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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2007/02/27(火)   CATEGORY: 未分類
本門寺に眠る江戸初期の法華経行者たち
ここ数日目が痛い。運動したりお風呂入ったりして血行がよくなると少し改善するが、全体にずっとわるい。仕事する気にならん(いつもだろ)。
目薬さしまくるがいっこうにきかない。パソコン画面が目にしみる。
くうううう。

でもぶろぐは書く。

 先週の日曜日にダンナと本門寺に遊びに行った。小学校の頃、区内の学校が集まってやる合唱コンクールは本門寺の傍らにある池上会館で行われたので、リハーサルは重文の五重塔の前でやったもんだよ。 なつかしー。

 さて知らない方のためにサービス説明ターイム。

 本門寺とは、ご存じ日蓮宗の宗祖・日蓮がなくなった場であり、大本山の格式をもつ巨大なお寺なのであーる。戦災で丸焼けになったとはいえすっかり境内部分はたちなおっている。

 そして墓地部分にはこの本門寺をバックアップした大名たちの墓がならぶ。一番すごい墓は徳川家康の側室の一人、お万の方の墓。彼女は家康の晩年の側室で、かつ熱烈な日蓮宗徒。

 このお万の方が家康とのあいだに儲けた二人の子供が、後に紀州と水戸の徳川家の祖となる(御三家のうちの二つ)。しかも、紀州徳川家の祖となる彼女の息子はこれまた法華経行者として名高い加藤清正の嫡女を正室に迎えている。

 加藤清正といえば、豊臣秀吉の命をうけて朝鮮半島にせめこんで、核施設のあるので有名な北朝鮮のヨンピョン周辺まで席巻した、今から考えるとかなりやばいことをやった武将である。

 彼も熱烈な日蓮宗徒で、ここ本門寺の境内に眠る。

 
 側室とはいえ家康の妻とその子孫が眠る寺であるにもかかわらず、この寺にはなぜか将軍家の影はうすい。葵の御紋も門前の理境院と本殿横の客殿の屋根にそれと認められるくらいである。
 同じような立場の浄土宗の寺ならそこここに将軍家の残り香があるのに。

 それもそのはず、日蓮宗と徳川家との関係はちょと微妙。日蓮宗はもともと法華経が一番大事で、時の政権とはもめごとおこすので有名だが、とくにその一派である不受不施派は将軍家と対立したため、幕府の怒りにふれて禁教とされた。

 そしてこの寺の法主日樹は江戸初期、日蓮宗の不受不施派に属していて流罪にされた。

 このぶろぐでもとりあげた谷中の天王寺と学芸大学にある円融寺ももとは不受不施派の日蓮宗であったのだが、徳川政権に弾圧されて天台宗に改宗した寺である。

 そう考えると、徳川家の影がうすくても仕方ないのかもしれない。そのせいかどうか知らないが、明治初年、旧幕府勢力と明治政府が最期の大げんかをした時、幕府側の彰義隊は上野の寛永寺を大本営にし、対する大村益次郎ひきいる明治政府軍側は、ここ本門寺に陣営をはった。

 天台は徳川とラブラブだったので、天台の関東大本山が旧幕府勢力に協力するのは分かるが、本門寺が明治政府に協力したのは、絶対、法主が徳川政権に流罪にされたことを怨んでいたからだ。

 おおこわ。


 で、結果はご存じ。旧幕府勢力は破れ、東の比叡山と言われた壮大な上野の寛永寺は焼失した(今の国立博物館と大噴水のある場所が寛永寺の中心部。その巨大さが知れるというもの)。

 で、余談だが、関東の比叡山を焼いた織田信長、もとい、大村益次郎はその翌年刺客に襲われてその傷がもとで一ヶ月後にこの世を去る。

 東西の比叡山を焼いたものが両者ともあまりいい死に方をしなかったのをみると、やっぱ比叡山を焼くのはまずいよな、と思う。

 文化財は大切に。
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DATE: 2007/02/24(土)   CATEGORY: 未分類
狭山不動尊と浅間観音
中央線沿線に引っ越されたばかりの某先生(男)が、車内でホモの知漢にあったそうである(ちなみに、漢字が誤字なのは自動で貼られる不快なコメント・トラバを避けるため)。

A先生(女)「混んでいたから手が偶然当たったんじゃないですか」

被害者の先生「それがなで回されたんですよ。気のせいじゃないですよ。気持ち悪い。」

私「その場で締め上げて、駅員に引き渡せばよかったじゃないですか」

被害者の先生「早稲田の先生がホモの知漢を捕まえたとかいって、笑いものになるのがオチですよ」

私「どははははは」

被害者の先生「妻もそうやってバカ笑いしてました・・・」

女性が知漢にあったら同情されるし、勇気を出して引き渡せば「よくやったね」と回りからほめられるが、男が知漢にあっても笑いものにしかならんし、締め上げたところで「ああご苦労さん」で終わり。悪くすると笑いもの・・・・。
強くあらねばならない、男というものはつらいのう。

 前回のお話にのぼったように、寛永寺(天台宗)と西武グループの創業者、堤康次郎さんはとっても仲良しだったみたい。

1951年に堤さんは浅間山麓に、溶岩流が固まってできた奇観「鬼押し出し」をテーマパークとした鬼押し出し園なるものを開園します。

この押し出し園に1957年に寛永寺の灯籠が40基ほど移設されており、翌年5月には寛永寺の別院としてここに「鬼押し出し観音堂」(通称浅間観音)なるものが建ちます。

 これは浅間山の噴火でなくなった方々の霊を慰めるためのものだそうで、この功績で堤さん翌年1958年には天台座主大僧正より賞状をもらっております。

 で、寛永寺(天台宗)と堤さんがラブラブなこの50年代は、増上寺(浄土宗)と堤さんはゲロゲロの紛争状態でした。

 しかし、こうして争っていても仕方ないしー、と1957年に増上寺は堤さんと和解のテーブルにつきます。

 その結果、1958~1960年には増上寺の将軍家の墓の改葬が始まり、1960年には敷地内にある建築物はユネスコ村に移築され、石灯籠は「どんどんもってっちゃってー」と全国へ流出。
 
 つまり、増上寺と寛永寺にある将軍家の遺産はおもに50年代から60年代前半に散逸したのでした。

 この時期はじつは、1964年の東京オリンピックをひかえて、東京が一変した時期である。国は焦土から奇跡の復興を誇示するために、なりふりかまわず東京を開発したのである。

 そして、外国人向けのホテルをたてる企業に税制を優遇したりしたため、堤さんのプリンス・ホテルグループは全国に飛翔した。復興が優先されるこの時期、文化財に気を回す人はいなかったのだ。 

 貧すれば鈍する。悲しいのう。

 増上寺の徳川家霊廟の建造物が移築されたユネスコ村とは、西武が狭山湖のほとりにたてたテーマパークである。私はここに小学校の遠足で一度いったが、なんかいろんなところから寄せ集めた建物がたっていた記憶がある。

 その時にはまったく気がつかなかったが、これは西武が大名や宮様の土地を買収して、その上にホテルなりなんなりをたてる時に、じゃまになった歴史的建造物をよせ集める場所であった。

 堤さんによると、「ホテルがあったからみな土地が残ったんだ。ホテルがなかったら、土地を分けてみな売ってしもうとる。・・・」。

 しかし、そもそも徳川家の霊廟とか、歴史的建造物とかは人類共通の遺産であり、その建造物を所有している一家族(徳川家とか)なり、一宗教法人なりにまかせておいていいものじゃない。その所有者が歴史的建造物を維持できなくなったなら、公共のものに移管してなんとかするのが真の文化国家というものではないか。

 開発優先の50年代の日本は文化財壊しまくり、公害垂れ流しまくっており、北京オリンピックを控えて清朝の歴史建造物をどかどか壊してホテルを建てている隣の国を、まったく笑えない状態だったのだ。

 しかしナゾなのは、1975年このユネスコ村内に西武の肝いりで狭山不動尊(天台宗別格本山)がたったこと。この寺の管理する建物は西武グループが投げ込んだ宗派も何もごった煮なもので、天台宗である必然性は全くない。浅間山のように鎮魂という動機もない。

 どうしてここに寺がたたなければならないのだろう。

 まさか、宗教法人化することで「税金をラクにしよー」なんて俗な理由じゃないですよね(はあと)。

 参考文献 大西健夫他『堤康次郎と西武グループの形成』
 参照ホムペ  http://www.k2.dion.ne.jp/~hkg/index.html
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DATE: 2007/02/20(火)   CATEGORY: 未分類
宝泉寺に残る将軍家の石灯籠
月曜日、早稲田南門横にある宝泉寺にお参りにいった。

 宝泉寺は早稲田にとって因縁の寺。

 早稲田大学本部キャンパスの地はむかし、まるごと水稲荷神社の境内であった。そしてこの稲荷を管理していたのが、宝泉寺である(江戸名所図会にものってます)。つまりこのお寺、早稲田大学本部キャンパスのもと地主様なのである。

 大隈銅像のたっていた場所にはかつては高田富士といわれる富士さんをもした築山があったが、この山もかつては宝泉寺の境内だった。

 例によって明治維新で寺域の大半を失って、今は早稲田がのっかっている、とそういうわけ。

 で、話をもどすと、心配事があったので、かなりまじめに祈願して、さあ行くかとふと振りむくと、石灯籠が目に入った。

 よくみると灯籠の傘の上に葵の御紋がついてる!

 しかも、形からいってこの灯籠、徳川家の墓所からもってきたものだ!

 20070220233728.jpg
この石灯籠今まで何度か眺めてきたが、葵紋に気がついたのはこれがはじめて。前回訪れた時には、わたくしの頭の中には石灯籠に関する知識はゼロ。単なる石。

 しかし、十日ほどまえ増上寺を訪れて、増上寺の将軍家の墓所には石灯籠が1000基はあったこと、それは西武に土地が売られたあと、置き場がなくなったので散逸したということを学んだばかりであった。そして、灯籠の行方を捜している方のサイトによってこの灯籠の形をみていたので、将軍家の墓にあるものだと気づいたのである。

 知識のあるなしでかくもモノを見る目は変わるのか。
 感動。

 期待に胸を弾ませつつ、灯籠に刻まれた文字を読むと損傷が烈しいが、
 「最樹院」と「文政」の文字が読み取れる。チベット史しか知らないわたしは、google イッパーツ検索!

 なんと、11代将軍となる徳川家斉の父にして、暴れん坊将軍吉宗の四男の子徳川 治済(1751-1827)の戒名であった。将軍様まではいかなくとも、将軍様の父である。孫である。そして一橋家の二代目である。そしてもう一つ読み取れる文字はなんと東叡山。東の叡山とくりゃあ、関東天台宗の本山、寛永寺である。

 てことは、この灯籠、もとは寛永寺の徳川家墓所にあったのか。てことはてことは、石灯籠、寛永寺からも流出しとるんかい。

 白雪姫はさっそく宝泉寺の庫裡の戸をたたく。仏青の取材で去年の暮れ二度ほどうかがつているので、ご住職、私を覚えているはず。

 わたし「ご無沙汰してます。あの葵の御紋の石灯籠、寛永寺のものですよね。寛永寺からここにどういう経緯できたのですか」

 ご住職「戦後すぐに寛永寺が徳川家の墓域の大半をつぶして一般向けの墓地に造成したとき、置き場のなくなった石灯籠を希望者に下げ渡したの。だから、ちょっとした天台宗の寺だったらどこにでもあるよ。あの灯籠は私の娘が当時の寛永寺の座主に嫁いでいた関係でここにきたのね。」

 わたし「増上寺のみならず、寛永寺の灯籠も全国にちらばつちゃってるんですかあ」

 ご住職「狭山不動尊にずいぶんあるよ。」

 わたし「狭山不動尊て、西武が増上寺の墓をつぶした際、そこにあったものをうつすためにつくった寺ですよね。」

 ご住職「あれは増上寺のためにつくったものじゃないよ。だって宗派天台宗だよ。戦後すぐの寛永寺座主が西武の堤康次郎氏と仲が良くてね」

 なんと、西武は、増上寺ばかりか、もう一つの将軍家の墓所寛永寺の文物も接収してたのである。言われてみれば狭山不動尊は増上寺の宗派の浄土宗でない。寛永寺の宗派、天台宗だ。

 恐るべし西武。

 わたし「ところで、暮れにいただいたご住職の手作りの甘酒、とても美味しかったです。おかげさまでいいお正月になりました」

 ご住職「あ、まだ冷凍で一つ残っているよ。持って行きなさい」

 わたし「ありがとうございまーす。作り方教えていただけますか」

 心配事があるといってお寺の門をくぐり、将軍家の墓所の石灯籠をみつけてヨロコビ、つぎに歴史的文化財の散逸をうれい、甘酒の作り方をきいて終わるあたり、白雪姫の気分の変化はダウンバーストがおこりそうなくらい激しいのであった。


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DATE: 2007/02/17(土)   CATEGORY: 未分類
ある一在家の涅槃会
 木曜日はお釈迦様が涅槃に入られたことを記念する涅槃会。

 涅槃とは「苦しみのなくなった状態」を意味するサンスクリット語ニルヴァーナにゾクのごとく漢字をあてた言葉。

 全国津々浦々のお寺で、涅槃図(大体すごく大判)をかかげて涅槃会を行う。この前いった増上寺も二月いっぱいは本堂に寺寶の涅槃図を飾っている。
 でだ。全国どの涅槃会が一番すごいかというと、やはり夜を徹して読経をする高野山の常樂会だろう。

 高野山で徹夜の常楽会
 夜を徹して釈迦(しゃか)の遺徳をしのぶ法会「常楽会」が14日夜から、入滅したとされる15日昼前にかけて、和歌山県高野町の総本山金剛峯寺で営まれた。
 14日午後11時、釈迦の臨終の様子を描いた仏涅槃(ねはん)図をかけた大広間に、山内の僧ら約100人が対座。釈迦の生涯を物語にした4部構成からなる「四座講式」を唱和した。15日午前には高野山高校の生徒約150人も加わり、約12時間に及ぶ法会を終えた。(共同)[2007年2月15日13時41分]


 早大仏青のメンバー破顔くんは去年この法要に参加させていただいたそうで、その長丁場と法悦はものすごかったという。
 一度行ってみたいと思いつつ、小さなオカメインコを抱える身、なかなか思うように動けないので、とりあえず涅槃のポーズで昼寝をする。

 涅槃のポーズ。

 それは、お釈迦様が涅槃に入られた時の姿で、北枕で右脇を下にして肘枕で横たわる姿。かつて日本では死者を北枕にしたのはその名残りである。
 世界中の仏教国にまつられる涅槃仏はこのまったりとした姿である。

 キリスト教徒は同じように宗祖の死の姿(十字架の上で槍につかれて死んだ姿)を奉じるが、尊敬する宗祖があんな横死した姿を常時意識するから、一部キリスト教徒の気は荒いのだと思う。

 仏教徒が穏やかなのは、宗祖のお釈迦様が天寿を全うして穏やかになくなられたということも大きいであろう。
 で、涅槃のポーズで昼寝をしていると、突如として

 「お前が涅槃してどーする。」

 という仏様の声がしたため(単なる夢ともいう)、手近なところで近所の名刹九品仏浄真寺にいく。

 もう三時となっていたので法要とかは終わっているだろうなと境内を散策していると、わたくしのぶろぐにでてくるオタクのS氏そっくりだがもっと善人顔のさわやかな若い僧が、上品堂の掃除をしていらした。

 私「あのー、お伺いしたいことがあるのですが。このお寺の屋根とか賽銭箱に葵の御紋がありますよね。徳川将軍家との係わりとかがあるのでしょうか。」

 さわやか僧「さあー、私の知る限りではとくにないと思います。これは増上寺の寺紋と同じなんですよ。昭和の初期このお寺は増上寺の東京別院だったんです。墓地には増上寺の座主のお墓もありますよ」

 私「今日は涅槃会をやったのでしょうか。」

 さわやか僧「開山堂に涅槃図がかかっていますよ。明日にははずします。」

といって、開山堂に案内してくれた。涅槃図はいつ書かれたのかは分からないというが、白ゾウがころげまわってお釈迦様の死を悲しんでいるのもプリティな色鮮やかな図であった。
 涅槃図の前で手を合わせて、仏教の興隆を祈願する。

 八月十六日には寺寶の虫干しをするためにまた拝観できるという。

 九品仏浄真寺といえば、かつて右翼団体ともめて、街宣車が寺の前で住職の女性関係とかそのほかもろもろを糾弾したあげく、そのあとお寺の警備員がなにものに射殺されて、全国に知られたトホホな過去をもつ。

 そんなこともあって一時期足が遠のいていたが、今日わたくしにいろいろ教えてくださった若い僧はさわやかで誠実そうで、そんなドロドロした過去をカンジさせない。

 開山堂からかえる間際、件の住職の姿がちらりと視界に入るが、なんか気むずかしそうな顔をしているので見なかったことにする。

 ああ、いい涅槃会だった。
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DATE: 2007/02/13(火)   CATEGORY: 未分類
猫帰る・そしてチベットの熊犬
じつはここ数日言うにいえないことがあった。
 それは餓鬼道(♂猫)が行方不明だったこと。
 去年も一ヶ月ほど家によりつかないことがあったが、あれは夏だったし、病院につれていったあとだった。
 「♂猫は家によりつかないから、今度は女の子の猫にしようね」などとダンナと話し合っても(むろん餓鬼道があわてて帰ってくるのを期待しての発言である。本気ではありませんとも、ええ)、帰ってこないので、とうとうどこぞの戦場で倒れて帰らぬ猫となったのかとあきらめはじめたところであった。

 今度こそダメかと思っていたので嬉しかった。

 やせこけて、大けがではないが細かな傷が頭や顔にできている。やはりサカリがついて家出をしていた模様。
 そいえば、わがやの王子様ごろう(オカメインコ♂)も今日は一日あまり昼寝もせずよく鳴いてよく遊んでいた。彼もややサカリぎみなのかもしれない。
 明日は人間にサカリがつくバレンタインデー。
 昼には、まろんちゃんのおかあさんからも(オカメインコ教の教友)ごろうにチョコレートが届く。私からは、今年も帝国ホテルのチョコレートを用意。ごろうはチョコはともかくこの金ぴかの箱がなぜか大好きなのだ。

 ロイヤルなオカメインコにはロイヤルなチョコがふさわしい。
 
 今日はペット雑誌の原稿をさささと書き上げる。
 チベット人と動物との係わり方について説明した後、ダライラマ猊下をはじめとする有名人のチベット犬をめぐるエピソードをつなげた。

 もちろんええ話ばかりであるが、最後にアノ国への皮肉もきっちりかます。

 現在中国では愛国主義教育が暴走して「海外ブランドはたたきだせー、国産ブランドを擁護せよ」という幕末の日本の攘夷思想みたいな風潮が蔓延している。

 ルイ・ヴィトンやトラサルディなど1足で数万円もする高級靴を「劣質輸入革靴」としてもやし、故宮が宮殿内に誘致したスターバックスは「国辱」として撤退運動が起きている。

 つい先日試験上海・南京間で試験走行がはじまった中国初の高速列車(通称弾丸列車)も、技術は東北新幹線のまるうつしで、ほとんどの車両を輸入にたよって、たった四輌しか国内で生産できなかったにもかかわらず「中国国産」と銘打って走行している。

 NHkにマイク向けられた中国の乗客は小鼻ふくらませて「中国の技術が先進国に追いついたということで嬉しいです」といってたよ。

 あ、でも、アメリカの援助で首都高創った日本も同じか。

 て、そのような某国では犬も「洋ものなんてチャラチャラしてて、飼えるかい、犬は国産にかぎる」とかいって、チベタン・マスチフを「国犬」として飼うのがブーム。

 チベット産が「中国産」か。
 ま、チベットが「国内」になったのはついこの間(1951年)だけどね。というようなことを書く。

 話かわってうちの町に宝塚出身の女優、鳳蘭の事務所がある。この事務所の狭いガレージにはチベタンマスチフがいつも孤独につながれている。

 この犬は中国とか台湾ではやっていて、鳳蘭も中国系だからその関係でここにいる可能性はむんむん。

 一度火野正平がこの犬を散歩につれだそうとして、小柄なため犬にひきずられていた。

 その姿は以下のことを物語っていた。

 チベタンマスチフは狭い日本でひよわな日本人が世話するのは無理。
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DATE: 2007/02/11(日)   CATEGORY: 未分類
将軍家の菩提寺増上寺に参る
土曜日はゼミ生有志をつれて、歴代将軍様の眠るお寺、きわめつけの「増上寺」を訪問する。

 いまどきの若者に「お寺参りしよう」なんていったってどうせ来やしないから、「今はやりの東京タワーを見に行かない?」といって連れ出す。

 ウソはついていない。

 増上寺は東京タワーのふもとに立っているので、周辺のどこにいてもうっとうしいくらい、東京タワーが眼に入るから。

「牛にひかれて善光寺参り」ならぬ「東京タワーとイシハマにひかれて増上寺参り」である。

 増上寺は神君家康公が江戸に入城して以来の菩提寺であり、歴代将軍の半分はここに眠る(初代家康と三代家光は日光、残りは上野の寛永寺、最後の将軍は谷中の墓地らしい)。幕末の有名な和宮様のお墓もここである。

 戦災でからくも焼け残った巨大な三解脱門をくぐり、本堂で手を合わせ、就職を控えたみなのために、安国殿にいく。
 ここには家康公の念持仏である阿弥陀仏をまつっている。なにしろ天下人の阿弥陀仏であるから必勝祈願にはちょうどいい。みな、真剣に手を合わせて、そのあと、お守りなどを物色している。
 
 来てみれば楽しいもので、最初は「えーわたしは西洋史が好きだから」とか「オレは幕末は興味あっても将軍様の知識はぬけている」とかいっていた学生たちも、歴代将軍の葬儀やお墓やミイラの話をすると俄然興味をもちだしてきた。

 ミイラ。

 それはどんなに歴史に興味ない人でも、なんか興味がわいてくる魔法の言葉。

 以下、生臭い話。

 増上寺の将軍墓地は増上寺をはさんで北と南にあった。今現在この地には北には東京プリンスホテル、南には東京プリンスパークタワーがたち、この墓地はどこにもない。つまり、将軍様の墓地は、昭和三十年代にプリンスホテルの親会社西武に売却された際、改葬されて増上寺の西北の徳川家霊廟にまとめられた。

 当時、将軍たちは死ぬと甕棺の中にいれて土葬され、その霊をまつるみたまやが建てられて、そこには諸大名が石灯籠を無数に献じた。

 御霊やの大半は東京大空襲でやけたが、墓石や石灯籠はそのままのこっていた。すべてがその狭い墓域におさまるわけもなく、将軍や側室や子女のミイラは火葬されて、とくに側室や子女は合葬墓にいれられた。

 将軍たちのミイラは朱がつめてあったので、昨日死んだかのように保存がよかったらしいが、外気にふれたとたんに劣化がはじまったそうである。とはいえ火葬とはもったいない話である。ちなみに、30代の若さでなくなった和宮は、夫君家茂の銀盤写真をだいており、皆の涙をさそったという。

 そして必要なくなった甕棺や焼け残りの霊廟門は西武グループの運営するユネスコ村においてあります(はあと)。石灯籠については、「どんどんもっていってー」と譲っちゃった結果、全国各地にちらばって、所在不明のものも多いとか。石灯籠の行方をおうだけの研究している人もいるらしい。

 庶民となって広大な墓地を維持できなくなった昭和の徳川家の事情、歴史的な墓をそのままにしておきたい増上寺の気持ち、これはわからんでもないが、いやしくも一つの王朝を築いた将軍家の墓(歴史的・文化的価値てんこもり)をつぶして、石灯籠を全国に散逸させて、お墓の上にパークタワーだのホテルだのをたてる西武の気持ちはさっぱりわからん。せめて家康メモリアルパークとか、徳川史料館とか文化施設か公園をつくればよかったのに。

 東京のお寺には数多く大名墓がある。民主主義の時代となった今、大名の子孫たちはこれらの墓を昔のようには維持できずほとんどは無縁と化している。しかし、大半のお寺は経済的にいくら苦しかろうと歴史的文化的な価値と人情を考えて、そのお墓を手弁当で保存している。(土葬の甕棺を掘り出して巨大な石の墓石をどけて更地にするにはお金がかかるというのもあるだろうが。)そう考えてみると増上寺もつらいことだろう。

 周辺の○×寺でうかがった話では、「徳川家の末裔は売却に賛成していたが、増上寺は抵抗していた。しかし、お坊さんは世間知らずなので結局西武グループにしてやられた。西武の凋落は徳川家のたたりとか言われている」という。

 四十年後のたたりというのも気が長い話である。

 調べてみると、西武グループの総帥堤義明氏が逮捕されたのが、2005年3月3日、西武の復活をかけたパークタワーの開業日がそのわずか一ヶ月後だったことがそのような噂をたてられるもとのよう。

 増上寺にあった徳川の遺産は、明治政府の誕生による公有地の没収、政府の失政によって引き起こされた昭和20年のアメリカの空爆、戦後資本主義の嵐によって、この世から消えた。

 こう考えてみると、新旧グローバル化の波が「日本のパルテノン」(徳川家霊廟はかつて外国人からこう呼ばれた)をこの世から消したのだ。

 やーね、グローバルって。
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DATE: 2007/02/09(金)   CATEGORY: 未分類
お袈裟の偉大なる功徳
木曜日は仏青の例会。
今日はOB会長のIさんとKさんもおみえである。おおざっぱな流れとしては

1.仏青の機関誌『久遠』の校正ならびに発送予定の確認
2.仏青ゆかりの駒込の光源寺に新堂が完成したのでみなで訪問しましょうという予定確認。
3.破顔くんによる「お袈裟の話」のつづき
4.例によってマニアな雑談
5.学生会館前でのサイゼリヤでの懇親会
てなとことである。

 今回の『久遠』では私の拙文がトップとなっており、なにか気恥ずかしい。また、少年Hくん、ほとけどじょうくん、破顔くんによる、早稲田界隈のお寺紹介ならびらに、OBの皆様方の玉稿である(じつは自分の原稿以外まだ未読)。

 そして、破顔君によるお袈裟の話の続きである。

 お袈裟とは仏法を学ぶ人を他と区別する徴のようなものである。

 モノにたいする執着を克服することをとく仏教では、当然この袈裟は質素であることが要求される。しかし、日本ではなぜかいろいろなスタイルの袈裟がでまわり、さらには豪華になっていった結果、各宗派で「経典にある通りのお袈裟を着ようよ」(如法派)が生まれた。

 日本では聖徳太子以来、俗人も袈裟をみにまとってきた。袈裟の下にきるへんざんやじきとつについて詳しく知りたい方は楢崎一光老師*1著『僧堂の行持 如法の衣食住』を見てね(はあと)。

*1(この著者の方は戒律をまもって生涯を全うされたすばらしい方らしい。)

 一方、チベットや上座部仏教の国々では、高僧も小坊主もみな同じ色と形の袈裟をきて、豪華な袈裟などいうものは存在しない。また、俗人が袈裟をきることは許されず、出家をしなければ袈裟をきることはできない。

 そこで、口の悪い私は例によって怪気炎を上げる。

 戒律をしっかりまもって修行や勉学に励んでいるお坊さんは絶滅危惧種に指定して保護の対象とし、勉強もしなければ修行もせず、ただ「親が車買ってくれるっていうからあとをついでやった」とか嘯いて、金襴緞子の袈裟はおっているような人(マジでおります。こういう人)からは僧籍をとりあげろ。

十善行道の一つ悪口の罪をモロにおかしているような気もするが、袈裟も白くなるという末法の世*2、こんなのがでてきても仕方ない。

*2(破顔くんによると『法滅尽経』によると末法の世には袈裟が白くなるとでているそうで△蓮○宗はこれにのっとって薄墨の衣に白い袈裟をはおるそう)

 とにかくまともなお坊さんが絶滅しかかっている今、本山も少しは指導力や自浄能力を発揮して、まともなお坊さんの生活を安定させ、安心して修行や勉学にはげめる環境を整えることを考えてもいいのではないか。
 それがひいては宗派のそして仏教の名声をたかめ、長い目でみれば一分一秒でもながい仏教の存続につながるのだ。
 
 お釈迦様もかつてバラモン(インドの上層階級)にこう申しました。「人は生まれによって貴いのではなく、その行いによって貴くなるのである」と。

 で、お袈裟に話をもどす(リアルでも私の質問ですぐに脱線がはじまる。破顔くんごめん)
 
 破顔君によると、道元禅師の名著『正法眼蔵』にはお袈裟にはこんな素晴らしいメリットがあるということをテーマにした「袈裟功徳」という章がある。

 そこには戯れに袈裟をはおって踊った美しい女性が、生まれ変わった後の世に、蓮華色比丘尼となってお釈迦様のもとで阿羅漢果(煩悩を克服した境地)を得て、良家のお嬢様にあうと「とにかくいますぐ出家をしなさい」と勧めて歩いたというエピソードがあるという。

  俗人が袈裟を戯れにはおっただけで、後の世の阿羅漢果の種になるとは、何ともすごい袈裟の力への信仰である。
 そして「袈裟功徳」のクライマックスはこんなかんじ。

 袈裟は覚りの向かう行を植え付ける力があり、
 その種は春の苗のようにグングンのびて
 覚りの成果が実ることは、秋の果実のようである。
 袈裟は堅固な金剛の鎧のようなものである
 この鎧には煩悩の毒矢もつきとおることはない。
 このすばらしいメリットは無限の時をかけても説き尽くすことはできない。
 もし龍が袈裟の糸一筋でも身につけると、ガルーダ鳥の餌食になることはない。
 もし航海にこの袈裟をもっていると、竜魚諸鬼の災難にあうこともない。
 雷がとどろき、稲妻が天を切り裂こうとも、袈裟をつけていれば恐れることはない。
 在家の人がもしみずから手に捧げ持つことができれば、一切の悪鬼は近づくことができない。
 もし覚りを求めて出家をすれば、十方の魔宮は震動してこの人は直ちに法王の身を実現するだろう。


 この部分は引用とはいえ、ノリノリの文である。袈裟の功徳に感じ入ってしまい、キング牧師状態になって演説している感じ。
 
 蓮華色比丘尼のエピソードは『大智度論』あたりが典拠らしく、この「袈裟の十の利点」は『大乗本生心地観経』が典拠らしいが、いずれの経典もサンスクリット語・チベット語の版はない。前にも述べたが、チベットやインドでは俗人は袈裟をはおれないし、覚りとは修行の結果もたらされるものであり、袈裟の力を特段強調することもない。

 わたしはチベット仏教から入っているので、このような「ちょっと袈裟をはおっただけで来世に成仏」とか「なむあみだぶつ」「なむみょうほうれんげきょう」と一言唱えただけで、極楽に行けるとか、努力よりも信仰を重視する教えは、すばらしいことだとは思いつつ、「そんなに簡単に人間の煩悩は克服できないよ」とどこか否定的な気分になる。

 しかし、このように袈裟に大きな力を認め敬う結果、できるだけ昔ながらの作法にのっとって袈裟を手縫いしようというそのような行為は素晴らしいことだと思う。

 世界中の至るところで、花嫁衣装を自らの手でぬいあげて嫁に入る習慣のある民族がいる。この場合、時間をかけて花嫁衣装をつくっていくうちに、結婚にかける気持ちも真剣になるし、その心の準備もできていく。その結果家族を大事にして、いい生涯を送ることもあるだろう。

 それと同じで、自分で手縫いした袈裟をはおって、お釈迦様と同じ姿勢で瞑想すれば、、とりよせの法衣をきて、親に言われたからあとをついで坊さんやる人よりははるかに修行の成果はあがるであろう。

 蓮華色比丘尼のエピソードにしても、袈裟の十の利点にしても、そのようなすべての縁を前提にした上での袈裟の力をいっているのであり、「袈裟をはおれば悟れる」なんて単純なことをいってるのではないだろうな。
 
 事実、破顔くんが手縫いしたお袈裟はやはり何かとてもありがたいオーラを放っている。そこで、つい蓮華色比丘(の前世)にならってはおってみる。これで来世はオッケーか?

 何か私ってこんなことばかりしているな。
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DATE: 2007/02/06(火)   CATEGORY: 未分類
私が選ぶサラ川ベスト3
 突然ですが、現在第一生命が主宰するサラ川ベスト10の投票中である。サラリーマンの自虐にみちた目線に思わず「ぶっ」ときた。この川柳つくった人はみなユーモアのセンスがある。さぞステキなおじさまたちであろう。

 マイお気に入りをみっつ紹介しとく。

 
このオレに温かいのは便座だけ       宝夢卵
脳年齢 年金すでに もらえます       満33歳
手品好き 上司のデスクが 消えていた ワフワフ

ちなみに、昨日テレビをみていたら安藤優子キャスターも偶然にも「便座」の句を一番に揚げていた。
 
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DATE: 2007/02/05(月)   CATEGORY: 未分類
「夜明け」を地獄に感じる人々
 採点をやっと提出したが、トリップしている間に、何かいろいろなものがなくなっている。論文や雑文書くための参考文献が何冊かがどーしてもみつらないし、じゃあ、図書館で借りてきて当座をしのごうかと思っても、図書館のカードがみつからない。そもそも外出しようと思っても、静電気防止ブラシがないので髪もすけない。

 ないないづくし。

 気がつけば立春。気温はとにかく日差しは日に日に明るくなっていく。季節の移り変わりをみていると、何事も永遠はない、諸行無常であるということが端的に実感される。
 どんな悪いことでも、どんないい事でも永遠にそれが続くということはない。

 逆に言えばずっと悪いことが続いている〔ように見える〕人、ずっといいことが続いている〔ように見える〕人というのは、その法則に従っておらず、努力をして悪い状態に居続けたり、いい状態に居続けているということ。

 前者はいい事があってもすべて悪い方に考えて自分でチャンスをつぶしてどうどうめぐりしている人とかね。
 後者は、すごい逆境でも笑い飛ばしてきにしていなかったりする人とかね。

 願わくば後者のようでありたい。

 日テレのアナウンサーの大杉君枝という人が自殺と思われる転落死をした。なんか出産後、ナゾの痛い病気にかかって苦しんでいたらしい。マンションの敷地内で転落死体となって発見されたのが午前六時半。

 この時間はまさに現在の東京の日の出の時間である。睡眠障害の患者の大半はこの日の出の時間帯に自殺する。

 案の定、そのナゾのナントカ病をネットで検索してみると、痛み以外に睡眠障害などの症状が列記されている。たぶん、睡眠障害が直接の自殺の原因であろう。

 身近な人はよく知っているが、わたくしは小学校五年生の時からつづく年季の入った不眠症。一番ひどかった時には睡眠薬をいくらのんでも一睡もできないまま夜が明けるなんてことはザラで、そのときはやはり外が白々明るくなってくる夜明けが一番つらかった。

 普通の人にとってはさわやかな朝の始まりでも、睡眠障害もっている人にとっては眠れないまま一夜があけたことを示す魔の夜明け。

「これから寝ても、睡眠リズムをみだすだけ、もう死んでもいいから、休みたい」と思い詰めちゃうんだよねー。

 しかし、眠れないことで悩んでいるアナタ、これは治る病気です。希望をすてちゃいけません。

 私の睡眠障害は今は軽快し、唯一海外旅行で一時間以上時差があるとこにいく場合のみ発症するくらいにおさまってます。

 わたしが快癒したのはむろんごろうちゃん(オカメインコ♂)のお力である。ごろうちゃんが毎日、人?生を楽しんでいる姿を拝見しているうちに、彼の陽気にシンクロして「ものごとは何でも明るい面を見よう」という気になってきて、徐々に自律神経の失調がおさまったのである。

 というわけで、私にとってオカメインコは人生の師である。

 で、いきなりであるが、ダライラマ猊下にとってもインコは師であった。

 猊下がチベット時代たくさんの動物と一緒にくらしていたのは有名であるが、とくに鳥がお好きだったという(by Sir Charles Bell)。
 『ダライ・ラマ自伝』(文春文庫)によると、彼の先生ケンラプ・ティジンは大型インコがお好きで、インコもケンラプの手からごはんをたべたり、顔をなでさせてあげたりしてとても懐いていた。

 幼い14世ダライラマ猊下はこれをとてもうらやましく思い、インコに遊んでもらおうとしたが、相手にされなかったので(インコは知能が高いので特定の人にしかなつかない)、怒って木の棒でつついたら、それ以後彼の姿をみると飛んで逃げた。若きダライラマ猊下はこのとき「友達になるには力ではなく、思いやりである」ということを学んだという。

 あの慈悲の化身たるダライラマ猊下に慈悲のなんたるかをさとらせたのは、インコだったのである。

 すごいねインコって。
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DATE: 2007/02/02(金)   CATEGORY: 未分類
ガン細胞の自己認識
 先週の金曜日以来チオビタゴールドで無理矢理封印した風邪が、ふたたび封印をといてあばれまわりそうになってきた模様。

 風邪が悪化してくると、喉の痛みや熱といった明らかな症状がでる前に、私の場合、微妙な前駆症状がでる。

 たとえば、
 何もないところでよろめいて柱や壁に頭をぶつける、
 うっかりものを壊す
 飲み会の席でビール瓶やコップ酒を倒す。
 八年以上前にくじいた足首がなぜか痛む 
 駅の階段を登る足がなにやら重い etc.

今回は昨日飲み会でビール瓶とコップ酒をこぼし、翌日の今日はごろうちゃんのお茶碗を割ってしまった。

 ビールこぼしても回りの人が迷惑するだけだが(オイオイ)、ごろうちゃんのお茶碗の破壊は結構問題である。

 ごろうちゃんはカゴの外にいる時には、特定のお茶碗からしかお水を飲まない。手近にある他のお茶碗などでお水をもってくると、

 ごろう公「いつものを持て」

 と決して口をつけない。
 なので、今日の午前中はごろうちゃんの眼力をごまかせるくらいの似た茶碗はないかとさがしまわるはめになったのであった。ちなみに、採点はまだ終わっていない。
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さて、「今になって何いってるかてんだ。たりめーだというようなニュースが流れたので、報告。


温暖化「人間が原因」、国連4次報告を正式発表

2月2日22時24分配信 読売新聞

 【パリ=渡辺覚】国連「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の第1作業部会は2日、地球温暖化の分析・予測をまとめた第4次評価報告書「気候変動2007―自然科学の論拠」を正式に発表した。

 洪水、暴風雨、雪氷融解など世界中で見られる現象を、人間活動による二酸化炭素など温室効果ガス増加に起因する温暖化と明確に位置づけ、気候変動の厳しい現実を突き付けた。京都議定書とその後のより長期的な削減体制をめぐる国際協議への影響は必至だ。

 報告書はまず、「平均気温や海面水位の上昇などから、気候システムの温暖化は、疑う余地がない」と強調し、「20世紀半ば以降の温暖化は、人間の活動による温室効果ガスの増加によってもたらされた可能性がかなり高い」と言い切った。「可能性が高い」とする2001年の第3次評価報告より踏み込んだ。

最終更新:2月2日22時24分  読売新聞
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 地球温暖化の原因なんて、誰がみたって、毎日毎日ガン細胞のように世界中で増え続けて、毎日毎日化石燃料ぼんぼんもして、毎年毎年スイスくらいの大きさの熱帯雨林を伐採して畑にかえている人間さまに決まっている。

 なのに、それを認めたらこの大量消費社会を改めなきゃいけなくなって経済が失速するのがこわいもんで、とくに最大の二酸化炭素消費国のアメリカなんか京都議定書にサインせず現実を直視してこなかった。

 その結果、 北極の氷が溶けてホッキョクグマは漁ができなくて絶滅しかかるわ、サッポロの雪祭りの開催は危ぶまれてるわ、昨日モンゴルから来たお客さんは「日本は暑いですね」と屋外で半袖になっているわで大変なことになったわけだ。

 しかし、このたび、めでたくブッシュ政権が死に体になるわ、元民主党の副大統領のゴアが温暖化を告発する映画創るわ、ハリケーンのカトリーナがニューオリンズをぶっこわすわとしたおかげで、やっとアメリカが重い腰をあげていやいや現実を直視しはじめたってわけだ。

 遅いわ

 なんでこんなあたりまえの報告がでるまで、こんなに時間がかかるんだ。

 常々思うのだけど、戦争も・環境破壊もはじまってからではもう遅い。始まってからうてる手は限られてくる。始まった時点でもう負けは決まっているのだ。

 ましかし、仏典によると、人は死して後、再び生まれ変わる。それと同じように、世界はこれまで何度も消滅してきて、その無の中からなんども新しい世界に生まれかわってきたという。
 そう考えてみると、世界が滅亡に向かうのもまあ向かうべき方向に向かっているわけで、じたばたしても仕方ない。

 仏教では、「生は短いのだから、生きている間に仏の教えにしたしみ、よい生を送ることを心がけなさい、そうすれば、よりよい来世があるよ」ととく(一番いい来世は涅槃に入って再びこの世に生まれてこないことだけど)。

 つまり、仏教では、そもそも人間は「生」を求めつつ身を滅ぼす愚かないきものだし、この世界は滅びに向かうもんだし、だからこそ、できるだけ「悪いことをしないよう、善いことをするようにして」(諸善奉行・諸悪莫作)短い生を生きていけ、といってるわけ。
 ショーペンハウワーとかニーチェとか書こうかと思ったけど疲れたから、また今度。
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