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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2006/02/27(月)   CATEGORY: 未分類
智にはたらけば角が立たずに世界平和
 自慢じゃないが、わたしはこのぶろぐをじつに気ままに書いている。
 だいたいは何も見ずにそらで書きなぐり、文の見直しもしない。

 そう、書きっぱなし。

 だから、誤字あり、脱字あり、思い違いで内容の誤りもあるだろう。

 恥もかきっぱなし。
 
 でも、それについて恥じる点は何もない(威張っていうこともないが)。
 
 わたしは「こんなことも知らないのか」と言われることに何の屈辱も感じない。

 だって、それは知識(knowledge)の問題であり、智慧(wisdom)の問題ではないから。

 よく混同されるが、知識と智慧はまったく別ものである。

 「いろいろなことを知っている」ことが「知識がある」ということである。

 知識をツールとして使えば、自分の身を助けることもあるだろうし、人の役に立つこともあろう。
 いいところに就職できることもあるだろう。

 しかし、博引旁証・博覧強記をいくら積み重ねても、その量的な積み重ねから知性は生まれない。

 一方、「事物(森羅万象天地人)の本質を見透かす高度な知性」が「智慧がある」ことである。

 よく知られているが、哲学(ふぃろそふぃあ)の語源は「智を愛すること」を意味する。

 この場合の智も単なる知識ではない。
 仏教でいう智慧も単なる知識ではない。

 おのが心の中にある悪い性質を克服して、闇から光に向かった目覚めた意識を智慧という。

 チベット仏教のゲルク派によると「すべての物事は関係性の中にあり、実体なるものをいくら探してもみつからない」ことこれを実現した意識である(ちなみにこれも調べて書いてません)。

 だから、智慧者とは聖者である。
 
 大学でてても、博士でも、物盗りもとい、物知りでも、智慧者でない人はいるが、
 大学出てなくても、極端な話字が読めなくても、智慧者はありえるのである。
 
 人として生まれたからには、いつかはこの「自分」「自分」という卑しい煩悩を克服して、少しでも智慧者に近づきたいもの。

 知識ある人よりも、智慧ある人と言われるのが仏教徒の夢。

 と、こうはいってみたものの、たとえ「知識」レヴェルであれ、目に余るマチガイはやはり恥ずかしい。

 なので、マチガイをご指摘いただけるのはとてもありがたい。
 これからもよろしく御願いします(なにをだ)。
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DATE: 2006/02/26(日)   CATEGORY: 未分類
若害が目立つ昨今老害をみなおそう!
昨日、午前中からはじまった会議が午後まで延長戦に入り、さらにそのあと議題が三つほどの別の会議があり、終わった頃には六時近くになった。十一時から換算したら通算七時間だよ。

 いーかげんにしてくれ。

 人間の意識が集中するのはせいぜい二時間とまり。つまりながびけばながびくほど、中身の質は落ちていく。

 会議の前半は荒れまくり、えらいことであった。しかし最近は、何が起ころうとも、意識はつねに明鏡止水の境地である。泥の中にあっても美しい蓮はさく。ドロドロの人間模様は蓮の肥やし(笑)。

 仏教を知らない方のために解説すると、泥はドロドロ煩悩、蓮とはその中にあっても汚れることない「仏になれる可能性」である。

 会議が昼ご飯時にかかると、大学が教員に対してお弁当をだしてくれる。

 ありがたいことだが、この弁当の内容がねんねん貧弱になっていってくのはご時世ゆえか。

ちなみに、昨日は京樽ののりまき弁当のようなもので、どう考えても五百円をこえない。崎陽軒のシューマイ弁当だった頃はまだよかった。って、どーでもいいわ。

 午後京樽弁当を食べたあと、何人かの教員は無我の境地に入ってしまった。

 大学の教員というものは〔ときたま例外はあるものの〕総じてみなりにかまわない。そのくたびれたオッサンたちが昏沈している様を見ていると、お釈迦様が出家の前夜、寝乱れる女官たちの姿をみて厭世観にうたれたというのはまだ甘いと思えてくる。

 しかし、仏教者はそのくらいのことで心が乱れたりはしない。

オッサンたちがネクタイでメガネをふきはじめようと、年をとって喉の筋肉がよわくなってきたせいか吐く息・吸う息のたびにへんな音をたてていようと、厭世観もおきない。

 はたして私の心は強くなったのか、鈍くなったのか。

 前者なら老成だけど、後者ならただの老化である。

どちらなのかは棺のふたを閉める時のお楽しみ(前原風)。
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DATE: 2006/02/24(金)   CATEGORY: 未分類
もうすぐ、は~るですねえ~♪
 春である

 我が家の愛鳥ごろうはいまものすごく可愛い。目があうたびに、きらきらした瞳で首を45°に傾けて、翼をあげて"ごきげんのポーズ"で静止する。なんか正視できないくらい、愛くるしい。

 そして、表にでると、冬眠明けで巣からでてきたガマガエルが車にひかれて、あちこちの路上で異臭を放っている。
生きているうちに気がつけば、道の真ん中から移動させているが、すべてのカエルの動向を見張っているわけにもいかないので、こぼれおちたカエルはこのように轢死体となる。

 そして、我が家の愛猫餓鬼道である。サカリがついて喧嘩をしたらしく、現在は耳をわずらって療養中である。

 春である。

 この季節、肉体であれ、精神であれ持病を持っている人は要注意。病状が悪化するのである。四月から五月にかけて亡くなる人はだいたいこの時期に病状が悪化した結果である。十三年前になくなった母も、やはりこの時期に病状が進み、四月二十九日に命を終えた。季節の変わり目は健康な人でも体調がつらい。まして病人においておや、である。

 そして、忘れてはならないのは、精神に危機を抱えている方々である。厳冬期には学校にでてこれた学生も、この時期には不安定になって不登校になる。アル中の人やたばこ中の人で、禁酒・禁煙をがんばってきた人も、この時期にもとのもくあみに戻る人は多い。

 また気がつくと、仏教のお祭りの大半は春もたけなわに集中している。というのも、チベット仏教では、お釈迦様が、お生まれになられた月、覚りを開かれた月、なくなられた月、という三大記念日がまったく同じサカダワ月(新暦ではだいたい四月~五月)の十五日とするからだ(日本仏教では二月十五日をお亡くなりになった日、四月八日がお生まれの日と考える)。お釈迦様も春に精神的・肉体的にドラマチックな変化を起したのである。

 以上のことを鑑みるに、春において、自然界で芽吹きがおき、みるみるうちに育っていくという一大変化がおきるのと同様に、人間も肉体的・精神的にいろいろな意味で何かが急激に、ドラマチックに、良きにつけ、悪しきにつけ変化する季節らしいことがわかる。

 良くなるための努力も始めておらず、さりとて〔今のところ〕肉体も精神にも病気ももっていない私は、今年の春もよくも悪くもたいした変化は起きそうにない。ので、とりあえず、この春はお釈迦様をしのび、さらにごろうちゃんを拝むこととする。
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DATE: 2006/02/23(木)   CATEGORY: 未分類
仏の顔もサントワマミー
現在の寺院が世俗の組織になっており、僧侶が修行や哲学ばかりではなく、布教や寺院経営にあたらねばならないのと同様に、大学も世俗の組織であるため、教員はその本来の職務である研究以外に、教育と事務(校務)にあたらねばならない。

そう、今の時期は日本中の大学教員が、一事務員となって働く季節。
ここ数日事務多忙のため、ぶろぐの更新がとまっていたのです。
来てくださった方、すいません。
おかげさまで大過なくのりきりましたです。

一事務員となって実務をやってみると、それを適正にこなすためには、いかに精神がすりへるか、そしていかに根気がいるかが身にしみる。
 そして、この世の中がこのような細かい仕事を正確かつ適正にこなしてくれる人がいるがゆえに、回っていることを思いしらされる。

 山手線が四分間隔でやってくるのも(こないだ止まったけど)、お店に弁当が並ぶのも(昨日かった「ほうねん」ののれん弁当油がまわってまずかったけど)、蛇口をひねれば水がでてくるのも、新学期がやってくると早稲田の四万人の学生の科目登録と教室割りができるのも、毎日毎日神経をつかって細かい仕事をこなしてくれている職業意識の強い優秀な仕事人の方々がいてくれてこそなのである。

 実務の世界はナマモノの現実との斬り合いの世界である。一見すると、理想や理念などというものは無用であり、実務能力さえあればいいようにみえる。 しかし、理念も理想も倫理もない人が実務をとるとどうなるか。それはみなさんの身の回りにたくさんいる無能な上司、無能な同僚をみれば一目瞭然ですね。彼らは理念も理想もないためつねに目先の事象にふりまわされて、その場しのぎの判断を行う。そんな判断が長期的に見ていいはずもない。しかも、そろいもそろってアタマが悪いときているので簡単なことをむやみに複雑にし、〔彼らは意識していないが〕複雑にすることで自分の立ち位置を創ろうとしたりする。大所高所からみれば彼らはお仕事のガン以外のなにものでもない。

 また、理念や理想のみで動きゃいーってもんでもない。時々いるが、そういう人は実務能力が皆無で、現実がまったく見えていない人が多い。彼らは自分では仕事をしているつもりなのだが、往々にして仕事のガンになる。具体的に言えば、「~べきだ」「そもそも~」と声高にかつ断定的に自己の主張を述べ、それにとらわれる結果、人間関係をこわしまくり、仕事を渋滞させる。でもってそういう人の唱える倫理とか理想とかは本人は天下の一大真理のように思っていても、客観的に言えばどうとでいえるもんだったりする。この場合、彼らは黙っている方がじつは社会に貢献できるのだが、困ったことに、こういう人にかぎって多弁なのである(実例を挙げろ、なんて言わないでね)。

 つまり、誠に優秀な仕事人とは、倫理観もあり、理想も語れる人格者であると同時に、実務能力をかねそなえている人のことである。そんな人がいれば世の中は安泰、職場も平穏である。

 でも、そんなヤツいない。

 なので、どこでもかしこでも、お家騒動がおきる。アメリカではハーバート大学の学長が辞任し、JALではクーデターがおきる。

上司や同僚に対する不満をもつ人々で今日も赤提灯は満員御礼。
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DATE: 2006/02/15(水)   CATEGORY: 未分類
久遠実成の二諦説(笑)
 昨日は、二つの会議のあと組合の会議があった。いろいろなキャンパスの先生ができるだけ集まってこれるように、会議は夕方すぎから始まる。

 当然その日の夕食は組合のとる出前となる。昨日は錦×庵からの出前だった。数々の文学者を生み出した早稲田大学にあって、大学の周辺にある蕎麦屋や飲み屋は様々な文学作品に言及されているため、ある意味観光地化しており、錦×庵もそのような店の一つである。

 わたくしは天丼をえらばせていただいたが、これは失敗であった。えび天を箸でもちあげると、衣がゾンビのようにぬげおちたのである。遅刻をしたせいだろうが、天ぷらは衣が水分をすってべちゃべちゃだった。
べちゃぺちゃは天ぷらのみならず、ごはんにも及んでいた。

 お米には一粒一粒七人の神様が宿っていらっゃるので、最後まで食べたが、さぼってばかりのぐうたら執行委員に対する神罰としかいいようのない味であった。

 帰ってくると、仏教青年会からの郵便物が届いていた。開けてみると早大仏教青年会の会誌「久遠」が入っている。

 そしてレポート用紙に手書きで原稿依頼がかかれていた。
 
 あのなあ。私はいいけど他のOBの方に原稿依頼する時には、墨と筆とまではいわないが、せめて便せんに万年筆で書いてくれよ。何か学生のレポートを読んでいるような気持ちになってくるよ。

 「久遠」をめくってみる。

 題名の由来は、早稲田の校歌にも歌われている「久遠の理想」の「久遠」と法華経の「久遠実成」をかけたものであろう。なかなかイケている。

 早稲田大学校歌一番には「現世を忘れぬ久遠の理想」が歌われている。原理主義的な理想主義ではなく、機能主義的な理想主義を目指すとは、なかなか早稲田らしくいい歌詞だ。

 
 幹事長の巻頭言に始まり、仏教青年会ゆかりの方々の心のこもった文章がならんでいる。「ほー」と感心しながら読んでいて、一つのことに気づく。

まず、巻頭言の幹事長の言葉から

「他大学の仏教青年会では部員数の減少などから消滅や活動休止に至るなど、寂しい話を聞く中で、私たちの早大仏青は一度も絶えることなく命脈を保ち続けています」。

えええええ。他大学はもっとひどいのか。早大仏青はまだましな方なのか(吃驚)。

 で、仏青OBの渡辺了恵師(部室に祭られたお釈迦様の作者)の文章を読んでさらに仰天。

 「顧みると機関誌『久遠』は、昭和33年当時「死に体」となっていた仏青に入部し、大がかりな会員集めをして、総持寺での座禅会や古寺巡りなどを行いながら創刊した懐かしい思い出がある・・・」

 なんと、仏青は私の生まれる前にも死に体だったのかっ。今のこの寂しい状況はぜんぜん異常じゃなくて、遠い昔から多かれ少なかれこんな状況だったのかあっ。

 わたしは早大仏青の生命力を甘く見ていたのかもしれない。

 「これぞまさに久遠の実成」(これで笑える人は仏教オタク)。
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DATE: 2006/02/13(月)   CATEGORY: 未分類
鳥のオリンピック
トリノで冬季五輪が開催され、メディアはそれ一色である。一方、私は全体にその流れについていけず、トリノという言葉をきくたびに耳はかってに「鳥の」と変換し、

鳥のオリンピックかあ。」

と各国の小鳥たちが集まり、華やかな開会式のショーののち、美しさとかわいらしさを競い合う妄想が思い浮かぶ。

 「うちのごろう(オカメインコ)は、オーストラリアの鳥だけど、日本で生まれているので日本国籍よね」とか妄想は果てしなく続く。

 そう、わたしはスポーツ音痴。

 野球のルールすらよく知らない。ホームベースを踏むと一点、これしか知らない。

 今回の五輪で活躍が期待されるかの有名な荒×静香選手が、在学中大教室でのわたくしの授業をとってくれたことがあった。彼女が

「アメリカで振り付けをしてくるので、しばらく休みます」といってきた時、

「ダンスでもやってんのかな?」と思ったのは私です。

 スポーツ、ノコト、ヨク ワカラナイ(なぜ、いきなりカタコトに?)。
 
 でも、これは学者としてはスタンダード。某大学の教授(武士の情けで名を伏す)は高校在学中、体育のソフトボールの授業で、ヒットをうったところ、その後何をするか知らず、周りから「走れ!」「走れ!」と言われて、とりあえず、三塁に走ったし、サッカーの授業で味方のゴールにボールをけり込んだこともあるという。

 ちなみに、彼は絶頂期の宮沢りえが18才で初ヌードを披露して世間がひっくりかえった時にも、さわぐ世間を尻目に「宮沢りえ? 誰ですかそれ」と聞いていた。

 学者は集中力が勝負。いちいち世間のことにかまけているようでは、学者としては大成しない。もっとも、世間のことにかまけないから大成するというものではないが。

 古代ギリシアにおいてポリス間の争いを回避するために体育の祭典オリンピックは始まった。何であれ、殴り合いよりは、競技の競い合いというその理念自体はすばらしいと思う。

  しかしスポーツの勝敗がナショナリズムを刺激して紛争を生むことがあるから要注意。サッカーにおけるフーリガンの狼藉しかり。
 
 その点、アイスダンスとか、あまりギスギスしていない競技はいい。美しい縁起もとい演技は国境をこえて人々に感動わあたえ、偏狭なナショナリズムを止揚する力がある。

 たとえていえば、わがダンナ様。

 彼はモーグルとかジャンプとかには興味を示さないが、フィギュアやアイスダンスのトップ選手は国籍を超えて応援する。理由は簡単。トップ選手はみな

 「美しいから」(あ~あ)

 ダンナ「サラエボの冬期五輪での、トービル・ディーン組は本当に素晴らしかった。ボレロでやったんたけど、とくにラストがドラマティックでねえ。"サラエボの恋人たち"って呼ばれたんだよ。審査員は全員6.0を出したんだよ?」

とアイスダンスの過去の名演技をかたる姿は輝いている。

 確かに、美しい男女が幸せそうに仲良さそうに踊る姿は、ののしりあっている姿よりはいいものである。

 というわけで、我が家の冬期五輪は今回もアイスダンスとフィギュアのみ。

 
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DATE: 2006/02/12(日)   CATEGORY: 未分類
国際チベット学会(IATS2006)のいや~んな予感
 今年(2006年)八月、西ドイツのボン大学?(それくらい調べてから書け!)にて、第11回国際チベット学会が開催される。

 この学会は毎年でなく、三年か四年に一回開催されるもので(それくらい覚えとけ)、年々参加者が増え続けている。

 わたしは実はここんところこの学会いってない。

 なぜかというと、だいたいにおいてヨーロッパでやるので時差が大きくてつらいし、あまりにも規模が大きいので、内容も玉石混淆なのでもっと疲れるのである。

 オリンピックの事務局と同じく、限られた予算でやりくりしなければならない学会の事務局は、発表者を絞らねば運営ができないので、事前にペーパーを提出させて発表者のレベルを確認したり、大学に籍を置く先生の推薦を義務づけたりと大変である。

 大企業がスポンサーにつく理系の国際学会と違い、文系の学会は貧しいのである。

 で、そんなこんなで、実は去年の二月にペーパーをだし、去年五月だかに、あんたの発表は受理されました、あるいは、拒絶されました、の通知がきて、今年の一月までには学会参加費を払い込むという手はずになっている。何もかもが早い。

 去年の今頃、私は「とりあえず、エントリーでもしておこっかな~」とフォームを出した。そして、例によって自分の行動をすべて忘れていた。

 そして、何日か前(8日)、突如として「あの件どうなつたっけ」と記憶がよみがえった。ペーパーだしてちょうど一年目。去年とまったく同じ季節、状況になったため、去年の今頃やっていたことの記憶が突然よみがえったのである。

 そういえば、学会事務局からの返事は去年かえってきているはず。

 なのに受理も拒絶も何の返事もないやんけ。

 さっそく、学会事務局にメールをうち、さらに、アメリカの知り合いに事情をきくメールをうつと、何らかのmiscommunicationだから、こちらからも主催者にメールを送っておくという。ありがたいことである。

 しかし、もう正式の発表があってから十ヶ月はすぎている。最初指定された参加費のふりこみの期日ももうすぎている。今更発表が受理されても、研究費はつかい果たしているし、今回は見送りかあ~。とあきらめの早いわたくしはそうそうに覚悟をきめた。

 そしたら、翌日、学会事務局から、
our evaluation isn't quite through yet, therefor the delay. You are accepted and I send the forms and circular herewith.(われわれの評価はまだ完璧ではない。したがって遅れが生じている。あんたは受理されました。参加フォームと案内状をこれから送るね?)

なんていい加減な。

私もいい加減だが、事務局もいい加減である。


 しかも、もう二人部屋しか空いていないという。今更、日本からの女性の参加者を見つけるのはムリ。てか、発表者の選定は去年きまっているので、ムリだろうが。一人で二人部屋の料金はらえってか。不眠症だから一人の方がいいけど、コストパーフォーマンス的にすっきりせん。

 また、今からこの手際の悪さでは、本番ではもっとすごいことになるだろう。ぶろぐのネタにはなるだろうが。
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DATE: 2006/02/10(金)   CATEGORY: 未分類
バーミヤンの大仏をぶっとばされて・・・
デンマークの新聞がムハンマドの風刺画のせたことを契機に、イスラーム世界で争乱がおきている。

フジテレビがその風刺画をスタジオでモザイクをかけてみせていたが、モザイクかけるくらいなら、最初からださなきゃいいだろう(笑)。

彼らの怒りはとどまることを知らない。最初はその風刺画をのせた新聞社に向けられ、やがてはその新聞社のおかれたデンマーク国に及び、今はその風刺画を転載したヨーロッパ諸国にまで拡大し、これらの国の大使館はおそわれ、国旗はふみにじられ、それらの国の商品の不買運動まで始まっている。
彼らは口々に、「イスラームを侮辱した」という。それはそうだろう。しかし、だからといって、それが暴力や暴言を正当化することにはならない。 

彼らのやっていることは、デンマーク国民に対する侮辱である。

客観的にいえば、イスラーム文明は真にすばらしいものである。数々の哲学、思想、芸術をうみだし、西洋のルネサンスを導き出したことでも知られる。それに対して疑いをはさむものは誰もいない。

しかし、今、イスラーム世界でおきている争乱を見て、「イスラームってすばらしい」って思う人はいないだろう?

「アイツがオレを悪くいったんだ。だからオレはアイツをぶっとばしてやったんだ」っていう延髄反射に支配された人を尊敬する人はいないだろう。

イスラームが本来の正当な評価を受けようと思うのなら、芸術、学問、政治、個々人のレベルですばらしいものをみせてくればいいのである。そうすれば世界はイスラーム文明を礼賛し、その存在を心の底より喜ぶことだろう。
暴動をおこすより、はるかにムハンマド師も喜ばれるはずである。

 大乗仏教(北伝仏教)が栄えたガンダーラの地(現在のパキスタン)で、仏教遺跡を発掘すると、その顔がみな削り取られている。イスラーム教徒がこの地に侵入して来たのち、仏教の偶像崇拝を忌み嫌ってこのように破壊したのである。1999年にアフガニスタンの仏教遺跡バーミヤンの大仏(世界遺産)が、タリバンによってダイナマイトでぶっとばされたのも、同じ理由からである。

 彼ら風に言えば仏教徒は「侮辱された」わけである。しかし、タイや日本で僧侶たちが暴徒化したという話はついぞきかない。

八世紀のインドの僧シャーンティデーヴァは『覚りへの道』「忍耐」の章の中でこんなことを言っている(全邦訳が『怒りを癒す』にあります。)。

仏像、仏塔、正しい法(仏法のこと)を誹謗し、破壊する人々に対して私たちが怒りを抱くのは不当である。仏などはすこしも害を受けていないのだから。

ひらたくいうと、

仏法のシンボルである仏塔が壊されようとも、仏像が破壊されようとも、仏法が誹謗されようとも、仏様の境地に達した人は、そんなことでは動じないし、怒らない。だから、あんたが怒るということはアンタが仏様から遠ざかることであり、仏教のためにもなってないよ、

と言っているのである。

すばらしい。この言葉には、イスラームの聖者たちもおそらくは「うんうん」とうなずくのではないか(責任もてないけど)。
事実、仏教のこの「超えてる」平和主義は19世紀後半のオリエンタリズムの時代から現代にいたるまで、世界のさまざまな地域の人々の心をつかんできた。ショーペンハウアーしかり、ワグナーしかり。

「自分の信じるものを侮辱されて怒らないのは、腰抜けだからだ」と反論する人がいる。

そういう人は、自分の怒りっぽい精神を鑑みて、「侮辱されても報復しない」ことには、どれほどの自制心が必要か、あるいは、「怒らない人」がどれほど精神の陶冶をしたのか、そのような人を本当に腰抜けといえるのかを、考えてみることだ。

そして「自分の信じるもの」のために真の意味で役に立つにはどうしたらいいのか、それをもう一度考えてみることだ。
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DATE: 2006/02/08(水)   CATEGORY: 未分類
ブログの移動
 今年の一月から早大仏青再建ウォッチングのブログを「so-net」で始めましたが、あまりにも重くて、アクセスも更新もままならず、このままでは、誰にも振り向かれなくなってしまうのではないかと心配になって、こちらに引っ越しをしました。過去の記事も、本文だけは徐々に移行します。日時がさかのぼって追加しているのは、そのため。悪しからず。

 ソネットにリンクを張っていただいた皆さん、お手数をおかけして申し訳ございませんが、http://shirayuki.blog51.fc2.com/に張り直して下さいませ。
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↑私が朝起きてパソコンひらいてみたら、いきなりぶろぐが移転したとあり、ここにとんでみると、知らないテンプレートになっており、かつ、これはダンナのかいた文章です。というわけで、テンプレートはまだ変わるかもしれません(ゆ)。
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DATE: 2006/02/07(火)   CATEGORY: 未分類
西武線を体でとめるくらいなら
大して長い間ではないが、教壇にたってから今にいたるまで、ウン年間、
その間さまざまな学生が私の目の前を通り過ぎていった。

学生はいつも二十代前後、あたかも定点観測の杭のようにわたくしはこの流れの中にたってきた。

で、ここ数年気がついたのは、精神的に危機的状況を抱えた学生が激増したということ。

大学内にある無料のカウンセラーは門前市をなし、そこで救えなかった学生は西武線を体で止めると同時に、そのまま人生をとめてしまう。

いわゆる心療内科に通うほどの深刻なものでなくとも、多くの学生は漠然とした不安や人間関係にまつわる悩みを抱えており、少し親しくなった学生はみな一様に生きづらさを訴えてくる。

こんな豊かな時代に育ち、最終学歴が早稲田ならそこそこのところには就職でき、親にもできあいされているのに、彼・彼女たちは精神に危機を抱えているのである。

彼らの姿を見ているとわたしは青年期の釈尊を思ってしまう。

お釈迦様は釈迦族の王子の身分に生まれ、何不自由なく育ち、親に溺愛されて、美しい妻と大勢の女官に囲まれ、これは並の男だったら一生かけて手に入れたいと思うような環境である。にもかかわらず、

釈尊は29才の年に、老人・病人・死人をはじめてみて、人生の本質に気づいちゃう。親が甘やかして汚いものをみせないようにしてきたのがかえって逆効果となり、お釈迦様、いまでいう鬱になってしまいます。それから人生の苦しみについてもんもんと悩みます。

そして、この世の富や名誉は何も自分の苦しみを救うものではない、と気づいたお釈迦様は「出家するんだ~」と、城の東の門から愛馬カンタタにのって飛び出したのでした(わたくしの好きなシーンである)。

そして、お釈迦様は髪を下ろして出家すると、六年の間、自分の体を痛め付ける苦行を行い、六年目にその苦行も今までの快楽生活の極端のまた別の極端であると知って、その苦行を捨て、命をかけた最後の瞑想でいわゆる「悩みのない境地」(サンスクリットでニルヴァーナ漢語で涅槃です)に達したのである。

ここで気をつけていただきたいのは、富や名声や地位が自分を幸せにしないと鬱になるのは、すでにめぐまれた環境にある人がはじめていだく感情だということ。

貧しい家庭に生まれた人は、綺麗な家にすみ、美味しいごはんを食べることだけを目標に人生をおくる。そして、富や名声を手にすることで幸せになれると思う (あくまでも本人意識で幸せということ)。彼らにとって、老いも、病気も、また死ぬようなことがあろうとも、それが自分の目の前にくるまで考えないのであり、ただひたすらがむしゃらに「上を」「No.1を」めざすことで人生を過ごすことができる。この修羅の道では、何か考えているヒマはたぶんない。

しかし、お釈迦様は生まれた頃からすべてをもっていた。そのため物質的な繁栄を追い求める必要はなく、精神の安寧を得るために修行を始めたのだ。

今の学生といえば、長年にわたる平和で安定した社会により、子供には身体の危険はほとんどなく、教育を受けた親は子供にお金と愛情をイギアスの滝のように注ぎ込み、一億総出家前のお釈迦様状態である。しかし、彼らには就職をして社会にでるという現実が待っている。お釈迦様は王様(社会)になる前に、出家することにより、精神の危機をのりこえた。

しかし、現在の日本の社会には古代インドのような出家システムがないので、世界から出て行ってしまう→西武線を体でとめる、ことになってしまうのである。
そこまで深刻でない学生は、何かすがりつけるもの依存できるものを探す。ネットの中の人間関係を拡大することで孤独感をいやしたり、パチスロやゲームにはまったり。

でだ。本題に入りますが、出家前のお釈迦様と現代の悩める学生はかくまで構造的に似ているとすれば、仏教思想によって、このような学生も多少は救われるのではないかと思うのである。

お釈迦様は覚りを開かれた時、苦しみついての四段階の考察である四聖諦をおときになった。

この世は苦しみである(苦)
この苦しみの原因はおのれの心の中にある悪い性質である(集)
この悪い心を滅することで苦しみもなくなる(滅)
悪い心を滅するためには八つの正しい行いをすることである(道)

社会はキタナイし、人間もそして、オノレもキタナイのである。しかし、それをキタナイと思い、責める心はオノレから発しているのである。お釈迦様は、その心を滅したことにより、キタナイ社会やキタナイ人間の心を嫌悪の心で見ることはなくなった。中立の心でもっと高みから見下ろすようになったのである。

悩みがなくなってからの釈尊はみるからに美しく、堂々としており、説法の前にはにっこりするなど、とても幸せそうiに見えたと経典にはのってます。見たわけではありません)。

仏教ってほんとすばらしい。

学生が仏教思想にふれることによって、そこまでいくのは無理にしても、もっとキタナイものをキタナイものとして気にしないくらいの強い精神力をみにつけてもらえるのではないかと思うのである(あくまでも希望的観測だが)。

何かうまくいかないことがあると、人はすぐにアイツ(親・教師・上司)がわるいと自分より強い立場にあるものに責任を転嫁するのであるが、そのようなことをしていても人としての成長は見込めない。批判する相手にとらわれ、そこからぬけだせず、同じ失敗を繰り返していくだけである。根本的な原因、すなわち自分の心をよくしようという行為を放棄しているからである。

しかるに、仏教はオノレの悪い心に原因をもとめる。きわめて論理的ではないか。

仏教ってじつはとってもモダンでハッピーな教えなんですよ。
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