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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2006/03/15(水)   CATEGORY: 未分類
その感動プライスレス
昨日、弊研究室におきまして、担当者との話し合いが行われた結果、拙著『チベット仏教世界の歴史的研究』の復刊が正式にきまりました。

復刊ドットコムの投票などによって応援してくださったみなさま、本当にありがとうございました。この場をかりてあつくあつく、御礼申し上げます。

本書はわたくしの博士論文を多少加筆して出版したもので、モンゴル・チベット・満洲(元朝・清朝)の社会や文化がいかにチベット仏教の大きな影響のもとに動いていたのかを明らかにしたものです。

自分でいうのもなんですが、けっこう画期的かつ刺激的な研究です。

内容は当然、チベット語、モンゴル語、満洲語がとびかうファンタスティックな世界。つまり、ひらたくいえば本書は思いっきり学術文献なのだ。

学術書を出版するための垣根は高い。

売れないので、こちらがすべてお金を準備しなければ出版社が協力してくれないのである。そこで、研究者は学術出版補助してくれみたいな申請書を国に提出する。

国は申請者の研究者としてのキャリアとかを見定めて、費用を助成するか否かを決めるのだが、その際にはだいたい申請額を半額くらいに減額してくる。すると、学術出版を扱いなれている出版社は、この減額分をみこして予め二倍の見積もりをだして、減額されても自分のところがふところをいたまないようにしたりする。

わたしはこういうやり方が好きではないので、知り合いの先生の紹介をたどり、そのような意味であまりすれていない東方書店さんを紹介していただいた。

なので、私のこの本は半額は国費を頂戴しましたが、半額は私の自腹が入っております。文字通り私の自腹から生まれた子供なのです。表紙のデザインも趣味で転法輪にして、とってもステキな仕上がり。

本当に嬉しかったので、アエラにコメンタリー書いたりして自著を宣伝しまくって(笑)、数ヶ月でソールドアウトとあいなった(学術出版なので部数も少ないしね)。

ところが、それからが大変。

内外の研究者から「あなたの本を買いたいのにかえません」という問い合わせが相次ぎ、出版社に再版をかけあったものの、学術出版の再版はリスクがたかいので、難しいの一点ばり。

歴史の論文は実証的、文献学的なものになると、17世紀のものだってちゃんと現在でも問題なく研究に使用されている。経済書や時事問題を扱う書籍や理系の学術論文などはその時々のはやり廃りですぐに淘汰されるが(わたくしが生まれる前にしんだ父の一番上の兄、石濱知之は九大の経済学者であったそうだが、彼が無数にだした経済書はいまどこにいったんでしょうね)、良質の歴史研究書というものは息が長いのである。

なのに、わたしの学術書はこれから数百年後の人々にまで利益をもたらすかもしれず(大げさ)、かつ、人類の知的遺産の一角を(チョー最底辺で)形成するという理念的な意義もあるにもかかわらず、再版は利益がでないので難しいということ。


そう、学問は利益とはもっと遠いところにあるもの。

わたしがこの学術書をかきあげるためには、多大の時間をかけて、チベット語、モンゴル語、満洲語、清朝漢文にしたしみ、その読解力をみにつけ、かつ、現地の文書館にかよい手書きで宮廷文書をうつし、本を背負ってかえり、それを読みといた末にできあがったものである。


青春をパソコンと史料の前で過ごしたのである。この本にわたくしが投下した資本はプライスレス。だいたい、お金なんて考えていたら研究者なんかにはなれない。

よく、「ぼく(わたし) は勉強がすきだから研究者になりたい」という人がいるが、そんな簡単なもんじゃない。いつ、就職できるかなんてわからない(ていうか、かなりの確率で研究者としての就職はできない)、将来に保証はなにもない(研究者を諦めた時は普通の就職も年がいってて難しい)、でも、おもしろいから研究はやめられない。そのような人でなければ、所詮はつづかない。研究は受け身の勉強とは違う。自分の頭でオリジナルをきりひらいていく能力がなければ、研究者にはなれないのだ。

昨日の出版社との会見の趣旨は私の印税放棄の言質をとることだったよう(トホホ)。

一週間で書いたような(そしてすぐに消えてしまう)一般読者向けの原稿は、原稿料がでるのに、私の青春をついやし(そして千万載まで後世に残る?)た学術文献は一銭の価値もうみださないのである。
どころか、出版の際にはわたくしのふところと国民のふところを傷つけ、今は復刊ドットコムさんにまで迷惑をかけねばならないのである。

世の中どっかおかしいよな。

しかし、やはり再版は嬉しい。これはお金には換えがたい喜びである。(金にはならなくとも) やっていること自体に意義があると思えるような仕事ができたこと、そんな(金にならない)ものに対して協力してくださったみなさまの心意気が嬉しいのである。

関係各位、本当にありがとうございました。
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DATE: 2006/03/13(月)   CATEGORY: 未分類
確定申告が確定しない深刻
この延髄反射のようなオヤジギャグが示しているように、私は今疲れている。

確定申告の期限は十五日に迫っているというのに、書類がぜんぜんそろわない。

そもそも、わたくしには書類が満足に書けないという障害がある。
そのうえで、書類を書く上に必要な書類をとっておくことができないという二重の障害をもつうえに、
パソコンが苦手なので、ダンナにすがりつかないとそもそも申告書類の記入もできない三重苦。
「確定申告のヘレンケラー」とよんでくれい。

ダンナの前に書類をそろえると、ダンナは眉間にしわを寄せながらパソコンで書類を作成してくれる。

そして、私にいろいろ下命がある。
「固定資産税の領収書は?」ときかれたので、わたくしはいろいろな重要そうな書類がはいってそうな袋をさがしまわるが、一向に見あたらない。そこで、都税事務所に電話ですよ。
これを皮切りに、まあありとあらゆる問い会わせならびに、領収書の再発行をすることになるわけですよ。

そいでやっと、控除のとこまできたんですけどね、おくさん。
しかし、今度は自分が何の保険に入っているかなんて覚えていないわけですよ。
だって、貯蓄型ばかりで、入って数年たてばもう記憶の闇の彼方なんだもん。
そこで、わずかな手がかりを片手(平成八年度の書類とか)に、保険会社に電話をかけ

「あのー、私そちらでどんな商品にはいってましたっけねー」とかいうはめになるわけ。

そいで苦労したわりには「契約した最初の年に控除を受けたら、今年はできません」とかいう返事がかえってきたりするわけです。

いい加減つかれてきたところで、ダンナ
「あなた寄付は控除になるのよ」という。
そこで地引き網のように記憶をたどると、その網の中からは、去年の前半とある自然保護団体にオンラインで寄付をしたような記憶が浮かび上がってくる。

しかし、通帳みてもついてないし、だんだん自分の妄想だったような気もしてくる。
しかし、念のためその団体に電話して
「あのー、私は去年の七月頃、○×円の寄付をしたような気が」
「ありがとうございます」
「でも、あのですね。通帳をみるとついていないので、ひょっとすると私の妄想かもしれないんです。でも、年賀状をそちらから頂戴したので、ひょっとすると妄想ではなく払い込んだ可能性もあるんです」などというかわいそうな人みたいな電話をかけることになる。

私も悲しいが電話を受ける人も悲しいであろう。

一つ気づいたことがある。自然保護団体は月曜日の午後はみな担当者は会議で席をはずしている。同じ会合に集まっているのだろうか。ってどーでもいーわい。

果たして、確定申告はいつできるのか。

最後に仏教ぶろぐらしく、一言豆知識から。
仏教は出世間の教えであるため、僧侶はいにしえから免税措置をうけておりました。
そのため、昔から税金逃れのために出家する人がいたため、国家はそれを規制するのが大変でした。

みんなが僧侶になっちゃったら社会はまわらないからね~。

東アジアは国家権力が強かったから、とにかく僧侶の資格を国家の許認可制にして、不品行な僧侶は容赦なく資格を剥奪するような取り締まりを行っておりました。

インドや東南アジアでは僧団は王権より高いとみられており、王権は僧団をバックアップしてナンボというものだったのですが、東アジアにおいては「納税」を契機に、僧団は国家権力の下位につくことになったわけですね(て、まったく印象で書いてます。調べてません)。
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DATE: 2006/03/11(土)   CATEGORY: 未分類
男という名の物語
我が家には餓鬼道という雄猫がいる。

餓鬼道とは六道輪廻(天・人・阿修羅・餓鬼・畜生・地獄)のうち、つねに飢渇にさいなまれている幽鬼たちのゾーンである。
なぜこのような名がついたかといえば、文字通りオソロシイ大食漢で、肥満しているから。

それでも、我が家の専属になった当時はそれなりに愛らしい白ブチ猫であった。

しかし、定職をうると同時に急速に凶暴性をまし、喧嘩を繰り返しては、大けがをし、怪我が治ってきたかと思うと、すぐにリベンジにむかい、また負けて大けがして寝込むというデフレスパイラルにおちいった(そして現在にいたる)。

そのバカさ加減から、一時は修羅道(戦いの業にとりつかれた人々)と名前を変えようかとも思ったが、大食漢であることには変わりないので、修羅道は季節性のミドルネームにとめおくことにする。

思えば、餓鬼道は猫に生まれた時点で畜生道におちている。つまり、彼は、畜生・餓鬼・修羅・地獄の六道輪廻のうち四つまでの極悪ゾーンを上下しながら生きてきたのである。

餓鬼道の喧嘩は春先になるといっそう激しさをます。さかりがつくからだろう。

そして、つい先週の日曜日も右の後ろ足に大けがをした。右後ろ足を地につけず、三本足でかえってきた時は、後ろ足は骨折か脱臼かと思った。

六日たった今日くらいからやっと、まあまあびっこをひきながらも歩けるようになった。
と思ったら、とたんに高歩き復活である。いい加減にしろといいたい。

たとえ喧嘩相手の雄猫に勝とうとも(勝ったことないけど)、このあたりには雌猫なんていないのである。

われわれは餓鬼道以外の知らない猫にごはんをだすわけないのだから、えさ場をまもる必要もない。

何の意味もないのに、彼はただ春という季節にあおられて、死闘を繰り返すのだ。

男という名の物語である。

わたしは山田洋次ではない。
したがって、男の愚かさを見守るような懐の広さは持ち合わせていないので、餓鬼道を前に
「いい加減にしなさい。何の意味があってこんなことするの?」と説教する。

しかし、まったく聞いちゃいない。猫とはいえやはり男である。
『話を聞かない男・地図を読めない女』(青春出版社)である。

一方、同じ男でも愛鳥ごろうの春はじつにさわやか。小鳥は男同士のみにくい喧嘩の結果、かったもんが雌を手に入れるなんて野蛮なことはせんのである(すくなくともインコはそうである。猛禽類はしらん)。小鳥の女の子は自分が一番美しく、声のいい踊りのうまいとおもった男の子をえらぶのだ。

小鳥は文化的なのだ。

だから、小鳥の男の子は女の子にモテようと、春になるといっそう美しくなり、愛らしくなる。

ヨレヨレのぼろぼろになってく餓鬼道とは好対照だ。

仏様の覚りの境地を象徴的に描いた経典に『仏説阿弥陀経』がある。この短い経典には、極楽の大地は宝石からなり、空間には美しい鳥のさえずりが満ちているという。

ごろうを見ていると確かに、この生き物は限りなく美しい世界に属しているように見える。六道輪廻でいえば最上層の天界か、それ以上である。

私が一応人間ゾーンに属しているので、我が家の六道輪廻はこれにて完成。
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DATE: 2006/03/08(水)   CATEGORY: 未分類
一夫多妻タコオヤジにみる世の中の不安感
つ、つ、つかれたあああああ~。

昨日は例によって、相も変わらず、なが~く、そして内容も●×な会議どした。
こういっちゃなんだけど、何かどーでもいーことに長大な議論がつづき、不毛に消耗した。

数時間をダイジェストでお伝えすると、

「たんたんと自分の立場を説明し、みなの同意をもとめる人」がいるとする。
それに対して、「こうあるべきだという人」(以下、あるべきだ星人)が反論。
最初の人が同じように「たんたんと御願いします」と繰り返すと、
「あるべきだ星人」の長広舌にスイッチが入る。

彼らによると、今の状況は非常に危機的であり、自分の言うとおりにしないと大変なことになる、という。

とうぜん、構文は「~しなければ、~が割れてしまいます」「異常です」「許してはなりません」などの激烈なもの。

これら「あるべきだ星人」は、自分の言葉に自分で興奮していき、時間をおうにつれ激高し(むろん、本人は真っ当なつもり)、まわりに不快感・不安感を与えることを特徴とする。

人の意見を動かそうとして、不安感をあおる、危機感をあおる、というやり方をする人をわたしは好きではない。

あるべきだ星人には、自分がそれほど危機感を感じていないものの、人を操るために意図的に危機感を演出している人と、被害妄想の気があるため、本当に危機的状況だと思ってまわりに危機感をあおるタイプの二種類がある。

何にせよまわりに迷惑をかけるという点では両者の害は変わりない。

前者としては、少し前ニュースをにぎわした一夫多妻男などがあげられる。一夫多妻男(以下タコオヤジ)がどうやって女性をだましていたか、という手口をみたが、タコオヤジは求人情報でやってきた女性に「宇宙人が攻めてくる」とか不安感をあおって、「自分と同居すれば大丈夫だ」と安心させて女性たちを共同生活にひきこんでいたという。

わたしにいわせれば、あのタコオヤジと同居するくらいなら、宇宙人が攻めてくる方がなんぼかマシである。

何にせよ、あのタコオヤジは女性を働かせて、自分が樂に生活するという目的のために、危機感、不安感をあおり、女性たちを操っていたのである。

世の中、世界が終わるようなことはそうそう起きようもない。かりに起きたとしても、その時はその時で、じたばたしてもしょうがない。どーせ死ぬんだから。

所詮は短い人生である。生きている間くらい、お互い仲良くゆずりあった方が品格のある人生が送れるというもの。

なので、みなさん「あるべきだ星人」にならないように、日々精進しましょう。

「~ちゃん、勉強しないと将来大変なことになるわよ」なんて言い方で子供に勉強をやらせちゃいけない。子供が勉強を嫌いになるだけ。

「~ができないと、僕はもう死ぬしかない」とかいって、自分で自分に対してあるべきだ攻撃をしちゃいけない。自分が自分を嫌いになるだけ。

「あいつを倒さないと、オレたちがやられる」

「満洲は日本の生命線である。これをとられたら日本は終わりだ。」とかいって世の中を戦争にむかわせちゃいけない。てか、これで、日本は一度終わったやんけ。

不安感・危機感とは、何もうみださない不毛な感情である。
しかもこれは、疑いなく、オノレの心のひ弱さが、不必要に世界を強大あるいは醜悪にみせている結果、おきているものだ。

たとえ体が健康でも若くても、不安感にさいなまれて、まわりに迷惑をかける人はいるし、かりに死の床にある人でも、不安感も危機感もなしに平穏な心で日々をおくる人もいる。
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DATE: 2006/03/05(日)   CATEGORY: 未分類
一切を知るお方"ダライラマ"
 今年はじめに南インドのアマラーバティでダライラマ猊下主宰のカーラチャクラの灌頂儀礼が挙行された。

例によって、世界中から20万人の人が、ハイデラバードから列車で四時間のこの小さな町に集結したらしい。

 このカーラチャクラの灌頂に参加した尼僧の方と昨日の晩お会いした。

 彼女によると、儀式の行われた地、アマラーバティは、中観思想の開祖にして密教者として知られるナーガールジュナ(中観のナーガールジュナと密教のナーガールジュナをチベット人は同一人物と考えている)の生地とされる場所である。

 ダライラマ猊下はこのカーラチャクラを期にナーガールジュナの研究所をこの地にたてようとしているか、あるいはたったとかの話である。

 余談であるが、アマラーバティの地元はこのカーラチャクラの経済効果でウハウハで、ダライラマ猊下バンザイだったそうである。

難民が受け入れ国の経済に貢献するのなんて、チベット難民だけだよ(笑)。

 このカーラチャクラ灌頂の儀式次第は、最低でも一週間かかる。そして、儀式の合間合間に述べられるダライラマ猊下のお話は、カーラチャクラの解説から非常に一般的な教えに至るまで広範なものとなる。

 その尼僧の方も、ちゃんとくだんの一週間参加していたところ、ある日一人のチベット人の男の子が

「家に帰るお金がないから、五ルピーちょうだい」

と、ねだってきたのだそう。

 その方は、「子供にお金をみだりにあげるのはよくない」とは思いつつも「五ルピーくらいなら」と男の子に五ルピーあげた。すると、男の子は「へっ」とバカにしたような顔をしてさっていき、後味が悪かったという。

 そして、儀式の終わりの日、ダライラマ法王はいろいろなお話をされて、その中に「外国人とみると、ドル札やルピー札だと思う人がいるが、それは、いかん」ようは、「外国人にたかっちゃいかん」みたいな話をした。

 儀式がおわり二万人の聴衆が家路についた。この雑踏のなかで、尼僧は五ルピーの子供と鉢合わせた(その確率もすごいと思う)。

 男の子は前とはうってかわった態度で、この尼僧に恭しく合掌したという。

 尼僧の方は、「この男の子はきっともダライラマ法王の話をきいて、それが何万人もいる会衆の中で自分にむけて語られたものだと思ったのよ。チベット人はダライラマ法王はすべてを見通せる能力をもつと信じているから。」とおっしゃった。

さらに「われわれ外国人にとってダライラマ法王はとてもやさしい方に見えるけど、チベット人はどんな偉い方でもダライラマ法王の前にでるとすごく緊張するのよ」と教えてくれた。

確かに、文献中でダライラマを修飾する言葉でもっとも頻繁にみられるのは「一切を知るお方」(チベット語でタムチェーケンパ、サンスクリット語でサルヴァジニャだっけか)である。

私の知る限り、ダライラマ猊下は若い頃から現在に至るまで一貫して、非常に倫理的、普遍的、利他的な発言を繰り返し、またその発言を裏切らない行動をとってきた。

 このような歩く倫理の手本みたいな人が「一切お見通し」ていて、あなたや私のあんなことやこんなことが全部ばれているとしたら、そりゃー怖いだろう。

だから、ダライラマを真の意味で愛している人々は悪いことをしないように心がける。

一方、日本においては、全知全能のキリスト教のような神様も、チベット仏教におけるダライラマみたいな聖者もいない。

 それどころか、役人さんにしろ、社長さんにしろ、政治家さんにしろ、発言内容がすべて自分や自分の属する組織の利益の代弁で、まったく普遍性がないうえ、その発言すら状況によってころころ変わる。

とくりゃあ、日本人は怖いもの知らず。

だから、「ばれなきゃいーじゃん」的な犯罪が横行し、みなみな煩悩全開、恥じ多き人生をおくる。

最近とあるイギリスの方が(武士の情けで名を秘す)、「僕はダライラマなんて信用してない。あの人のいたころのチベットは宗教独裁でしょ? あれよりは共産党の独裁の方がましだ。聖職者や神様を倒して、近代はじまるんだ。近代化の妨げになる宗教は必要ない。」と議論をふっかけてきた。

私は人の考えを改めさせるとかいうのが大嫌いなので(というか、本人が気づかないうちはどうせ何いったって聞きゃーしないので)、放置した。

しかし、ホンネでは、このイギリス人をタイムマシンにつめこんで、ダライラマ政権下のチベットにおくりこみ、その後、文化大革命期の中国におくりこみ、比較体験学習させたいところだった。

 彼は毛沢東語録のシュプレヒコールを聞きながら自分の不明を恥じることになるだろう。

 つか、生きて戻れないな。

 このイギリス人の、無条件に近代化を是とする論理の中には、近代化による、煩悩の開放、それに伴う倫理の崩壊などといったマイナス面はたぶん組み込まれていない。

 もちろん、わたしは近代化を否定するものではなく、中世に戻るのはまっぴらである。私が言いたいのは、ただ、親でも、教師でも、お坊さんでも、誰でもいいから、いわゆる誰かにとって少しでも権威あると言われる人が、倫理的に生きること、そして、まわりの人々に「この人はなんでもお見通しだな」と思われることが大切だということだ。

 そうすれば、その人たちの子供や生徒や信徒はまっとうに育っていく。

 「ばれなきゃいーじゃん」という言葉を下品で恥ずかしいと感じるまっとうな人間に育つだろうと思うのである。

 あの五ルピーの男の子のように。

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「決まった」と思ったのだが、翌日この尼僧の方からメールがきて、「この五ルピーの男の子の話はガンデン寺(ゲルク派の三大寺の一つ)の僧院長の法話の時の話であり、この時は二万人規模の人が集まった。ちなみに、ダライラマ猊下の灌頂は二十万人が来た。わたしの話があちこち飛んで誤解を招いたのね、すいません」とあった。

いや、こっちの聞く能力の欠如です。

というわけで、この修正を加えても、上記の話で私が意図した精神はまったく変わりませんので、そのままにしときます。
ゲルク派の高僧はみなダライラマとまったく同意見ですし、とくにガンデン寺の僧院長といえば、ダライラマの属する宗派のトップクラスの高僧なので。

決して直すのが面倒だというわけではありません。念のため

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DATE: 2006/03/04(土)   CATEGORY: 未分類
あなたは仏を念じますか?
たった今、仏青のサイトにいってみたら、
新入生に配るチラシのレイアウトが公開されていた。
仏青応援ぶろぐとしては、この上ない慶事として受け止めている。

さっそく、画像をアップロードしたいのだが、
トラバもできない私である。
そしてわたくしのPC頭脳ダンナは不在である。
どうする、石濱裕美子。
とりあえず、やってみます。

bussei1.jpg



なんとかできました。20分かかりました・・・。
本人たちが「なんかアヤシイ」といっているだけあって
相当、アヤシイできですね。

日本語のアヤシイ外国人の神父さんの台詞

「アナタハ、神ヲ、シンジマスカ?」

をオヤジギャグったものですね。

まだ若い彼らがオヤジギャグをつかいだした一因にわたくしのぶろぐの影響がないことを心より祈ります。

ちらしの裏には仏青119年の簡単な歴史が記されることになっているらしい。

わたくしの推薦文が必要であったなら、書きますよ~(売り込み)。

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DATE: 2006/03/03(金)   CATEGORY: 未分類
ブランド価値、炎上。
昨日未明(午前四時少し前)我が家のチョー近辺で民家まるごと一軒全焼の火事があった。

 敏感なわたくしはすぐに飛び起きて、消防車がくるかこないかのうちに現場にかけつけた。

 火は生き物のように成長し、二階にもえうつり、両隣ならびに奥の家までなめなめしはじめた。ぽんっ、と火災現場独特の破裂音がする。

 消防士さんが黄色いテープをはりだしたので、消火活動の邪魔にならないよう、とっとと撤収。

 つくづく思うのが、家、たてこみすぎ。軒と軒がほとんど接している。地震などで消防車がすぐにこれなかったら、このブロックの家はみな焼けおちてしまうだろう。

 私の住む地域は地価が高いため、地権者が一人なくなると相続税が払えない家族は土地をうってでていってしまう。

 そして、平均的なサイズの一軒家(決して豪邸ではない普通の家)が、コワされたあとには、何と10軒からそれ以上の数のちまこい建て売り住宅がたつ。

とうぜん、庭も塀も門もない、全部あわせて一軒の長屋にしかみえないつくり。

ものごっつビンボくさい。いったん火事がおきたら、運命共同体である。

 こんな家うれるんかいな、と思っていても、なぜか売れる。

 たぶん地名のブランド効果で売れるのだろうが、いまや長屋に占拠されつつあるこの地域に、もはやブランド的価値はみあたらない。

(ちなみに、このスラム化には我が家も貢献しており、父が生きていた頃一つだった家はいまや四分割されている。)

 緑豊かな公園だけがかろうじて地名ブランドの名残を示している(このうち一つがマンションになりそうになった時住民みなで反対した)。

生まれた町のスラム化を嘆いているうちに、鎮火してきたようである。

いろんなところから水がちったんちったん落ちている。救急車が来ていないからおそらくけが人はいないだろう。(ちなみに、警察も消防も何も教えてくれない。ケチ!)

いいなあ、日本。

これがインドの下町なら死者不明者数十名だよ(え? 比べる対象がひどすぎる?)。

家にもどって災害持ち出し袋をとりあえず確認。といっても、入ってるのは鳥ごはんと鳥の保温用きっと。ちなみに、人間のためにはカップラーメンがあるだけ(お湯がなかったらどうすんだろうね)。猫は自力更生。

我が家の災害シュミレーションはお鳥さまたちが、ストレスを感じずに避難生活を送ることだけを目的にくまれている。

避難處にはペットは入れない。だから、被害の少ない地域にはってでも移動して、ホテルの部屋をとるか、空き部屋をかりるなどして、お鳥さまをおちつかせる。こんなシュミレーションが役に立つ日がこないといいなあ。




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DATE: 2006/03/01(水)   CATEGORY: 未分類
恐るべし、チベット高僧の千里眼
ここ数日、チベットの14世紀の聖者の伝記の研究を行っている。といってもまだ研究までいっておらず、予備作業のような段階である。

 具体的な作業手順はというと、彼のもっとも古い伝記三つを和訳し、それらに記されている彼の事績をエピソードごとに箇条書きにわけ、いつ、どこで、何をしたか、というデータとともにリストアップしていく。これだけで、結構な項目数となる。

 そして、さらにそのデータをもとに、彼の著作のコロフォンから読み取れる情報を対照させて、それらの著作が彼の人生のどのあたりでかかれたものなのかを比定していく。

 簡単に聞こえるだろうが、彼の著作は196点もあり、さらに一つの著作が134の小品にわかれるなど、実際の点数はもっと多く、コロフォンをとりだすのだけでも大変な作業である。

 本日、やっとエピソードの梗概リストがほぼできあがり、さらには196点の著作のコロフォンの抜きとりもおわった。これから、データをつきあわせて、彼の人生のいずこかに、これらの著作をはめこんでいく作業がはじまる。

 すべての事績に年月日が入っているわけではなく(それどころか、ほとんどの干支不明の、春、夏、秋、冬の季節表示のみ)、また、著作のコロフォンにしてもほとんどの著作には年はかかれておらず、よくて著作された場所が分かるのみなので、伝記とコロフォン情報が合致する著作の数は限られて来るであろう。
 
 労多くして功少なし。

 しかし、まあ、このようなお堅い研究の部分はいざしらず、和訳に関しては仏教興隆の一助になるとは思う(和訳がひどすぎて罰があたるという畏れもあるが)。

 この伝記の翻訳をはじめてより、なんどか不明な点をチベットの高僧にお伺いする機会があった。とある高僧の方に二度目に質問にあがった時、その方はこの聖者のタンカ(仏画)を私に下さった。そして、「しっかりかんばるように」とおっしゃられた。

 タンカ自体は台湾の工場で大量生産されたものであるものの、その高僧自らが法要でおみたま入れを行ってくださっていたので、ある意味唯一無二のタンカである。

 去年の五月にそのタンカを頂戴して、しばらくそのタンカは箱入りのまま置かれていた。しかし、これじゃいかん、とある時そのタンカを壁にかけた。すると、二~三日は聖者伝の和訳に気合いが入ったが、しばらくすると日常の仕事や他の研究に紛れて中断してしまった。

 そして去年の晩秋くらいであったか。ダンナと二人で「●×伝をちゃんとやらなきゃね~」と話していたら、隣の部屋でぱさっという音がした。おそるおそる見に行くと、その高僧から頂戴したタンカが壁からおっこって床におちているでわないか。

 ぞーっとした。

 高僧が遠くチベットから千里眼で「分かっているなら、早くやれ」とおっしゃっているような気がした。

 今度は落ちないように、壁にガンガン釘をうちつけたことは言うまでもない。

 チベットの神様・仏様、ラマ様、

 今日の時点で、三つの伝記の和訳は〔まだ完全ではありませんが〕ざっとは終わりつつありますです。著作の解析もこれからですが、準備は整っております。

 〔できる範囲内で〕努力しておりますし、一生懸命やっておりますので、

 どうかもうしばらくのご猶予を御願い申し上げます。
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