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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2006/12/09(土)   CATEGORY: 未分類
「カタチ」を極めて「心」を伝える日本仏教
木曜日は例によって仏青の例会にでる。
部長のねもっちはお腹ぴーぴーで欠席。
今日は日本仏教の十三宗派の関東地区の拠点寺院をそれぞれの担当について調べてくること、
新入生がサークルを選ぶ際に参考にする学内雑誌『マイル・ストーン』にだす、仏青の紹介記事の文面を書くことなどが議題に(なんとなく)あがっている。

机の上には『マイル・ストーン』の編集部にだす書類がのっている。なんか授業評価を書く欄まであり、その対価でサークルの紹介記事ものせてもらえる、という方式らしい。

教師の側からみるとこの『マイル』の授業評価、とても評判が悪い。単位をとりやすいか否か、あるいは、代返が聞くか否かとかいう低レベルな発想で書かれていて、かつ、内容評価についても、たまたまあった原稿をそのまま何年もコピーしつづけて使うといういい加減さなので、見るにたえない。

 母数となる情報が増えて少しはましな内容になることを祈りたい。

 というわけで、母数を増やすべく早速、私は自分の授業の評価を、ニセ学生となって自作自演で書きはじめる。代返・不可、とか(どんな教師や 笑)。

 そして「各宗派の関東地区の拠点寺院」について。
 なぜこれを調べようと思ったかというと「お寺参りしたい気分」になっても関東にすんでいると、京都や奈良はちょっと遠い。そこで、関東にあるお寺で、善さげなものを物色するために、とりあえず伝統的な大寺の関東地区の拠点寺院について調べてみようと思ったのである。

 みなで結果をなんとなく報告しあうと、うすうす予想していた通りの結果。

 奈良や京都や大阪に本山をもつ大寺はほとんどが関東地区に進出していない。

 ていうか、そもそも本山・末寺制度が形骸化しており、「関西にある本山が関東地区にある末寺を組織して関東で自宗派の教えを広める」とかいう発想が最初からない。

 まあ、そうだよな。今、日本のお寺は、三タイプに分かれている。

(1) まず、地域に密着して葬式・法事を行うことによって運営される、葬式仏教型の寺
(2) お寺の建築・寺が収蔵する仏教美術の優品・庭園などによって集客する、美術館型の寺
(3) 最近はやりの、寺の本堂を劇場や地域の人々の交流の場に提供したりして集客するNPO型の寺


 日本の寺の多くは葬式仏教型で九割はそれ。そして大本山クラスのいくつかの大寺が美術館型の寺となり、最近マスコミで紹介されてはやりのお寺ルネッサンスNPO型の寺はまだごく少数であろう。
 
 このどれもが仏教の本質から遠く三千光年ほど離れたものであることは言うまでもない。

破顔くん「でも、庭でも寺でも美術品でも何でもお客さんがくるきっかけになってくれれば」

 わたし「じゃあ、聞くけど、それをきっかけに集まってきた人に対して、寺は何か自分の宗派の教えでも何でもいい、伝える努力をしているの? せいぜい講演会か写経か座禅どまりがいいとこでしょ。僧侶が『古い寺や庭や仏像をみせて、その中で写経したり、座禅したりして人が安らかな気持ちになってくれれば』ってなとこでとまっているから日本仏教は衰退する一方なんだよ。
 チベット人はねえ(でた、チベット語り)。中国に寺も仏像もぶっ壊されて、経典をもやされて、国まで失って、何もかも失って着の身着のまま亡命したって、チベット仏教を世界中でここまで維持・発展させたんだよ。 日本仏教が庭と仏像と建築と葬式とNPO活動をとっぱらって、それでもなお存在できると思う?。」

 破顔くん「まあ、ムリでしょうね」

 わたし「チベット人は『伝えるもの』を持っていて、しかもその内容が普遍的だったから、世界中に感銘を与えることができたんだよ。でも、日本の僧侶の大半はちゃんと仏教の教育を受けていないし、実践も崩壊しているから、誰の共感も得られない。」

  少年H「でも、まじめにやっているお寺って何かカルトっぽいんですよね。それに、伝統的な宗派でも奈良や京都にだけいて庭や寺みせている寺はわりとまともだけど、関東に進出していてるところって何かこうアレだし。」

  破顔くん「禅には形に心が宿るという言葉もあるし、形を極めていけばいつか心も宿るのでは。」

 うーん、何か日本仏教を理解する糸口がみえてきたぞ(今頃かい)。

 チベット仏教は中身(教理・信仰)勝負だから、古さにも形にも何にもこだわらない。だから、チベットの仏教儀礼は日本の儀礼にくらべると、大ざっぱで見た目あまり美しくない。日本仏教の方が遙かに洗練された美しい動きをするのである(でも、儀式の精神を理解し実践することについてはチベット人の導師の方がはるかに深い。)。

 仏像・仏画一つとってみても、チベット人にとっては修行のよすがであるから、壁画や仏像の新旧は関係ない。たとえば文化大革命で破壊された寺の壁にたまたま古い壁画が残っていたとしても、チベット人はそれをぶっ壊して新しい壁をつくりなおす。チベットは現に、言葉と実践という直球で仏教を伝承しているから、カタチを使う必要がないからである。

 一方、日本仏教にとって、修行や教理の勉強はすでに過去のものとなってしまっている。そのため、仏像や仏画は本来の利用目的において用いられることはなく、美術品としてショーケースの中で大事に保存・鑑賞されている。

 しかし、このショーケースの中にある寺や仏像や仏画の美しいカタチは、チベットの大ざっぱな壁画や仏画や仏像は発しない何かを我々に確かに発信している。かつては日本の名僧と言われる人の生きかた・立ち居振る舞いの中にもこの美しいカタチはあったのだろう。

 美しいカタチを通じて感じ取る美しい心、それが日本仏教の特徴なのかもしれない。

 だから、奈良や京都の寺がまったく布教をしないで、ただお庭や仏像や建造物としての寺の維持のみをはかっているのはある意味「あたり」なのかもしれない。

 だって日本仏教、言葉や実践によって伝えるものを失っているもんね。
 日本ってそういえばそういう国だったよね。

 少年Hくん「で、マイルの原稿はどうするんですか」
 破顔くん「あ、まかせるよ」
 少年Hくん「『仏教青年会』の会名このままだと入部希望者きませんよ」
 わたし「あ、じゃあ『仏ちゃん』でいこう。夏目漱石の名著『坊ちゃん』にかけて。カッコして仏教青年会ってちいさ~くいれとけば、編集部も何も言わないよ」
 破顔くん「仏ちゃんのあとには『。』もつけてね」
 わたし「モー娘。かい」

 こんな調子なので来年もどうなるやら。
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