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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2006/04/29(土)   CATEGORY: 未分類
母に捧げるバラード
今日は母の命日。なくなってからもう十三年になる。

京都の比叡山にあるお墓に詣でたいものの、今年は五月三日に大阪にいく予定があるため、何度も往復するのも疲れるので、今回は家で命日を送ることとする。

母もそんなことくらいで怒りはしない。

このわたしを育ててくれたのだから、それは忍耐強く温厚な人であった。

命日に限らず、母のことを思い出さない日はない。
生きていた頃も、死んだ今も、私にとって一番身近な存在である。

自分の中にあるいろいろなもの、それは母との生活によって植え付けられたものなので、じぶんの中をみると母を見つけることができるのだ。

たとえば今、テレビで大峰山の山桜を映し出している。
すると私は「出っ歯」と思いだし、笑いがこぼれる。
昔、母が「山桜はね、花(鼻)より葉(歯)が先にでるから、出っ歯なのよ」と教えてくれたことを思いだしたからである。
京都の女子大に通っていた母は、鼻の穴の大きい人を「東山トンネル」とも呼んでいたな。
母が生きていた頃は、このようなくだらない話題で二人でよくもりあがったものだ。

いろいろ思いだして楽しい気持ちになる。

今、四十代の息子が親を殺したなどというニュースを目にした。すると私は

「殺すほど親がきらいなら、絶縁して自立しろ。甘えんな」とオッサンな価値観できりこむ。
この私の中の小さなオヤジも私の母が作り出したものだ。

私の父は私の生まれる一週間前になくなっている。
遺産を残してくれたので母は私の養育に困ることはなく、二人の生活はじつに非社会的でおだやかなものだった(家の中に仕事からかえって疲れた顔をする人が一人もいなかったからね)。

生まれた頃から父がいないとドライなもんで、
「父がいてくれたらなあ」とかいう、いじましい気持ちはまったくおきない。
父のいない人生を実感させる、父のいる人生というものが端からないからね。

話をもとに戻すと、母は父のことをいつでもほめまくっていた。一度も悪く言うことはなかった。
曰く、
「あなたのパパは本当にステキな人だったのよ。ダンディーでかっこよくて。芸者さんにも人気があって。でも、絶対女遊びとかしない人だったのよ」エトセトラ。

しかし、回りの人の話を総合すとる、父はたしかにおしゃれでかっこよく、女性に対しても紳士であったらしいが、性格はオヤジそのもの、すなわち、大きな赤ん坊のような人だったらしい。

そう、この大きな赤ん坊が、私のオヤジ性の起源なのですね。

母は私の中になき夫の面影を探し出しては、それを喜んだため、娘である私は母に喜んでもらおうと父ににた側面をとくにのぞんで開発したのだ。

たとえば、幼少のみぎり、わたしがうどんを食すと
「パパも、素うどん(笑)がすきだったわ。ママはうどんがあまり好きでないから、これはパパの血ね」と目を細めて喜ぶ。すると、わたくしには「自分は素うどんを好き」とのすりこみがなされる。

これがうどんくらいならいいのだが、オヤジなたべもの、オヤジな所作、オヤジな価値観とくれば、成人するころにはりっぱなオヤジ女と化すわけだ。

悲しい話だが、ここまでくるともう治らない。
そういうわけで、私のすべての思考や行動の中には、母の存在が、母を通じて醸成された父の存在がなお日常的におだやかに息づき、そのため、彼らの存在をつねに身近に感じるというわけ。

命のつながりというものは不思議なものである。
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DATE: 2006/04/26(水)   CATEGORY: 未分類
最近のモラルの崩壊速度はマッハ級
 中津川市の空きパチンコ店で女の子が高校生に殺されたという事件があった。

 被害者が14才だったので、第一報をきいたときは「すわ大人の変質者による犯行か。世も末じゃ。」と思ったのだが、しばらくして逮捕されたのは、大半の予想をうらぎって16才の少年。

 しかも、この犯人の男の子のすごさは想像を絶していた。まだ14才の時に女の子を妊娠させて未婚の父。ぶろぐで明らかにした自らの趣味はすべて性欲にまつわること、すきなたべもの「さけけけけ」(本文ママ)。

殺された女の子はこの男の子をぶろぐにかく時には○様という具合に、様づけしていたことから、精神的な主従関係は、圧倒的にこのヤンキー高校生の側にあったことがわかる。

 ここから見えてくるのは、この事件はつまりは、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)のはての殺人だということ。成人した男女間で問題となっているDVがなんと十歳くらい下がって表面化したというわけ。
 
 真の意味で強い人間は、弱い立場のもの(動物、女性、高齢者など)を庇護こそすれ、暴力をふるうことはない。弱いものに対して平気で暴力をふるえるような人は、捕まえてみればじつは無能でまったくよわっちいヤツだった、とはよくある話 (この高校生も今頃になって泣いて反省しているのだという)。

 加害者に殴られ、死に至ることもあるDVの被害者はむろんいたましい。しかし、ストーカー被害なんかと比較するとわかるのだが、DVの場合は、被害者の側にも問題はないか。

 ストーカーの場合は加害者が一方的な思いこみで相手をつけまわすため、被害者側には落ち度がない。一方、DVの場合、被害者は殴られながらも殴る相手から自分から離れようとしないという特徴がある。今回の場合でいくと、女の子はあの悪趣味で気味の悪いパチンコ店のあき店舗に自分の意思で行っている。

まともな神経をもっている人は、あんなきれやすい女クセのわるい男にあいに、あんな気味の悪いところにいかない。わたしだったら全身アーマー装備した上に韓国産の催涙スプレー(あの激しやすい韓国人の戦闘力を奪うために開発されているため、日本産の数倍はきく)を五缶はもっていく。

DVの加害者は被害者に、暴力(身体・言語いずれの暴力かいずれもか)によって圧倒し、主従関係を植え付ける。そのため、被害者は極端に自責的で、殴られたのは自分が悪いとまでいい、被害者意識が極端に希薄な場合もおおい。

 DV被害者たちは「この人は私がいないとダメになる」「この人はわたしのことを一番考えてくれている」とか、いろんな理由をつけて加害者のもとにかよう。そして、いずれは死に至る。暴力の正体を客観的にそれとみとめられない被害者の愚かさが哀れである。

 このような「自分に~くれる人につくす」という考え方の裏には、「見放されたくない」「誰かに~してもらいたい」という不安定で自信のない自我がある。しかしよく考えてみると、そんな自信のない自我につられてくるヤツなんて、往々にしてろくなもんじゃないのだ

 そういうわけで、「自分に~してくれる」ことばかりのぞんでいる人が、幸せになることは少ない。

幸せになりたいのなら、グループ内とか小さな集団内でしか通用しないゆがんだ主観的な論理ではなく、誰がみてもOKの客観的で健康な倫理観と価値観によって、人を見る目を養うことである。

親が子供に与えられるもっとも偉大な贈り物は、物でも、教育ではなく、この倫理観である。倫理観をもっていれば、たとえ貧しかろうと、学歴がなかろうと、必ず幸せになれる。

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DATE: 2006/04/24(月)   CATEGORY: 未分類
ウツを待ち受ける性悪サイト
 最近、あまりに身の回りにウツの人が多いので、「ちょっと知見をひろめてみよー」、と「鬱病」でググッてみた。

 そしたら、まあ、上から四番目くらいに性悪なサイトがひっかかりましたよ。

どういう意味で性悪かと言えば、百聞は一見にしかず。ぺージのタイトルはそのまま「鬱病」

そして、「以下のリンクから鬱病の状態を把握してください。」
とあり、
鬱の原因
鬱の症状
鬱の治療
とメニューが続くが、このページがまったくどれもいいかげんで内容がない。不審に思いつつ、下の行を見ると、なぜか、鬱病に無理矢理こじつけていろいろな企業へのリンクが行われている。

○アメリカンホームダイレクト 自動車保険
 鬱病の方も、お得な自動車保険を見積もりしましょう。

○アフィリエイト
 鬱病の方もアフィリエイトで家で収入を得ましょう。

○地上デジタルテレビ
 鬱病の方にもテレビでストレス発散。

○ファンケル
 鬱病の方もファンケルで健康生活。

はては、

シャディ 赤ちゃん育児Q&A 三井ダイレクト イオンカード  禁煙草 コラーゲン 出会い 家族温泉 ・・・・(以下数十社の会社へのリンク)

ここまできてこのページの目的がわかる。

このページはアフィリエイトで収入を得ることを目的としたものだ。鬱の人なんか、どーでもよくて、それどころか、鬱の人の弱い心につけこんで、何かを買わせちゃおう、契約させちゃおうという、サイトだったのだ。

鬱病にかかった人は、気力が病的なまでに低下する結果、誰かに救われること、命令されることによってしか、救われないと思いこんでいる人が多い。

そのような人に「~をしたら、幸せになりますよ」あるいは「~をしなければ、不幸になりますよ」などといえば、判断力が低下している分、かなりの確度でひっかかるものである。それを知っていてこんなことやっているのだから、性悪以外のなにものでもない。

どこぞのサラ金が認知症の年配の人を保証人にして、お金を無理貸ししたり、どこぞのリフォーム会社が認知症の姉妹をだまして何千万円もの不必要なリフォームを強要したのと構造的には変わらない。

欲望のコントロールを知らない男子中学生をアダルト・サイトに誘導して、法外な料金を請求したりする手法にも通じる。

もちろん、ダマす方が悪いのでこういうサイトは関係各位が、抗議の上閉鎖するのがのぞましいが、それではおいつかないだろうので、やはりダマされないためにも、極悪な人やサイトを見抜く目も必要である。

自分で判断できないことがあっても、ネットの中にある無責任な情報やたまたま電話がつながった先の他人の意見にすがりつき、自分の人生の行く末を託してはならない。

そもそも、判断力が低下しているんだから、すがりつく先が神か悪魔かも判断できんでしょうが。

天国も地獄も人につれていってもらう場所ではない。
あくまでも、自分の行動が、そのどちらかへの行き先を決める場所なのだ。


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DATE: 2006/04/22(土)   CATEGORY: 未分類
マイル・ストーンは苔むして
ここ数日、晴れて少し肌寒い。研究室のはいったビルから富士山がきれいに見える。

紫外線も強いらしく、この時期、大学の構内を歩いていると一瞬チベットにトリップしたような気持ちになる。

なので、必然的に授業中チベットの話題が多くなる。

わたしは日本でも数すくないチベットの専門家なので、必然的にチベットの話題が多くなる。聞く人が聞けば面白いと思うのだが、学生にもいろいろいて、

「また、あの人チベットの話しているよ」みたいな反応をする人もいる。

学生が編集する学内情報誌にマイルストーンという雑誌がある。

ある日、政経学部のとある先生が「センセ、見てくださいよ、これひどいんですよ。僕の授業を 何の役にもたたない授業、って書いてるんですよ。」

私「(どーでもよさそーに)そりゃー大変ですねー、どれどれ、私のはどう書いてあるかな」

みると「本人がチベットの専門家なので、チベットの話が多い。何の役にも立たない。」とある。

なんじゃこりゃあ

私「失礼な! 何を基準に役に立つたたないを決めているんじゃ。役に立つ立たないで学問を決めつけるな。すぐに役に立つことを知りたければ、専門学校にいけ! そのかわり、誓って言うが、そこで学んだことはタイムスリップして百年前にいっても、百年後にいっても、どっちでもやくにたたんわ! あんたらのいう「役に立つ」はその程度のことだと知れ! あんたらに決めつけられるいわれはないわい! センセ、一緒に抗議に行きましょう。なんなら名誉毀損で訴えるとか。」

とあるセンセ「でしょでしょ。でね、僕、去年はこの編集部に抗議入れたんですよ。なのに今年もまったく同文ですよ。もう○×な学生との戦いですよ」

そこで我にかえる。そういえばこういう情報誌って、情報をよせる人がいないと、毎年同じものがひきつがれるんだっけ。学内情報誌といったって、その程度の見識であり、相手にするだけムダか。そもそも大半の授業評価が、楽に単位がとれるかとれないかで決まっているし。

そいえば、とある先生も自分の授業評価に、
「寝癖くらいなおしてから、教壇にたて」とかそんなことばかり書いてあったという。
(学者に身だしなみを強要してもムダだと思う。アルキメデスは裸で外を駆け回るくらいだし)。

よく、大学の授業の質をあげるために、学生による授業評価をとりいれようという動きがあるが、このような事例を見聞きするにつけても、学生の評価にひゃくぱーせんとたよるのがいいかどうか疑問である。

授業を評価すること自体はとてもいいことだと思う。しかしその場合、学生の意見に加えて、さまざまな年齢層の社会人などにも聴講してもらって決めるのがいいと思う。その方が評価はより客観的になる。

学問や文化の行く末は、世のはやりすたりや、経営上の都合などでは決して決めてはいけないものである。

大学の品格を維持することがひいては卒業生のためにもなる。そこんとこは、やはり譲ってはならない。
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DATE: 2006/04/18(火)   CATEGORY: 未分類
自分の行動を神の視点でモニタリング
ニュースみてたら、サラ金のアイフルが「あんまりにも、取り立てがえげつない」罪で告発されていた。

そしたら、ここ数日、マスコミは手のひら返したように一気に彼らの外道ぶりを報道し始めた。

これまでは、スポンサー様なので、批判できなかったものの、ここまで社会問題になるとどうせCMは自粛だし、言いたい放題いえるということなのか。

マスコミもなあ。もっと仕事まじめにせいや。

そいで、どこで見たのか忘れたけど、アイフルの被害者を救済する会の人が、録音したテープが流れていた(以下うろおぼえ採録)。

アイフル某社員「おまえ等の会つぶすのなんて簡単なんだからな、コラア」

アイフル被害者救済の会の吉田さん「おたくの会社一部上場の企業ですよね。取り立てにしても、もう少し紳士的な態度をとったらどうですか」

アイフル某社員「ぐだぐだぐだぐだぬかすんじゃねえよ。二部だろうが三部だろうが借金取りのやるこは変わんねんだよ~」

吉田さん「じゃあ金融監督庁にこのテープもっていきますから」

〔たぶん金融監督庁が何かもわかっていない〕アイフル某社員「オイ、聞けよコラァ~。野球の監督でも何でもつれてこいってんだ」

うーん、みにくい。

「金貸しはこうあるべし」とかいう以前に人として恥ずかしいよ、この某社員。

でも、人は多かれ少なかれ、この某社員と同じことをしている。

マズイと思うと、人を、居丈高に怒鳴ったり、わめいたり、強がったり、せせら笑ったり、ばかにしたりして、ちっちゃなエゴを護ろうとする。

端から見て、それがどんなにかっこ悪かろうが、みっともなかろうが、まったく自分にはみえてない。


この某社員はこれから先、何年かして、何年かしなくても頭がもう少しさめた時、この録音テープの自分を聞いて、どう思うだろうか。

まともな神経もっていれば、恥ずかしくて死にたくなるだろう。

犯罪をおかした人がよく「こんなつもりではなかった」「気がついたらこうなっていた」「~がこうさせた」と、あたかも自分ではなくまわりに責任があるかのようにかたるが、どう言い訳しても、やった人、その人の責任である。

他人の視点から自分を見つめ、客観的に自分の言動をチェックできる人間、ひらたく言うと自分に厳しい人間は、トラブルもおのずとよけて通り、コミニュケーション能力も高い。

逆に、自己評価が異常にたかく、自己の視点によってしかものをみることのできない、自分に甘い人間は、トラブル続きで、友達つきあいも不安定。

自分がどっちかは、トラブルの多寡から判定できるはず。
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DATE: 2006/04/15(土)   CATEGORY: 未分類
天台宗開宗1200年、仏青創立120周年。一桁違いも何かの縁か。
いってきました「最澄と天台の美術」(うろおぼえ)展。

五時四十五分に高田馬場時計台下に集合をかけたが、これは失敗だった。この時期、時計台下は享楽系サークルの待ち合わせに使われるため、人であふれかえるのである。

彼らはプラカードが目印になるからいいものの、われわれ何も考えていない待ち合わせ集団は、この人混みでは絶対的に不利、ていうかまず、会えない。

あきらめの早いわたくしは早々に「こりゃー、今日は一人でGOだな」と覚悟を決めた。

ところが、この雑踏にもかかわらず、わたしをみつけてくれると人が一人、また一人と集まり、なんと八名もの学生さんがきてくれたのである。しかも、あろうことか、仏青にも興味をもってくれているようなのである(吃驚)。

一条の光が空から地上にさしこんできた気分。

展覧会は天台宗(法華宗)が開宗してよりちょうど1200年を記念してのものである。

展覧会の行われている上野の御山は、かつては東の叡山とよばれた寛永寺の堂塔がたちならんでいた(現在の本堂は移動した結果)。寛永寺は徳川家康の黒衣の宰相として知られる天海大僧正が、江戸の鬼門封じにたてたもので、徳川家の墓所もここにあったため、江戸時代を通じて繁栄を極めた。

しかし、そのような寺であるため、幕府が倒れるにともない上野戦争の戦場となり、東叡山寛永寺も灰燼に帰した。当時を忍ぶよすがは東照宮と五重塔くらいである。

展覧会はそれは見応えがあった。

国宝・重文がごろごろしてて、本来なら50年に一度のご開帳の秘仏とか、ぱかぱか出品されている。もし行ってない方がいらつしゃったら、是非行くことをおすすめする(ただし、昼間にいくと雑踏で何も見えないが)。

最澄の天台宗を、空海の真言宗の歴史と対比させながら、進んでいく。いろいろな意味でこの二人は好対照だが、笑ったのは書。

学生の一人が「先生、最澄って字汚かったんすね~」というので、見てみると確かにこ汚い字である(私も悪筆だから人のことはいえないが)。空海は能書家として知られるが、最澄の書ってあまり話題にならいのはこうゆうことか。しかも、最澄の有名な弟子円珍も、ちょっとこれはというくせ字。師をこえてはならぬという弟子の謙譲であろうか。

天台といえば、日本仏教の諸宗派の母体であるため、展示は鎌倉期の浄土信仰などにも及び、なかでも人々をひきつけていたのは、『往生要集』をもとにした六道圖、とりわけ地獄絵図や人不浄相などのぐちゃぐちゃ系掛け軸である。

展示構成上、向かい側には阿弥陀来迎圖などの聖なる絵画がかけられていたが、そちらにはまったく人がいない。思わず地獄とか腐敗した死体とかに目がいくのは、やはり人はどこか自分を罪深いと思っているからだろうなあ。

八時の合図とともに追い出されるように、退館。ミュージアムショップは人が一杯いたので一時間でも余分に開ければ売り上げも上がるのに、そこは国立である。職員の方はいっ分一秒でも早くわれわれに帰ってもらいたいらしい。

この一週間天気はずっとぐずついていたが、今宵は月が見える。しかもまんまるだ。お花祭りの日は半月であり、あれから一週間たつから満月か。

縁起がいい。

今日新しく入ってくれた学生さんたちが、今いる三氏Q熱、破顔、ほとけどじょうの三氏と協力して、仏青をの新たなる伝統をつくりだしてくれるといいなあ。仏教は思想だけでもすばらしいものだが、仏様の五官をおもてなしするためにささげる、香・茶・音楽・花などの作法が、それぞれ独立して成立した声明・華道・書道・香道・茶道・などの文化面もマーベラスなものである。

なので、これらの文化を体験する場として、仏青が機能していけば、部員どうしが今までのようにバラバラなるのではなく、緊密に交流していけるのではないかと思う(こうすれば、まかりまちがっても怪しくなることはないし)。

楽しまなきゃ、何事も続かない。

みんな、一期一会の出会いを大切にして、品格のある大人に育ってね。

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DATE: 2006/04/14(金)   CATEGORY: 未分類
怒濤の授業初日
仏青の新歓の参考にしようとゼミ生からいろいろな情報をききだす。
彼によると、新歓ゲットというのはそれは熾烈なものらしい。

チラシは千枚すっても一人反応があればいいほうで、やはり強引なキャッチが新歓の主流らしい。

右も左もわからない新入生を甘言でつって強引に入会させ、
イベントごとに参加を強制し、サークルへの帰属感をつくり、サークル内で友達をつくらせて、定着させるのだそう。

そんな粘着パワーはわれわれ仏青のどこを探してもない。

しかし、新入生もなあ。なんぼおこちゃまだとはいえ、温泉とか、旅行とか、スポーツとか、よさこいとか、そんなおきらくサークルに安易にひっかかるなよ。

あらためて大学生のおこちゃまぶりに脱力する。

昔の大学生はなあ、今の40才くらいの風格があったんだぞ。卒業と同時に社会をしょってたったんだからな。
今はなあ、大学の先生が昔の大学生の数くらいいるんだ。
そんでもって大学生の精神年齢は中学生くらいなんだぞ。
それで、今の40才はなあ。大学生くらいの精神年齢なんだぞ。

と、あまりにも疲れてきて何を言いたいのか自分でもわかんなくなってきた。

帰宅してパソコンをたちあげると、ニューフェースの学生さんたちから感想メールが届いている。

三限の学生のメールでは「元気な先生」
ドリンク剤のみながらの死のロード四コマ目の学生からは「エネルギッシュ」と言われている。

エネルギーのもれをふせぐ、もう少しおとなしい授業を心がけよう。

その後者の方は社会人学生で、9.11の時にあの場にいて生還をされた方だという。
人生観がかわり、仏教や思想を学ぼうと大学に学士で入学されたという。
ゴールデンウィークには念願のチベットにいらっしゃるという。
今度そのあたりの人生の転換点についてゆっくりお伺いしてみたい。

今日は国立博物館の時間延長をねらって美術展いってきます。
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DATE: 2006/04/12(水)   CATEGORY: 未分類
怠け者とウツのあいだ
明日から授業。

まとまった休みといえる夏休みと春休みの終わりには季節の変わり目がぶつかることもあり気持ちがふさぐ。

四月と九月は学者の鬼門。

論文も一般書の原稿も、あんな仕事もこんな仕事も何も区切りがついてない。
ついないのに、明日から授業。

私「こんなに気持ちがふさぐのは更年期ウツかもしれん」

ダンナ「あなた20代の頃からそういってたじゃない。意味分かってつかってんの?」

私「とにかく、なにもかもがいやになるんだ。こういうときは、ご主人の理解と協力が必要といわれている。何か気分の変わるような面白いことを言ってくれ。」

ダンナ「こんなに理解と協力を示しているご主人は他にいません。面白いこともありません。どこがウツなのよ、そんなに元気で。」

と、まったく意に介さない。あ~あ。

学生たちの日記を見てみても、この時期不安定になるようで、やけ酒や人付き合い依存症に陥っている人が目につく。
まあ、この子たちに比べればわたしはオトナだよな。
何かに依存や逃避をしなくとも、自力で立ち直ることができるからな(えばりっ)。


わたしは体が季節と新学期のシフトになれるまではとにかくがんばらないでしのぐ(て、いつもだろうというツッコミはなしね)。

昨晩は、タケノコかってゆでてみた。ゆでたてのタケノコにだし醤油かけて、庭の山椒の新芽をつまんでトッピングする。美味しかった。

今晩は雨がふらなかったら、近所の温泉銭湯にでもゆっくりつかって、風呂上がりには腰に手を当てて牛乳を飲もう。

でもって、金曜日は国立博物館で開催中の「最澄と天台の美術」をみにいって文化的な感性をじゅーでん。

とこう、計画をかくだけでも楽しくなってくる私は、ダンナの言うとおりウツではないのかも。
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DATE: 2006/04/10(月)   CATEGORY: 未分類
己を責めても人を責めるな
一日まじめに研究。自慢の視力がかすむので、夕方ブルーベリーを袋でかって食べる。

ああ疲れた。

今とあるチベットからみの本の出版にかかわっているのだが、担当の編集者から午後電話がある。

彼女はパニクっていた。
彼女によると、三月の末にインドいくXさんに、仕事で使うチベットの仏画を買ってくるように頼んだ。

 Xさんは、「あーまかしといて、全部まとめて買ってくるよ~。あなたは寝てていいから。」と快くひきうけて、インドに出かけたという。しかし、帰ってきてフタを開けてみると、およそ「寝ていていい」ような状態ではなかったのである。

わたしはこの事態を予想していたので、口を酸っぱくして
「Xさんは、悪い人じゃないけど、そうやってあちこちから仕事をひきうけるから、常にいっぱいっぱいで、結果としては~できなかった、ちゅーことになるのよ。彼をあてにしちゃだめよ」といっておいた。

私の意見はどうしてこういつも軽く無視されるのだろう。

編集「おかげで何もかも一週間スタートが遅れました。」

私「甘い。甘すぎる。中国のバースデーケーキより甘いんだよ。
そもそも、人に依存するのがいかん。
人に依存するから、自分で事態を掌握できずに、ふりまわされるんだ。」と説教する。

しかし、そういう私こそ、ドイツの民話のように、自分が寝ている間に、小さな人がでてきて私の仕事をかたづけてくれないかな~、というメルヘンを夢見ていないか。

孫悟空のように分身の術を使えたなら、本体は家でごろ寝をさせておいて、変化身に仕事をふりわけて働かせたり、遊びにださせたりするんだけどなあ。本体はごろ寝中だから仕事も遊びもモチベーションが下がることはないなあ、とか考えている、怠け者ではないか。

人はしんどいことは誰かにまかせて、その成果だけを欲しがるもの。

人に説教しているうちに、その批判の言葉がブーメランのように自分の身にかえってきて、ぷすぷすささる。

そこで、ご遺訓。

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。
急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
心に望み起こらば、困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身に至る。
己を責めても人を責めるな
及ばざるは過ぎたるより勝れり。」
ええ言葉や。
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DATE: 2006/04/08(土)   CATEGORY: 未分類
実の一つだになきぞ悲しき(でも楽しかった)
新歓イベントもとい現役慰労イベント「お花祭りでGO」に行ってきました。
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 いやあ、本来の目的はおいとくとして、私は面白かった。
 
 破顔微笑氏の案内により、早稲田近郊の神社やお寺をまわったのだが、仏様のご加護か意外な出会いもあり、また、天候にもまあ恵まれて早稲田近郊ワールドの魅力をぞんぶんに楽しんだ。

 まず、早稲田のなんちゃらとかいう先生が設計したサイケな外観の観音寺(1637年開基 本尊十一面観音)にいく。御花祭りの「お」の字もやっている気配がないので、手を合わせて次へ。

 破顔微笑氏が早大の敷地から移動させた神社があるというので、興味をもちその神社、水稲荷神社による(仏教じゃないじゃん)。

 わたしはこの神社を正門からみてその正面にある鉄筋の建物がそれかと思っていたらそれはただのマンションで実物はちゃんと別にあった。昭和38年、早大と土地交換してこの地にうつったとのこと。

 境内には「堀江安兵衛助太刀の碑」、また、もっと昔に早稲田の構内にあり、大隈重信公も信仰扱ったという高木神社も移されてきている。悪いと思ってか早大が鳥居を寄進している。今もちゃんとアフターケアしていることを祈る。

 境内にはふるように桜がちりしき、とても美しい。

境内にある碑文、佐藤栄作揮毫「平和の礎」、中曽根康弘揮毫「水稲荷神社」、陸軍大将揮毫「国威宣揚」の三つを比べ、陸軍大将の書がいちばんいいという結論に達する(笑)。

 破顔微笑氏が「隣接する甘泉園(徳川御三卿の一清水氏の下屋敷あと)を通りましょう」というので、従っていくと、美しい日本庭園にでる。「新入生が欲しいね~」とか慨嘆しつつも、ここ数ヶ月同じことに気をもんで気心の知れてきたもの同士、こうして歩くのもなんかいい。

 桜舞い散る神田川の橋の上から川を見下ろすと、桜の花びらで白くなった川に、肥満した鯉がぶりぶり泳いでいる。そして、川べりに「山吹の里」と書かれた、如意輪観音像をそのまま横着に碑文に転用した碑がたつ。
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 太田道灌が鷹狩りにでて驟雨にあい、とある家に蓑をかりにいった。すると若い娘が山吹の一枝をさしだしたので、道灌は「花が欲しいわけではない」と怒った。そのことを聞いた人が

「それは古歌"七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき" にかこつけ蓑がないことを婉曲に表現したのだ」

と道灌に教え、道灌は敷島の道に親しむようになった、という。あの故事の縁の地である。

折しも山吹が美しく咲き誇る季節。

それから氷川神社でこわれかけの狛犬をいたみつつ、そのはす向かいにあるお寺に何の気なしにたちいった。

南藏院(真言宗豊山派)というこのお寺は、本堂が階段をあがった二階にしつらえられている。しかし、階段の入り口は柵で囲っており、本堂の扉も堅く閉ざされており、御花祭りとかいう以前に拝むことすらできない。

わたくしはこのような鉄壁のまもりの寺院を見たことがある。

中国でチベット寺を訪ねると、修復中であったりするとこうやって階段下を柵でかこい、門扉も閉まっているのだ。日本からはるばるきた私はそんなことくらいでひるむもんじゃない。乗り越え、すりぬけ、ずいずい境内に入っていき現状確認をするまで。見つかったらもちろん現場の作業員に怒られるが、そこは外人の特権。

「道がわかんなくてまよっちゃいましたあ」といってごまかすのだ(しらじらしい)。

境内の花をめでていると、庫裡の方から一人の年輩の女性がしきみを手に出てこられた。破顔微笑氏の頭をみて「お寺の方ですね」ということから話がはじまり、「そこに花御堂がつくられてますから、甘茶をかけていってください」、と言われる。

ガラス戸を開けるとそこには確かに花御堂が美しく飾りたてられており、甘茶のお接待もある。
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しかし、普通ここまでこないよ。

しきみを持つその女性よると、ご子息は京大出身で(ふんふん)、サンスクリットの研究をやっていて(え?)、そのうえ種智院大学とか大正大学とかで教鞭をとっている(ええええ?)と言う。こうくれば、かなりの確率で顔見知りの可能性がある。そこで、「して、ご子息の名は?」と伺うと、ビンゴ!

やはり知り合いのN先生であることが判明。

しかも、いま家にいらっしゃり、その上今からお花祭りの声明をあげようとしているところだという。

きました。御仏縁ですよ。

わたしたちはまったく気まぐれに歩いてきて、何の予約もしなかったにもかかわらず、そしてご住職も去年までは御花祭りを当日にお祝いできないほど忙しかったのだが、今年は久しぶりにその日に声明があげられるという、その瞬間、その場所に、わたしたちは当然のように巡り会い、そして仏様の誕生日をともにお祝いするのだ。

善き哉、善き哉。

ご住職の豊山派の声明を拝聴した後、全員で般若心経を斉唱すると、仏青もなんとかなるような気がしてくるから不思議である(楽天的~)。
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そのあと天海僧正が江戸の鎮護にきめた五色不動の一つ目白不動にお参りをする。途中から雨がふりはじめたので、いそいで目白通りにでて、昼食をたべに入り、現役生の新歓の苦労をねぎらう。

食事が終わった後には雨も上がり、また晴れ間がのぞいていた。結局、ほとんど雨に降られることなく、春爛漫のお寺参りは終了。

早稲田に長年巣くっているにもかかわらず、まったくこの界隈のことを知らなかったので、すごく楽しかった(破顔微笑氏にとっては通学路らしいが)。

みんなよくがんばった。

さあ、授業が始まる。今度はわたしの腕のみせどころである。

何か私一人が楽しんだだけのお花祭りであるが、この日、この季節、このルートを歩き、語り合うことは、できるなら仏青の恒例行事にするといいと思う。

それくらい、このコース、いけている。
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