。なぜかみな笑う。キャラ立ってるからな。
松下幸之助と早稲田ラグビーの創設者のエピソードをひいて「人生運だが、その運は努力によって作り出す」という趣旨の話をする。
学位授与が終わったあと中庭にでると、雨は小降りになっていたので、みなで無理矢理に記念撮影。
たまたま居合わせた三年ゼミ長のCくんにシャッターおしてもらう。
今年の女の子の髪型はマリーアントワネットのように高くもりあげて、大きな花をつけるゴージャスなものになっている。美容院でおまかせにするとこうなるらしい。
研究室でみなで乾杯。
Dりん「イシハマ先生のゼミに入ったおかげで卒論をいい点つけてもらえました」
私「私にきをつかわなくて、いいのよー、みなに言いたいことを言って」
Eくん「立派な坊主になります」
Hくん「先生めざしてがんばります」(オイオイあんた金融決まってるのに)
Aさん「一年の時先生にはじめてあった時、なんてヘンな人なんだろう、大学の先生って思いました」(といいつつ涙をぬぐう。ヘンで悪かったな!)
Kくん「先生、僕の名前いえますか? 覚えてますか」(私はこの二年間カレの名前をなんでかわからんが何度もよび間違えた。スマン)
わたし「当然じゃないか。今日なんてA先生が君の性別間違えたの直したじゃん(彼の名前は読み方によっては女性になる名前)。」
Fくん「立派な先生になって、朝までナマテレビにでるまでがんばります」
わたし「ヤンキー先生ののりですね。では、朝起きたら知らない女が寝ていたことが三度ほどあったSくん」
Sくん「これからは少しおとなしくなります」
Tさん「○ュ×ク堂で働いてます。池袋にきたらみなよってね」
Sさん「サークルはもちろん友達いるけど、ゼミってなかなか友達つくれないからこのゼミでよかったです」
わたし「卒業旅行のルーマニアどうだった?」
Sさん(勢い込んで)「それがハンサムな男がいたるところに(以下略)」
Hくん「センセ、全体の卒業式ってどんなんですか」
わたし「うーん、総長、学部ごとに六回同じ祝辞述べるんで、最後はやる気なくなるんだよねー。ま、来賓の人はありがたいこというんじゃない」
以下、ナゾの四年生以上。この子たちは試験の時以外ほとんど顔をみせない猛者ぞろい。
わたし「就活をしたくないあまり雀荘に通い詰めたYMくん、どーぞ」
YMくん「あの卒論すいませんでした。ま、そのくらいで」
YYくん(YMくんに)「どんな役が好き? 今から雀荘いこうぜ。あ、先生のことを本当に尊敬してます」
私「就活をへて建前がいえる大人になったというわけだ」
MTくん「○ーヤは就活なんかしてないよ。パパのコネだよなー」
YYくん「うっせーな」
四年で卒業する学生よりも、五年生、六年生の方が子供っぽく見えるのはなぜだろう。そう考えてみると、大学からでずに研究を続けている私は、一番子供っぽいことになる。
つきつめると落ち込むので、思考停止する。
この子たちに、これからたくさんの幸せが舞いおりますように。
お彼岸にあの世からメッセージ
二日前、冷蔵庫から異音がした。
ごぉぉぉぉぉぉ、と遠くの空を飛行機が飛ぶような音。
この冷蔵庫の前の冷蔵庫は、母がなくなる直前、最後の入院をした日の朝に壊れたので、もう14年も使っていることになる。
そろそろ寿命かも。
そこで、ダンナ、ネットで冷蔵庫について調べ始める。
ダンナによると、十年前に比べると冷蔵庫の省電化が進んでいて、直すよりは買い直した方が地球にもいいみたいで、新製品は十月にでるから八月九月が一番安いそうである。
それで、量販店にいって、「現金もっているんだけどなー。これじゃちょっと高いよなー」とかいって冷蔵庫なでまわしていると、店員が「うへへへ」と手をこすり合わせながらよってきて、「お客さんじゃこんなとこで」とか値引きしてくれるらしいよ、とかそんなテクニックまで調べてくる。
そして次の日、ダンナの実家のお彼岸で水戸にいく。夕方帰ってきてごろうちゃんに小松菜をあげようとして冷蔵庫を開けると、
「むっ」といよーな臭気と熱気が。
壊れとる。
冷え機能が死んでただ通電するこの固まりは、いまや冷蔵庫でなく温暖庫である。
とにかくコンセントぬかなくては。
ところが冷蔵庫のコンセントなんて置いたら最後どこにあるかなんてわからん。とりあえず全部コードをぬいてみるが、冷蔵庫だけは通電している(異音つき)。
わたしは冷蔵庫の中のもうだめになったもものの始末をし、ダンナは急遽しまりかかったヤマダ電機にとびこむ。むろん、値段を下げるテクニックとか、どうでもよくなっている。
ここまで謙虚になったダンナに対し、店員
「引っ越しシーズンで配車の都合がつかないんです。今日お買い求めになられても、つくのは四月四日です」
二週間先やん。
ダンナ、決心がつかずとりあえず、とぼとぼと帰路につく。
途中よくあるナショナルのお店の前を通った。このお店はただのナショナルではない。ノーマルオカメインコ、ちょろちゃんのお住まいなのである。
電機関係が壊れると私はわざわざこの遠くのお店まで仕事を頼みにくる。それは、ひとえに、このちょろちゃん(はあと)のためである。
ダンナ、ふとおもいたってこの店に入ってみる。すると、ちょろちゃんのお父さんがその店のパスワードでナショナルにアクセスしてくれ、とある機種の冷蔵庫の在庫をみつけてくれる。
量販店で買うよりかなり高いが、あさってには配送してくれるという。
一にも二にもなく買う。
ちょろちゃん、もとい、ナショナル、マンセー。
それからが大変。新しい冷蔵庫が来てもいいように冷蔵庫の中身と冷蔵庫の周辺の掃除をする。
冷蔵庫の前は台所におけるダンナの定位置でダンナのいろんなものがあふれている。パソコンのマニュアルとかはまだいいのだが、とりよせてはすぐに放置したわけのわからん健康食品や漢方薬がどんどん発掘される。
自分のものが多いので仕方なく片付けていたダンナは、掃除が嫌いなのでどんどんやつれていく。
わたし「発見された健康食品、全部一つずつ飲んでいったら元気になるかもよ」
燃えるゴミ、燃えないゴミがどんどんあふれでる。冷蔵庫の一角を掃除するだけでなんでこんなにゴミがでるんじゃ。玄関前にどんどんつんでいったら、テレビでよくやっているゴミ屋敷のようになってきた。
お彼岸の初日に冷蔵庫が壊れ、お中日に掃除にあけくれたことには何か不思議な符号を感じる。
母が死ぬ前後、本当によく電機製品が壊れた。前の代の冷蔵庫を筆頭に、まだ新しいテレビ、そのほかいろいろ壊れ、電球なんて代えるそばからバチバチきれた。
一人の魂がこの世から消滅しようとする時の不思議を感じたものだ。
なので今回のお彼岸の冷蔵庫の死も、あの世からの母のメッセージなのだろう。
「毎日きちんと掃除しなさい」
ごぉぉぉぉぉぉ、と遠くの空を飛行機が飛ぶような音。
この冷蔵庫の前の冷蔵庫は、母がなくなる直前、最後の入院をした日の朝に壊れたので、もう14年も使っていることになる。
そろそろ寿命かも。
そこで、ダンナ、ネットで冷蔵庫について調べ始める。
ダンナによると、十年前に比べると冷蔵庫の省電化が進んでいて、直すよりは買い直した方が地球にもいいみたいで、新製品は十月にでるから八月九月が一番安いそうである。
それで、量販店にいって、「現金もっているんだけどなー。これじゃちょっと高いよなー」とかいって冷蔵庫なでまわしていると、店員が「うへへへ」と手をこすり合わせながらよってきて、「お客さんじゃこんなとこで」とか値引きしてくれるらしいよ、とかそんなテクニックまで調べてくる。
そして次の日、ダンナの実家のお彼岸で水戸にいく。夕方帰ってきてごろうちゃんに小松菜をあげようとして冷蔵庫を開けると、
「むっ」といよーな臭気と熱気が。
壊れとる。
冷え機能が死んでただ通電するこの固まりは、いまや冷蔵庫でなく温暖庫である。
とにかくコンセントぬかなくては。
ところが冷蔵庫のコンセントなんて置いたら最後どこにあるかなんてわからん。とりあえず全部コードをぬいてみるが、冷蔵庫だけは通電している(異音つき)。
わたしは冷蔵庫の中のもうだめになったもものの始末をし、ダンナは急遽しまりかかったヤマダ電機にとびこむ。むろん、値段を下げるテクニックとか、どうでもよくなっている。
ここまで謙虚になったダンナに対し、店員
「引っ越しシーズンで配車の都合がつかないんです。今日お買い求めになられても、つくのは四月四日です」
二週間先やん。
ダンナ、決心がつかずとりあえず、とぼとぼと帰路につく。
途中よくあるナショナルのお店の前を通った。このお店はただのナショナルではない。ノーマルオカメインコ、ちょろちゃんのお住まいなのである。
電機関係が壊れると私はわざわざこの遠くのお店まで仕事を頼みにくる。それは、ひとえに、このちょろちゃん(はあと)のためである。
ダンナ、ふとおもいたってこの店に入ってみる。すると、ちょろちゃんのお父さんがその店のパスワードでナショナルにアクセスしてくれ、とある機種の冷蔵庫の在庫をみつけてくれる。
量販店で買うよりかなり高いが、あさってには配送してくれるという。
一にも二にもなく買う。
ちょろちゃん、もとい、ナショナル、マンセー。
それからが大変。新しい冷蔵庫が来てもいいように冷蔵庫の中身と冷蔵庫の周辺の掃除をする。
冷蔵庫の前は台所におけるダンナの定位置でダンナのいろんなものがあふれている。パソコンのマニュアルとかはまだいいのだが、とりよせてはすぐに放置したわけのわからん健康食品や漢方薬がどんどん発掘される。
自分のものが多いので仕方なく片付けていたダンナは、掃除が嫌いなのでどんどんやつれていく。
わたし「発見された健康食品、全部一つずつ飲んでいったら元気になるかもよ」
燃えるゴミ、燃えないゴミがどんどんあふれでる。冷蔵庫の一角を掃除するだけでなんでこんなにゴミがでるんじゃ。玄関前にどんどんつんでいったら、テレビでよくやっているゴミ屋敷のようになってきた。
お彼岸の初日に冷蔵庫が壊れ、お中日に掃除にあけくれたことには何か不思議な符号を感じる。
母が死ぬ前後、本当によく電機製品が壊れた。前の代の冷蔵庫を筆頭に、まだ新しいテレビ、そのほかいろいろ壊れ、電球なんて代えるそばからバチバチきれた。
一人の魂がこの世から消滅しようとする時の不思議を感じたものだ。
なので今回のお彼岸の冷蔵庫の死も、あの世からの母のメッセージなのだろう。
「毎日きちんと掃除しなさい」
モンゴル好きな方にしてお近くの方どうぞ
古巣の東洋史から宣伝を頼まれました↓
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文学部東洋史学専修(共催:早稲田大学モンゴル研究所)
公開講演のご案内
記
日時:2007年3月22日(木) 14:00~18:00
場所:早稲田大学文学部36号館6F 682教室
プログラム:
楊新民氏(内蒙古大学教授)「内蒙古大学人文学院の概況」
張久和氏(内蒙古大学教授)「室韋から蒙古までの原蒙古人の住まいの変化」
王慶憲氏(内蒙古大学教授)「匈奴民族の服装の様式について」
李笑春氏(内蒙古大学教授)「内蒙古シリンゴル草原の生態恢復について」
※講演は原則として通訳つきです。
※会場までのアクセスは,右記のURLをご参照ください。http://www.waseda.jp/bun/map/
----------------------
文学部東洋史学専修(共催:早稲田大学モンゴル研究所)
公開講演のご案内
記
日時:2007年3月22日(木) 14:00~18:00
場所:早稲田大学文学部36号館6F 682教室
プログラム:
楊新民氏(内蒙古大学教授)「内蒙古大学人文学院の概況」
張久和氏(内蒙古大学教授)「室韋から蒙古までの原蒙古人の住まいの変化」
王慶憲氏(内蒙古大学教授)「匈奴民族の服装の様式について」
李笑春氏(内蒙古大学教授)「内蒙古シリンゴル草原の生態恢復について」
※講演は原則として通訳つきです。
※会場までのアクセスは,右記のURLをご参照ください。http://www.waseda.jp/bun/map/
日吉東照宮と天海廟
両親のお墓参りに日帰りで京都にいく。
小さなオカメインコを抱える身としては国内旅行も強行スケジュール。
白雪姫の宗派は真言宗高野山派であるが、両親のお墓は永代供養のできる比叡山大霊園につくった。この霊園はキリスト教徒でもオッケーの無宗派霊園。
霊園は琵琶湖をみおろす比叡山の東麓に位置する。
お墓参りを終えた後、隣の叡山坂本駅でおりて、将軍様の師天海大僧正の廟と将軍様をまつる日吉東照宮を表敬訪問する。
叡山坂本は比叡山の表玄関で、昔から今にいたるまで天台宗のトップ天台座主の御座と、比叡山を動かす諸事務機関の所在地である。
織田信長に焼き討ちされて荒廃した比叡山は、天海大僧正が家康のバックアップをうけて再興したので、叡山坂本の一番高い箇所には家康をまつる日吉東照宮があり、そのすぐ下に控えるように天海ならびにwith 歴代天台座主の墓がある。
比叡山大霊園のお墓もそうだが、天海の墓も東照宮もみな琵琶湖を向いてたっているので、東面である。
日吉東照宮の急な石段を登る。
週末だというのに、人がいない。去年のモミジも乾燥してつもったままで、荒れ果てた雰囲気。無精な白雪姫の家の前だってもう少しまめに掃かれている(自慢になってない)。
石段をのぼりきると、キンキラキンの東照宮が現れる。200円払って社殿の中に入ると、どーんと床がさがっている。これは将軍様に対して頭が高くないようにするためのシステムである。
後ろでダンナがくすくす笑うのも気にせず、葵紋マニアの白雪姫は葵紋の写真をとりまくる。
管理人の方によると、六月一日にはこの正面の三つの扉を開けるというが、その中にまた厨子があるので中身がなにかは知らないという。東照宮は昔は神仏混淆していて、家康様の神像以外にも、天台宗の仏がまつられていた。しかし、明治に入ってそれらを排除したので、何がこの厨子の中にはいっているのかは永遠の謎である。
わたし「六月一日に開扉というのは、家康の命日だからでしょうか」
管理人の方「家康様は四月になくなっていたはずです。なんで六月一日に開くのかはわかりません」(旧暦で四月十七日は新暦の六月一日だよ。やっぱ命日に開けてんだよ)
管理人の方「神前の階段が七段あったでしょう。また、狛犬のしっぽが七本あったでしょう。これは北斗七星をかたどっているんですよ」
わたし「家康様は帝王の★、北極星だから、北斗七星を従えてるんですよね」
管理人の方「おお、よく知ってますね。前にこられた方の話によると、この東照宮は東を向いていますが、真東ではなく五度ずれているんだそうです。それて゜久能山と日光山に向いているそうです。不思議ですね」
わたし「そうですねー」(ちなみに私は聞いたまま書いていて確認してません)
管理人の方「そんなに東照宮が好きなら、これは参考になりませんか」と管理人の方がくださったのが、全国東照宮連合会の会報特別記念号。
これはすごい。
連合会の歴史から、会報のバックナンバー情報、はては徳川宗家の講演録まであり、葵オタクにはたまらないラインナップ。
ありがたく頂戴する。
日光東照宮くらいになると自前で稼げるので、神社本庁とは別組織でかなり自由にやっているらしいが、日吉東照宮は日吉大社の末寺で、とってもビンボーなので
「神社本庁にすがりつくしかない」そうである。
同じ東照宮にも格差問題。少しは経営の足しにと1000円はらって、葵の御紋入りお守りを買う(笑)。↓

小さなオカメインコを抱える身としては国内旅行も強行スケジュール。
白雪姫の宗派は真言宗高野山派であるが、両親のお墓は永代供養のできる比叡山大霊園につくった。この霊園はキリスト教徒でもオッケーの無宗派霊園。
霊園は琵琶湖をみおろす比叡山の東麓に位置する。
お墓参りを終えた後、隣の叡山坂本駅でおりて、将軍様の師天海大僧正の廟と将軍様をまつる日吉東照宮を表敬訪問する。
叡山坂本は比叡山の表玄関で、昔から今にいたるまで天台宗のトップ天台座主の御座と、比叡山を動かす諸事務機関の所在地である。
織田信長に焼き討ちされて荒廃した比叡山は、天海大僧正が家康のバックアップをうけて再興したので、叡山坂本の一番高い箇所には家康をまつる日吉東照宮があり、そのすぐ下に控えるように天海ならびにwith 歴代天台座主の墓がある。
比叡山大霊園のお墓もそうだが、天海の墓も東照宮もみな琵琶湖を向いてたっているので、東面である。
日吉東照宮の急な石段を登る。
週末だというのに、人がいない。去年のモミジも乾燥してつもったままで、荒れ果てた雰囲気。無精な白雪姫の家の前だってもう少しまめに掃かれている(自慢になってない)。
石段をのぼりきると、キンキラキンの東照宮が現れる。200円払って社殿の中に入ると、どーんと床がさがっている。これは将軍様に対して頭が高くないようにするためのシステムである。
後ろでダンナがくすくす笑うのも気にせず、葵紋マニアの白雪姫は葵紋の写真をとりまくる。
管理人の方によると、六月一日にはこの正面の三つの扉を開けるというが、その中にまた厨子があるので中身がなにかは知らないという。東照宮は昔は神仏混淆していて、家康様の神像以外にも、天台宗の仏がまつられていた。しかし、明治に入ってそれらを排除したので、何がこの厨子の中にはいっているのかは永遠の謎である。
わたし「六月一日に開扉というのは、家康の命日だからでしょうか」
管理人の方「家康様は四月になくなっていたはずです。なんで六月一日に開くのかはわかりません」(旧暦で四月十七日は新暦の六月一日だよ。やっぱ命日に開けてんだよ)
管理人の方「神前の階段が七段あったでしょう。また、狛犬のしっぽが七本あったでしょう。これは北斗七星をかたどっているんですよ」
わたし「家康様は帝王の★、北極星だから、北斗七星を従えてるんですよね」
管理人の方「おお、よく知ってますね。前にこられた方の話によると、この東照宮は東を向いていますが、真東ではなく五度ずれているんだそうです。それて゜久能山と日光山に向いているそうです。不思議ですね」
わたし「そうですねー」(ちなみに私は聞いたまま書いていて確認してません)
管理人の方「そんなに東照宮が好きなら、これは参考になりませんか」と管理人の方がくださったのが、全国東照宮連合会の会報特別記念号。
これはすごい。
連合会の歴史から、会報のバックナンバー情報、はては徳川宗家の講演録まであり、葵オタクにはたまらないラインナップ。
ありがたく頂戴する。
日光東照宮くらいになると自前で稼げるので、神社本庁とは別組織でかなり自由にやっているらしいが、日吉東照宮は日吉大社の末寺で、とってもビンボーなので
「神社本庁にすがりつくしかない」そうである。
同じ東照宮にも格差問題。少しは経営の足しにと1000円はらって、葵の御紋入りお守りを買う(笑)。↓

家康の陣羽織袈裟
仏青のOBの方と現幹事長の少年Hくんとともに、江戸名所図会にものっている駒込の古刹、光源寺(光源氏じゃないのよ)を訪問した。
このお寺の先代のご住職が仏青の会長先生だったという。
光源寺はもと神田にあったが、もうちょっとひろい土地をあげましょうと、ここに他三軒の寺とともにうつってきて、そのあとここに他の寺もあつまってきて寺町になったという。
古民家を三つ組み合わせたという本坊は高級和風旅館ムードあふれ、すごいステキ。
本堂の阿弥陀様は何と茶室の中におさめられている。昭和二十年の五月のアメリカの空爆で、例によって過去帳と本尊以外は灰燼に帰した。
本尊をお祭りする場所がなく困っていると、もと旗本の檀家さんが、茶室をプレゼントしてくれたので、とりあえず茶室に阿弥陀様をお祭りしていたそうな。
その後、あまりに評判がいいので、本堂を建てた際も、茶室はそのままでさや堂の形式で包み込んだという。
それだけでも十分眼福であったが、私が、「将軍様~」とうなされると、ご住職、
「当寺には家康の陣羽織をしたてなおしたといわれる袈裟がありますよ」
という。聞けば家康が九州のキリシタンを仏教に改宗させるため、浄土宗の高僧、幡随意上人を九州に赴かせる際に、陣羽織を仕立て直した袈裟を賜ったという。
袈裟とともにつたわる書はまごうことなき幡随意上人の真筆であるというので、袈裟、ホンモノ度たかし!、
目の色かえた私は「是非拝見させてくださいっ」。
ご住職、おもむろに席を立っておもむろに、もってきたのは、桐の箱とかでなくて、フツーのデパートとかでわたされる紙袋。
それでも、ドキドキしながら袈裟をひろげる住職の手元を見つめると、美しい蜀江錦(裏地緋色)の袈裟が現れた。
おお、これが陣羽織を仕立て直した袈裟か。
って、ずいぶん大きいな。
九条袈裟か。
て、家康どんだけ大きな陣羽織きていたんだよ。
とどめが某研究者の鑑定結果でそこには「陣羽織にしては大きすぎます・・」と書かれていた(笑)。
しかし、住職の奥方様もおっしゃられるように、実際に家康拝領の袈裟なものは存在して、それがある時期ぼろぼろになったので複製して伝えたとも考えられる。
チベットでもよくやるのだが、信仰の対象として大事にされればされるほど、ぼろぼろになるのも早いので、そのコピーをつくっておみたま入れて遣い続ける。
わかりやすいところでは、「ばあちゃんの原宿」巣鴨のとげ抜き地蔵尊とか。体がわるいとき、あそこの境内にある観音様の対応する体の箇所をこすると病が治るとの信仰から、病人・老人のたわしによっていくつもの観音尊がのっぺらぼーになってきた。
私が昔こすっていた観音様も、今はうしろのお堂にはいっていて、今はピンチヒッターの観音様がこすられている。
だから、逆に言うとこのお袈裟はありがたいものとしてしょっちゅう着られてきて、そのたびにかりにつくりなおしていたとしても原本の忠実なコピーであり
なおかつその精神は
家康公の陣羽織以外の何者でもないのである。

このお寺の先代のご住職が仏青の会長先生だったという。
光源寺はもと神田にあったが、もうちょっとひろい土地をあげましょうと、ここに他三軒の寺とともにうつってきて、そのあとここに他の寺もあつまってきて寺町になったという。
古民家を三つ組み合わせたという本坊は高級和風旅館ムードあふれ、すごいステキ。
本堂の阿弥陀様は何と茶室の中におさめられている。昭和二十年の五月のアメリカの空爆で、例によって過去帳と本尊以外は灰燼に帰した。
本尊をお祭りする場所がなく困っていると、もと旗本の檀家さんが、茶室をプレゼントしてくれたので、とりあえず茶室に阿弥陀様をお祭りしていたそうな。
その後、あまりに評判がいいので、本堂を建てた際も、茶室はそのままでさや堂の形式で包み込んだという。
それだけでも十分眼福であったが、私が、「将軍様~」とうなされると、ご住職、
「当寺には家康の陣羽織をしたてなおしたといわれる袈裟がありますよ」
という。聞けば家康が九州のキリシタンを仏教に改宗させるため、浄土宗の高僧、幡随意上人を九州に赴かせる際に、陣羽織を仕立て直した袈裟を賜ったという。
袈裟とともにつたわる書はまごうことなき幡随意上人の真筆であるというので、袈裟、ホンモノ度たかし!、
目の色かえた私は「是非拝見させてくださいっ」。
ご住職、おもむろに席を立っておもむろに、もってきたのは、桐の箱とかでなくて、フツーのデパートとかでわたされる紙袋。
それでも、ドキドキしながら袈裟をひろげる住職の手元を見つめると、美しい蜀江錦(裏地緋色)の袈裟が現れた。
おお、これが陣羽織を仕立て直した袈裟か。
って、ずいぶん大きいな。
九条袈裟か。
て、家康どんだけ大きな陣羽織きていたんだよ。
とどめが某研究者の鑑定結果でそこには「陣羽織にしては大きすぎます・・」と書かれていた(笑)。
しかし、住職の奥方様もおっしゃられるように、実際に家康拝領の袈裟なものは存在して、それがある時期ぼろぼろになったので複製して伝えたとも考えられる。
チベットでもよくやるのだが、信仰の対象として大事にされればされるほど、ぼろぼろになるのも早いので、そのコピーをつくっておみたま入れて遣い続ける。
わかりやすいところでは、「ばあちゃんの原宿」巣鴨のとげ抜き地蔵尊とか。体がわるいとき、あそこの境内にある観音様の対応する体の箇所をこすると病が治るとの信仰から、病人・老人のたわしによっていくつもの観音尊がのっぺらぼーになってきた。
私が昔こすっていた観音様も、今はうしろのお堂にはいっていて、今はピンチヒッターの観音様がこすられている。
だから、逆に言うとこのお袈裟はありがたいものとしてしょっちゅう着られてきて、そのたびにかりにつくりなおしていたとしても原本の忠実なコピーであり
なおかつその精神は
家康公の陣羽織以外の何者でもないのである。

そこらの愛玩犬に潜むチベット犬の血
犬専門雑誌の古典『月間Wan』(←ここクリックすると、ホムペに飛びます)は今月、チベットと中国の犬特集です。
題して「中国犬西藏」(なんじゃこりゃ)

わたしも書いてまーす。
わたしのページにはっている写真はとくに去年の夏にチベットいった折に私がとった写真である。
去年のチベットツァーに参加してくださった方の中にワンコだい好きの◎×さんという方がおり、その方のあおりで何ということもなく犬の写真をとりまくっていたら、今回それが非常に役に立ちました。
ちなみにそれ以前のチベット旅行でとった写真みても犬の写真は数える程しかなく、人というものは興味をもたないと、見れども見えず、聞けども聞けずという、例の法則を思い知ったシダイであります。
ありがとう◎×さん。
それで、送ってきた見本誌をみてびっくり。
みなさん、チャウチャウにシーズーに、シャーペイに、それどころかあのパグに、チベット犬の血が入っているってご存じでしたあ?
私は知りませんでした。まったく知りませんでした。
ものすごいびっくりしました。目から鱗です。わたしでも知っている代表的な愛玩犬がチベット犬の血を引いているなんてびっくりくりくりくりっくりです。
私がいかにチベットのとある特殊な事情にしか知識がないかを思い知ったシダイ。・・・。
ちなみに、他の方の記事の中に「ラマ教」とか書いている人いますが、あれは「チベット仏教」あと、ラサ・アプソの説明にでてくる、アプソ・センカイというへんな言葉は(ab sog seng ge獅子のごときアプソ)が正しいです。
ちなみに、自分の文章でキャプションを校正する時、お坊さんの写真に「合掌する犬」(笑)とかあって、仰天しましたが、ちゃんと治っているようですね。
題して「中国犬西藏」(なんじゃこりゃ)

わたしも書いてまーす。
わたしのページにはっている写真はとくに去年の夏にチベットいった折に私がとった写真である。
去年のチベットツァーに参加してくださった方の中にワンコだい好きの◎×さんという方がおり、その方のあおりで何ということもなく犬の写真をとりまくっていたら、今回それが非常に役に立ちました。
ちなみにそれ以前のチベット旅行でとった写真みても犬の写真は数える程しかなく、人というものは興味をもたないと、見れども見えず、聞けども聞けずという、例の法則を思い知ったシダイであります。
ありがとう◎×さん。
それで、送ってきた見本誌をみてびっくり。
みなさん、チャウチャウにシーズーに、シャーペイに、それどころかあのパグに、チベット犬の血が入っているってご存じでしたあ?
私は知りませんでした。まったく知りませんでした。
ものすごいびっくりしました。目から鱗です。わたしでも知っている代表的な愛玩犬がチベット犬の血を引いているなんてびっくりくりくりくりっくりです。
私がいかにチベットのとある特殊な事情にしか知識がないかを思い知ったシダイ。・・・。
ちなみに、他の方の記事の中に「ラマ教」とか書いている人いますが、あれは「チベット仏教」あと、ラサ・アプソの説明にでてくる、アプソ・センカイというへんな言葉は(ab sog seng ge獅子のごときアプソ)が正しいです。
ちなみに、自分の文章でキャプションを校正する時、お坊さんの写真に「合掌する犬」(笑)とかあって、仰天しましたが、ちゃんと治っているようですね。
Mr.マリックにお手軽に感動する白雪姫
木曜日、テレビでMr.マリックが自らの生い立ちについて語っていた。その内容に
感動した(死語)!
Mr.マリックは本名松尾さん。
彼とマジックとの出会いは中学生の頃、東京からやつてきた転校生が手品の達人であったことから、松尾少年「すげー」とマジックのとりこに。
彼はそれから、マジックに必須の柔らかい手をつくるために日夜特訓を重ね、数々のマジック大会で優勝する。
学校を卒業したあとは、地元の名古屋のデパートで子供向け手品用品の実演販売をはじめる。もちろん、ハケンである。売り上げただけしかお金がもらえない完全歩合制である。
そのデパートには人が少ないのでまったく売れず、思いあまった彼は「東京にいけばなんとかなる」と東京に向かった。
これこれ、お金もってるの? もちろんもってません。
彼は東京のデパートで手品用品の実演販売をはじめる。お金がないので、極寒の一月に新宿の公園で寝泊まりし、お昼ご飯もたべずに売り続けた。
マリック曰く「この前仕事で南極いったんですが(ペンギンを消しにいったらしい 笑)、あの時の新宿の公園は南極より寒かったです」
そう、寒さで眠れない晩もある。そんな毎日でも彼はマジックを考え続けていたので楽しかったという。
若いってすんばらしい。
そうこうするうちに、デパートの店員の女性が、がんばる彼をみそめて結婚。住む場所もでき(笑)、仕事の方も一日27万円をうりあげるトップセールスを行うように。
マリックはそこで、当時の実演販売をゲストの研ナオコとかを相手に再現してみせるのだが、本当にうまい。
やすっぽい手品道具を話術と手さばきで魅了して「買いたい」と思わせるのである。さいのーである。
順風満帆にみえた彼の人生には、しかしその後大きな危機が訪れる。
ユリゲラーの登場である。
彼はテレビの前で超能力でスプーンをまげてみせ、日本には「超能力ブーム」がおきる。
付和雷同の日本人は、手品=インチキ、超能力=ホンモノという洗脳状態になり、マジックは冬の時代に突入し、手品道具はまったく売れなくなりました。
マリックのすごいとこは、その逆境にあってもマジックを投げ出さなかったこと。
ユリゲラーがなぜうけ、マジックがなぜ否定されたかを考えた結果、「ユリゲラーはスプーンのようなどこにでもあるものをつかってほんものっぽい超能力をみせた。一方マジックは使う道具も、マジシャンの服装も、たとえば何か不思議なことをおこす場合にも、布をかける、箱にいれる、など人の目を遮蔽する動作を行う。これらがインチキくさいと判断されて嫌われたのだ」と結論するにいたる。
そこで二年にわたる精進潔斎の結果、彼は劇的な変身をとげる。
まず、マジシャンの制服であるタキシードをすて、あやしい黒づくめの服装となる。それから、マジシャンは観客の目をネタ場からそらすために、相手の目を誘導するので、大きな目は必須だが、彼はその目をあえてサングラスでかくした。さらに、名前も松尾をやめて、マジックとトリックをくっつけてマリックという芸名にし、国籍不明のミステリアスさを演出したのである。
そして、マジック本体も、古典的なマジック道具(杖・布・箱・鳩)はほとんどつかわず、すじがきも、いかにも、あたかも超能力であるかのようにみせる、自然なながれで台本を書いたのである。 (彼はマジック百科のっている1000のネタをくみあわせて、2000のオリジナルの芸を作り続けて居るとな)
以後のマリックが爆発的な人気を博し、彼のでる番組がすべてテレビ局のドル箱になったことはみなもご存じだろう。
おおがかりな装置をつかい観客を幻惑するアメリカ人のマジシャン、カッパーフィールドに対しては、
「おなじ装置をつかって一年同じ興業するなんてわたしは退屈ですね」と余裕で一蹴。
かつて彼を生活苦に陥れたユリゲラーは彼の超魔術をみて、「そのネタうってくれ」と彼をエレベーターの中にまでおってきたそうである。
マリックは今、自分のマジックに自信をもっているので、こういう話ができるのだ。
わたしが感動したのは、マリックが、困難につきあたるたび、状況を分析してそれを越える能力をみにつけていったこと。
そして、 誰もうらやまず、誰のマネもせず、誰のせいにもせず、ただひたすらマジック道をきわめつづけてきたこと。これは、イチローなどの一流のスポーツマンにも感じられる職人芸の粋だ。
大半の人は、何かをなしとげられなかった時、あれこれ理由をつけて自らを正当化して逃げる。
マリックだって、「名古屋のデパートには人がいないから生活がなりたなかった」「東京の公園生活がつらい」「ゆりげらーのせいで商売あがったりだ」とかいってどの段階だって、理屈をつけてマジックやめることができたはずだ(おそらく大部分の人はここでおわる)。
しかし彼はやめなかった。
なぜかは、なんとなくわかる。
彼は自分に自信があったのである。だからぶれない。その自信はやはり初めてマジックにであった中学生の頃から、柔らかい手指をたもつための練習を怠らないこと、自分の独創性の高さ、自分の技術力の高さに培われたものなのである。
だから、徐々に現実を彼の前に跪かせることができたのである。
努力とそれによってもたらされる才能というものは、人の前に道をつくるものだとつくづく感心した。
日本人の多くはかつてこの職人魂をもっていた。
しかしいつのまにやら、人々は、地道な努力の積み重ねをきらい、ラクに流れるようになり、それどころか
「オレがこうなったのは、社会がわるい、親が悪い、教師がわるい」とのたまって、ニートやひきこもりの若ものが日本中(と先進国)にあふれているのだから困ったもんだ。
ま、一つの文明が終わる時ってのはこんなもんかなとも思うが、やっぱりかっこわるくても、逆境にあっても自らの信じる道をきわめる方が、言い訳や文句いいながら自分を哀れみつつ、ひきこもっているよりゃー、はるかにかっこいいと思うのだ。
感動した(死語)!
Mr.マリックは本名松尾さん。
彼とマジックとの出会いは中学生の頃、東京からやつてきた転校生が手品の達人であったことから、松尾少年「すげー」とマジックのとりこに。
彼はそれから、マジックに必須の柔らかい手をつくるために日夜特訓を重ね、数々のマジック大会で優勝する。
学校を卒業したあとは、地元の名古屋のデパートで子供向け手品用品の実演販売をはじめる。もちろん、ハケンである。売り上げただけしかお金がもらえない完全歩合制である。
そのデパートには人が少ないのでまったく売れず、思いあまった彼は「東京にいけばなんとかなる」と東京に向かった。
これこれ、お金もってるの? もちろんもってません。
彼は東京のデパートで手品用品の実演販売をはじめる。お金がないので、極寒の一月に新宿の公園で寝泊まりし、お昼ご飯もたべずに売り続けた。
マリック曰く「この前仕事で南極いったんですが(ペンギンを消しにいったらしい 笑)、あの時の新宿の公園は南極より寒かったです」
そう、寒さで眠れない晩もある。そんな毎日でも彼はマジックを考え続けていたので楽しかったという。
若いってすんばらしい。
そうこうするうちに、デパートの店員の女性が、がんばる彼をみそめて結婚。住む場所もでき(笑)、仕事の方も一日27万円をうりあげるトップセールスを行うように。
マリックはそこで、当時の実演販売をゲストの研ナオコとかを相手に再現してみせるのだが、本当にうまい。
やすっぽい手品道具を話術と手さばきで魅了して「買いたい」と思わせるのである。さいのーである。
順風満帆にみえた彼の人生には、しかしその後大きな危機が訪れる。
ユリゲラーの登場である。
彼はテレビの前で超能力でスプーンをまげてみせ、日本には「超能力ブーム」がおきる。
付和雷同の日本人は、手品=インチキ、超能力=ホンモノという洗脳状態になり、マジックは冬の時代に突入し、手品道具はまったく売れなくなりました。
マリックのすごいとこは、その逆境にあってもマジックを投げ出さなかったこと。
ユリゲラーがなぜうけ、マジックがなぜ否定されたかを考えた結果、「ユリゲラーはスプーンのようなどこにでもあるものをつかってほんものっぽい超能力をみせた。一方マジックは使う道具も、マジシャンの服装も、たとえば何か不思議なことをおこす場合にも、布をかける、箱にいれる、など人の目を遮蔽する動作を行う。これらがインチキくさいと判断されて嫌われたのだ」と結論するにいたる。
そこで二年にわたる精進潔斎の結果、彼は劇的な変身をとげる。
まず、マジシャンの制服であるタキシードをすて、あやしい黒づくめの服装となる。それから、マジシャンは観客の目をネタ場からそらすために、相手の目を誘導するので、大きな目は必須だが、彼はその目をあえてサングラスでかくした。さらに、名前も松尾をやめて、マジックとトリックをくっつけてマリックという芸名にし、国籍不明のミステリアスさを演出したのである。
そして、マジック本体も、古典的なマジック道具(杖・布・箱・鳩)はほとんどつかわず、すじがきも、いかにも、あたかも超能力であるかのようにみせる、自然なながれで台本を書いたのである。 (彼はマジック百科のっている1000のネタをくみあわせて、2000のオリジナルの芸を作り続けて居るとな)
以後のマリックが爆発的な人気を博し、彼のでる番組がすべてテレビ局のドル箱になったことはみなもご存じだろう。
おおがかりな装置をつかい観客を幻惑するアメリカ人のマジシャン、カッパーフィールドに対しては、
「おなじ装置をつかって一年同じ興業するなんてわたしは退屈ですね」と余裕で一蹴。
かつて彼を生活苦に陥れたユリゲラーは彼の超魔術をみて、「そのネタうってくれ」と彼をエレベーターの中にまでおってきたそうである。
マリックは今、自分のマジックに自信をもっているので、こういう話ができるのだ。
わたしが感動したのは、マリックが、困難につきあたるたび、状況を分析してそれを越える能力をみにつけていったこと。
そして、 誰もうらやまず、誰のマネもせず、誰のせいにもせず、ただひたすらマジック道をきわめつづけてきたこと。これは、イチローなどの一流のスポーツマンにも感じられる職人芸の粋だ。
大半の人は、何かをなしとげられなかった時、あれこれ理由をつけて自らを正当化して逃げる。
マリックだって、「名古屋のデパートには人がいないから生活がなりたなかった」「東京の公園生活がつらい」「ゆりげらーのせいで商売あがったりだ」とかいってどの段階だって、理屈をつけてマジックやめることができたはずだ(おそらく大部分の人はここでおわる)。
しかし彼はやめなかった。
なぜかは、なんとなくわかる。
彼は自分に自信があったのである。だからぶれない。その自信はやはり初めてマジックにであった中学生の頃から、柔らかい手指をたもつための練習を怠らないこと、自分の独創性の高さ、自分の技術力の高さに培われたものなのである。
だから、徐々に現実を彼の前に跪かせることができたのである。
努力とそれによってもたらされる才能というものは、人の前に道をつくるものだとつくづく感心した。
日本人の多くはかつてこの職人魂をもっていた。
しかしいつのまにやら、人々は、地道な努力の積み重ねをきらい、ラクに流れるようになり、それどころか
「オレがこうなったのは、社会がわるい、親が悪い、教師がわるい」とのたまって、ニートやひきこもりの若ものが日本中(と先進国)にあふれているのだから困ったもんだ。
ま、一つの文明が終わる時ってのはこんなもんかなとも思うが、やっぱりかっこわるくても、逆境にあっても自らの信じる道をきわめる方が、言い訳や文句いいながら自分を哀れみつつ、ひきこもっているよりゃー、はるかにかっこいいと思うのだ。
白雪姫、あっという間に帰還
自由人さん、北の国からさん、モモ大東さん、Emi姉さん、ありがとうございました。凍死せず無事に帰って参りました。
私が到着する前の日、中国東北部は五十何年ぶりかの大雪とかで、上空からみる遼東半島は真っ白でした。
以下に報告アップしました。写真の横に文字いれる入れ方がわかりません。あとで直します。
第三の女さん、歴史学者は、うしなわれた過去の出来事や思考法や時代の空気みたいなものを再構成する仕事です。謎解きといってしまうとすこし軽いかも。
↓
http://ishihama.tibetan-studies.net/okamenomori/ishihamayumiko/07Pekingtour.html
私が到着する前の日、中国東北部は五十何年ぶりかの大雪とかで、上空からみる遼東半島は真っ白でした。
以下に報告アップしました。写真の横に文字いれる入れ方がわかりません。あとで直します。
第三の女さん、歴史学者は、うしなわれた過去の出来事や思考法や時代の空気みたいなものを再構成する仕事です。謎解きといってしまうとすこし軽いかも。
↓
http://ishihama.tibetan-studies.net/okamenomori/ishihamayumiko/07Pekingtour.html