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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/09/28(土)   CATEGORY: 未分類
沖縄でゼミ旅行 ('19)
 琉球王国は1609年に薩摩に侵攻された後も、清朝に朝貢しつづけたため、1879年の琉球処分によって公式に日本に帰属するまでは国際的には清の衛星国とみなされていた。そんなことを授業で扱ったら、ゼミ生が是非琉球に行きたいといいだしたのでちょっと遠いし高いけど今年のゼミ旅行は沖縄にいこうということになった。以下そのレポートです。

8月27日 27年アメリカだった沖縄

 夕方にホテルにチェックインをし、国際通りに向かう。途中、現県庁の横にある琉球政府・立法院跡の記念碑を見に行く。

 私「日本が戦争に負けた後、本土は1951年のサンフランシスコ講和条約で独立を回復したけど、沖縄は台湾・朝鮮半島に近くて対ソ・対中の基地をつくるのに適していたので、引き続きアメリカの支配下に置かれたの。沖縄の人にしてみたら島中を焼け野原にされた挙げ句、その張本人が上陸してきて鉄条網で島のあちこちを囲って基地をつくりはじめたのでそれは情けなかった。本土に復帰すればこのような状況が改善するかと復帰運動したけど、1972年の復帰後も今にいたるまで基地はそのまま。今県庁があるこの場所には27年にわたりアメリカの沖縄統治の拠点となった琉球政府があった。1972年以前に日本人が沖縄に旅行するにはパスポートが必要だったんだよ。ちなみに、アメリカ施政下でつくられた施設が琉球大学とか琉球政府とか「琉球」が強調されたのは、王朝時代の地名を連呼することで日本との間に距離を感じさせる意味もあったらしい。」と解説。

  国際通りにはクルーズ船からあふれだした中国人観光客であふれかえっており本土観光客はマイノリティ。坂を登り切ったところに「ラフ・エンドピース専門学校」というものがあり、「ヒッピー教育でもするのか」と検索してみたら、吉本のお笑い学校だった。ラブじゃなくラフか。

 食事のあと崇元寺門と大明嘉靖帝の日付ついている下馬碑を見に行く。国際通りから歩ける距離だが裏道に入ると途端に暗くなり、町並みは台湾か韓国の地方都市みたいな独特の雰囲気。

8月28日 琉球王朝の御嶽めぐり

 二日目は琉球王国の信仰世界をさぐるため著名な御嶽(ウタキ=本土でいう神社)をめぐる。
琉球王国最高の聖地はニライカナイ(海の彼方にあるという常世の国)から神様がおりたったという久高島。その久高島を対岸から拝む斎場御嶽も聖地。そしてこの久高島を首里から遙拝するのが弁ヶ嶽の御嶽である。

 まずは泊まっているところの近いところから攻略ということで弁ヶ嶽にいく。ここは首里の最高地点で小高い丘の上にあり、観光地としては無名なので探し当てていく感じ。

 拝所につくと、男の子たちは遠目に見える古い集合住宅を「何か憑いてそう」と気味悪げにみており、Rちゃんのケータイが突然電源がおち、Kちゃんは気分が悪いといいだし、Eちゃんはとったつもりのない写真が二枚とれてるといいだし、私が「みんな気のせいよ。私は何ともないから。」といって、とった写真をみてみると、連続してとった写真の一枚だけが上下逆にとれていた。

私「うん、普通にやばいね」
急いで山を下りる。

 それから一路南下してゆるキャラはなんじいが支配する南城市に向かう。フェリーの時間の都合からまず久高島にいくことにし、フェリーの発着所である安座真港にいく。この日は恐ろしいまでの晴れでクソ暑い。その分海はマリンブルーで文句なしに美しい。

フェリーは20分くらいで我々を神の島久高島へと運んでくれた。

かつてこの島の男たちは海人(うみんちゅ)と呼ばれ操船技術で琉球王朝に仕え、女性は神人(かみんちゅ)といって、琉球王朝最高位の巫女、聞得大君にお仕えすることを誇りとしていた。琉球文化は女性が王権をまもる非常に古い文化を残していて、男尊女卑文化の栄えた本土とはひと味違う。かつて島に生まれ島の男に嫁いだ女性は30になるとイザイホーという儀式をへて神人になった。しかし、現在島に生まれ島の男と結婚する女性がたえ、祀りも行われなくなった。

 島には人影がほとんどなく、これじゃイザイホーも絶えるはずだよと思っていると、小学校には人の気配がある。調べて見ると、この島には全国から不登校の子を受け入れているとのことで外部からの子供ももいたのかもしれない。ちなみにこの島での不登校の治癒率は90%という。島の自然の中で追い込み漁とか、隣の人がもってきてくれる野菜や魚とかを食べているうちに、子供達は自然とゲームをすてリアルを楽しみだすのだとか。ちなみに、本島にある依存症患者のためのリハビリ施設「沖縄ダルク」も全国のどの施設よりも治癒率が高い。沖縄の自然万能。

 フェリーをおりて歩き出すと、日差しを遮る者が何もないので暑い。女子はみな日傘をさしていたので問題なかったが、男子が例によって準備が悪く、「オレもうここで死ぬのかな」とか言い出すので、あわてて島にほぼ唯一の食堂に入る。壁には秋篠宮と紀子様がこの島を訪れた時の写真がはってあり、メニューは「イラブー御膳」「イラブー汁」が推しらしい。

学生「イラブーがこの島の特産なんですね」

「イラブーはシマシマのウミヘビよ。昔はここのウミヘビを燻製にして琉球王家に奉納したの。私は無理だけど食べてみたら?」と云うと、

学生「ソーキ蕎麦にします」
 
食事が終わった後、自転車を借りて、神様がおりてきたカペール岬に向かう。自転車にのると風を切って涼しくなるので男子がいっきに元気づいた。みなでとりつかれたようにひたすら島の北端にむかって爆走する。すぐに人家がなくなり舗装がきれ、丈の高いサトウキビやハイビスカスの間をはしる一本道はDr.コトーの一画面の中にいるよう。
 カペール岬は珊瑚礁の神々しい海だった。青い空に白い雲、青い海。ジブリ映画の一コマみたい。

 Hくん「エモーイ」を連発。

 そして「チャリできた」のネタ画像をとって、再び自転車にまたがり、今度は五穀のはいった壺がながれついたイシキ浜に向かう。朝日がのぼるニライカナイに続く海である(写真はイシキ浜に佇む私)。
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 「こういうところでは私利私欲のお祈りをしちゃだめ、世界平和を祈るのよ」と云いつつ、世界平和にの後にひっそりと論文が期限までに仕上がりますようにと付け加えた。

 帰りのフェリーに飛び乗り、安座真港につくと、慌ただしく斎場御嶽へ。琉球王朝最高位のシャーマン聞得大君(きこえのおおきみ)が即位した聖地である。前回訪れた時は突然お肌が潤って若返ったので今回もっとも楽しみにしていた訪問地である。なのになんか前と違う。数年前にきた時は駐車場から歩いた記憶がないのに、今回はかなり手前のお土産物屋でチケットを買ってそこからえんえん入り口まで歩く。そして御嶽につくとこれまた前回はなかった、教育ビデオを見させられる。

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 その内容は「ここは祈りの場所です。神聖な香炉に土足であがったり、拝んでいる人をジャマしたりしないでください」という観光客にマナーを啓発するもので、ここ数年で何かいろいろあったもよう。

 で部屋にいたガイドの方に聞くと、近所の方から路上駐車の苦情がくるようになったこと、観光客が聖地を土足でけがし、香炉をただの石だとおもって荷物を置いたり、写真をとるための足台にしたりして(自然崇拝なので拝殿とかないので)、香炉はすでに三つ壊され、先週も一つ壊されたばかりだとのこと、もうガイドをつけないと域内を歩けないようにしようという話まででていると。

 ガイドさんの怒りは続く「こういう話をすると、マナーの悪いのは外国から来た人でしょうと言う人がいますが、海外からきた人はここは拝む場所ですといえば分かってくれる。『信仰を強制された』と苦情電話してくるのは日本人です。私なんか苦情件数ナンバーワンですよ」。

 苦情電話をかけるには日本語のハードルがあるからじゃないかと思ったが、怖いので黙っている。さっき久高島であったガイドさんも殺気立ってブアイソだった。我々本土観光客は聖地をまもる女性ガイドたちからは良く思われていない模様。

 斎場御嶽をでるともう夕方。炎天下の一日に疲れはてた我々は近くの喫茶店に入り、コーラにマンゴーアイスをのっけた普段ならぜったぃ食べない甘物を注文。お店の方がサービスでカットパインをだしてくださる。そう、こういう普通のお店の人とかは本当にさりげなくいろいろな気遣いをしてくれる。その晩も夕飯ではいったお店でも「写真とりましょうか?」とか聞いてくれ、しばらくしてからまたもどってきて「全員はいっているか心配になったので確認させてください」とか、しぬほど性格がE。そういえばお店の人は大体男性でガイドさんはみな女性。ジェンダーで観光客へのあたりが違うのだろうか?

8月29日 「本土観光客はポタラ宮の漢人観光客か」

 今日も朝から暑いが、昨日と違うのは雲がでていること。予報では午後から雨なので昨日ほど暑くならないはず。
 本日は、琉球王朝の政治施設めぐり。しかしその前に、港川人の発掘地点である「港川フィシャー遺跡」にいく。出土地点らしきところを探しても分からないので、もよりの民俗博物館に電話をして聞くと、スタッフさんがきて下さるという。実際案内がないと分からない石切場の奥であった。聞けばこのから切り出された庭石から動物の化石を見つけたアマチュア考古学者の大山盛保が、動物があるなら人の化石もでてくるだろうと一人で探し続けてと見つけたのが港川人。人種的には南から来た人々で縄文人とは縁が薄いとのこと。沖縄には鎌倉時代も戦国時代もなかったが、古代史も本土とは関係なさそう。

 港川から那覇の郊外にある琉球王朝の別荘識名園にいく。ここは琉球王家の迎賓館で、中国からきた冊封使(琉球で新しい王が誕生した時、清朝から辞令をもってくる使者)の接待に使われていた場所。江南の風景が取り入れられ、庭木は熱帯の木々がおいしげり、エキゾチックな六義園といった感じ。敗戦の年、この美しい庭園はアメリカ軍の艦砲射撃により壊滅し、爆撃穴しか残らなかったが、写真にとられた往事の識名園の姿をもとに復元されている。
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 識名園の次は一路首里城に向かう。それまでど快晴だったのが、徐々に雲がでてきた。まず王家の墓玉陵(たまうどん)にいく。琉球では遺体を洞窟などに放置して腐りきると洗骨して巨大な骨壺におさめた。王族も基本的には同じシステムで葬られ、ここ玉陵でも遺体を腐らせて洗骨する部屋が真ん中にあり、洗骨ののち王様の骨壺が収められるのは左の部屋、王族の骨壺は右の部屋に収納された。玉陵の前の拝所ではいまだに拝む人がひっきりなしに訪れており、今は無き王家の人々に対する思いが感じ取れた。
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 最後の目的地は首里城である。しかし、門をくぐった瞬間にスコールが降り出し、女子は傘をもっていたが例によって男子がぬれるので、レストルームで雨が上がるのを待つ。傘を持っていない観光客であふれたレストルームは難民キャンプのよう。しばらくして小降りになったので正殿に入場すると丁度ガイドツアーが出発するところであった。

 ガイドさんは琉球王の王座の前で、「ここは外国の宮殿だと思ってください」「琉球王国は日本と中国の間で外交努力をかさねて410年続きました」と「おっ」、という説明をはじめた。康煕・雍正・乾隆の揮毫を背景に、中華風の龍がまきついた柱などはたしかにエキゾチックで日本的でないが、1609年以後は琉球は薩摩に実効統治されていたこと、さらに国際的には清に従属し琉球王は交代のたびに中国から辞令をもった使者(冊封使)がきていたことなどは詳しく説明しないのか。
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 深読みかも知れないが、このガイドさんからも本土観光客が琉球の独自性を理解していないことに対するいらだちを感じた。これは斎場御嶽や久高島のガイドさんの、拝所の神聖さを理解していない人への怒りにも通じているようだ。

 そこでひらめいた。これはあれだ。チベットのポタラ宮において、漢人観光客我が物顔で大声で携帯で通話したり、大声でしゃべったりして、インスタ撮影とかをしているのを、チベット人巡礼が暗い目をしてみつめているというあの構図だ。チベット人にしてみたら、ポタラ宮は観音の聖地であり、この宮殿の本来の主は観音の化身ダライラマ14世である。それが今、ダライラマ14世を追い出した国の人々が、ただの観光地として聖なるポタラ宮につめかけ、聖地に対する敬意も払わずに騒々しく「観光」している。

 そうだ、これだよと気づくと、沖縄の人の気持ちも何となく理解できるような気がした。
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DATE: 2019/08/30(金)   CATEGORY: 未分類
ツォンカパ入定600周年式典
今年はチベット仏教最大宗派ゲルク派の開祖、ツォンカパ (1357-1419) が入定して600年目である。「入定」とは文字通りには瞑想(定)に入っている状態を指す。深い瞑想に入った行者は息も細くなり身体活動が限りなく低下するため一見死んでいるかのように見える。そのため、高僧の死を婉曲に表現する際にもこの言葉は用いられる。

マニアなゲルク派の僧侶たちは「ツォンカパが『死んで』とかいうのはよくない。『双入』して600年と言うべきである。」と熱弁をふるう。なぜなら、ツォンカパは清僧だったので、死後、幻身を得た後にダーキニーと双入(zung ‘jug)して成仏したためである。成仏の仕方に重点をおけば確かにそうとも表現できる。

ツォンカパは死の直前にセラ・チューディン(se ra chos sdings)の修行場に弟子を集め、自らの著した秘密集会タントラの四巻の注釈書*を手にかかげ、「私のこの教えをつぐものは誰かいないか」と問いかけた。すると、なみいる先輩僧をさしおいて若いシェーラプ・センゲがたちあがり、その四巻本を拝した。つまり、今年はシェーラプ・センゲが密教の主となって600周年でもある。
*厳密にいえばチャンドラキールティの注釈書を註釈した複注。全部で四巻ある

 というわけで、今年はゲルク派にとって二重にめでたい年なので、そのお祝いに2019年8月9日から11日までの3日間、シェーラプ・センゲが創立したギュメ大僧院(インド・カルナタカ州)において、ゲルク派の位階ナンバー・ワンであるガンデン大僧院座主(ツォンカパの座を継ぐ者)とナンバー・ツーであるチャンツェ法王・シャルツェ法王(ツォンカパの二大弟子の座をつぐ者たち)、ナンバー・スリーのギュメの歴代僧院長というゲルク派の最高位の高僧たちが出御し、さらにサキャ派の座主をお迎えして600年記念式典が行われた。

 この期間設定は例年、清風学園の理事長の平岡英信先生がギュメを訪問する期間にあわせたものと思われる。平岡家とギュメの出会いは今から三十年前に遡る。当時学生だった英信先生の子息宏一先生が1984年にこのギュメを訪問し、その窮状を父親英信先生に伝えた。英信先生はただちにギュメにとび、高僧たちが生活苦にあえいでいるのを確認すると、勧進にたちあがり、バブルまっただ中の日本に寄付をよびかけ、1990年に現在のギュメの本堂を建立した。今思えば当時の日本は本当に景気が良かった。

この本堂が建設中の1989年から1990年までの間、宏一先生はギュメに留学してチベット語、そしてこの僧院のお家芸である秘密集会タントラの解釈について学び始めていた。時の管長はゴソ・リンポチェ。リンポチェとは前世が高僧であったことを示す称号であり、ゴソとはゴマン学堂のモンゴル人(ソクポ)を意味する。17世紀にゴマン学堂の座主をつとめた初代ゴソがモンゴル人、もっと詳しく言えばかのトルグート(現ロシアのカルムキア共和国)からチベットに留学して出世したトンドゥプギャムツォなので、この略称がついた**。
**ゴマン学堂がゲルク派のモンゴル布教にはたした役割については拙著『清朝とチベット仏教』をみてね。

 宏一先生はすんなり秘密集会タントラの学習を許可されたわけではない。副管長のドルジェタシは日本人が密教の教えを学ぶことによい顔をしなかった。しかし、宏一先生の世話係についていたゴソの弟ゲツォ(本名dge legs phun tshogsの愛称)が、宏一の希望を管長であるゴソにあげたため、ゴソは「チベット人で秘密集会タントラを学びたい人はたくさんいるが、日本人は宏一一人である。まあよいではないか」と鶴の一声で秘密集会タントラの学習を許可したのである。1990年にギュメ大僧院が無事落慶した際の僧院長もゴソ・リンポチェであった。つまり、ゴソ・リンポチェは平岡父子とギュメを結びつけた重要な存在である。
***。
 ***このあたりの経緯は拙著『ダライ・ラマと転生』を参照ください

 ゲルク派の僧のポストには任期があり任期を終えると出身僧院に戻る。ゴソ・リンポチェもギュメ管長の座を降りた後はセラ大僧院に戻り、平岡父子とゴソの交流は以後30年間途絶えていた。それが、現在ゴソ・リンポチェがチャンツェ法王をつとめているため、この記念式典で父子は30年ぶりにギュメで再会することとなった。宏一先生が秘密集会タントラを学ぶ手助けをしてくれたあのゲツォもゴソ・リンポチェの側近として随行していたので、宏一先生は「とにかく一言だけでもお礼をいわなあかん」とゲツォの部屋をたずねた。ほぼ同世代の二人は30年ぶりにギュメで一時間半旧交を温めることになったのである。

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 ゲツォは現在55才になっており、2005年に博士号(ゲシェ)をとり、ゴソ・リンポチェのやりてのおつき(シャプチ)としてゴソの海外ツアーについて諸事事務・通訳をつとめるうちに、中国語、英語とフランス語に堪能になっていた。ゲツォによると、「今一番不安をもっているのはインドのチベット難民だ。ダライ・ラマがご存命のうちはまだしも、未来はどのような扱いをうけるか分からない」とのことで、ゴソ・リンポチェはすでに台湾国籍をとっており、彼もネパール人の夫婦と養子縁組をしてネパール市民権をとり、ネパールにゴソの僧院をたてたという。とにかくパワフル。

 600周年記念式典は、30年前にギュメ本堂が再建された際のメンバーを不思議にギュメに集め、再会させたのである。バリ不思議。

 さて、それでは600年式典の様子を、丸の内でランチいただきながら宏一先生から聴いた話と資料に基づいてレポートする(丸の内オサレでびびった)。
 
 600周年記念式典はダライラマ14世のご真影とシェーラプセンゲ縁の宝物が入場することにより始まった。写真の一番先頭にいる僧が手にもつ細長い経帙がツォンカパがシェーラプセンゲに託したくだんの四巻本である。
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「600年前のものにしちゃ妙に新しい感じですね。それに四巻本というのに一帙ですね。ホンモノですか?」
平岡センセ「「いつもこの一帙です。いくらなんでもホンモノじゃないでしょうという説と、いやホンモノだという二つの説があります。次に黄色いカターをかけた厨子に収められているのは、ツォンカパがシェーラプセンゲに授けた秘密集会尊の仏像です。」

「ホンモノですか?」
平岡センセ「1959年にギュメ寺の僧侶が亡命した際、幸いホンモノを持ってでられたのですが、ダライラマ法王に献上したので今ダラムサラにあります。これは法王が代わりに下賜された秘密集会尊像です」
「ホンモノがあるなら法王から今回の儀式用にお借りしてくればいいのに。」

平岡センセ「・・・・。次の青いカターがかかった厨子は、シェーラプセンゲが比丘になった時、ツォンカバが彼に与えた釈迦牟尼仏像でこれはホンモノだと言われています」

 これらシェーラプセンゲゆかりの経典や仏像が、ゲルク派の位階のトップのガンデン大僧院の座主の前のテーブルにおかれる。すると、みなでツォンカパを称える「全世界の主に捧げる歌」(dpal ldan sa gsum ma)を斉唱する。

 ついでこれら経帙と仏像はガンデン座主から当代のギュメの僧院長へと授けられる。ガンデン座主はツォンカパの死後、ゲルク派の長となったため、いわばツォンカパの代理人である。歴代ギュメの座主はシェーラプセンゲの座を継いでいるわけだから、この所作はツォンカパがシェーラプセンゲに秘密集会タントラの法を授けた故事を再現したものであることがわかる。感動的な再演である。続いて、シェーラプセンゲ賛歌が斉唱される。

そしてスピーチ。式次第を訳すとこんな感じ。

現ギュメ僧院長(blo bzang dbang ‘dus)による儀式の説明(5分)
博士ヨンテンによるシェーラプセンゲの生涯を略述(5分)
チュンペートゥプテン閣下のお話(5分)
日本からこのギュメ僧院を支援してくれている施主閣下平岡英信先生のお話(5分)
 チャンツェ法王(ngag dbang gsung rab)閣下、お話。(10分)
 シャルツェ法王 閣下、お話。(10分)
最後にメインゲストのガンデン座主 (10分)と、来賓であるサキャ派座主のお話(10分)
で開会式が終わる。

 昼ご飯をはさんで午後1:30からこの儀式の本体である、エリート僧21人によるディベートがはじまる。
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写真は何回目かのディベートで勝者が顕彰されるシーン。真ん中にすわっているのはガンデン座主、その座のふもとで手を合わせている三人が優勝者。ガンデン座主の両側の高座にはチャンツェ法王であるゴソ・リンポチェとシャルツェ法王が座っている。ゲルクはの位階がよく分かる写真である。

日本で歌や舞を神に奉納するように、ゲルク派では秀才の僧侶によってディベートをおこなわせ、その勝者を顕彰することで、仏教の興隆を祈願する。この写真はディベートの風景。挑戦者が座ってマイクの前にいる僧である。

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 ちなみに初日の夕方、宏一先生はチベット語で20分、「日本仏教ととくに密教について」という演題で講演した。そこでは、聖徳太子の言葉に帰せられる「世間虚仮 唯仏是真」、十七条の憲法などを紹介し、日本の仏教の始まりを述べ、密教については、弘法大師空海が唐にわたって中国人である恵果阿闍梨からインド直輸入の密教を授かったこと。弘法大師は高野山で「入定」し、現在も瞑想しているとされるが、これはチベットの死の瞑想トゥクダム(thug dam)と同じである、と述べ、

 「日本の仏教にも仏になるための五相成身観が説かれているが、その内容はあいまいで、ひょっとすると特別な口伝があったのかもしれないが、現在は詳細は分からなくなっている。意識が死に際してどういうふうに悟りの意識につながるかはやはり秘密集会タントラを学ばなければ分からない」と600周年記念にふさわしくツォンカパの入定と秘密集会タントラを言祝いでしめた。

  この後、宏一先生はガンデン大僧院に向かい、ガワン先生の生まれ変わりであるヤンシーの成長を確認に。ヤンシーは優秀で『入中論』を覚えたとのことで、教育係も立派な方なのできっと優秀な子に育つとのこと。それからシンガポール経由で帰国する中体調を崩し、日本に帰って三日間寝込んだとのこと。お疲れ様でした。
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DATE: 2019/07/28(日)   CATEGORY: 未分類
パリで国際チベット学会 ②強烈な欧米人研究者列伝
■1979年開催の第一回国際チベット学会

今年は国際チベット学会(IATS)が創立40周年を迎えた。開会式ではオスロ大学のクヴァルネ教授(Per Kværne)が、1979年の第一回国際チベット学会の集合写真を映し出して思い出話をした。それによると、はじまりは、1977年のこと、マイケル・アリスとクヴァルネが二人でワインを飲みながら、「若いチベット研究者がジャンル・国籍関係なしで交流・発表できる場を作ろう」とこの学会を構想し、SNSのない時代対面で一人一人に構想を伝えて13人を集めて計画を始動した。
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そしていよいよマイケル・アリスがホストとなって第一回IATSが、オックスフォード大学で開催された。賓客としてはチベット最後の日々を目撃したチベット学者ヒュー・リチャードソン(1905-2000)を迎え、55人が集まり、今と同じく会費なし、発表言語も自由のゆるい会であった。本会は開催される度に規模が大きくなり、今年は20ヵ国以上600人が発表を行った。

 国際チベット学会の発起人となったマイケル・アリスはすでに故人である。今回の会はチベット史家のエリオット・スパーリンクが死んで最初の国際チベット学会でもあった(写真の前列中央)。この二人は人権活動家として知られ、強烈な生涯を送っている。本エントリーでは彼ら二人の人生をしのびつつ、チベットを研究するとこうなる人って結構いるんだよね的な話をしたいと思う。

■IATSの発起人マイケル・アリス(1946-1999)の激動の生涯

 故マイケル・アリスはチベットの研究者であるばかりではなく、ビルマ建国の父アウンサン将軍のお嬢さんでビルマ民主化の指導者であるアウンサン・スーチーさんの夫である。

 スーチーさんのお父さんは彼女が二歳の時に政敵に暗殺され、お母さんは独立ビルマの大使としてインドに赴任したため、スーチーさんは15才から海外暮らしとなる。1962年、ネウィン将軍のクーデターによりビルマは軍事政権に舵を切り、経済の停滞がはじまった。スーチーさんは1964-67年にはオックスフォード大学のセント・ヒューズ・カレッジ (St. Hugh's College) に留学し、卒業後はニューヨークの国連事務局行政財政委員会で書記官補を勤めた。折りしも、国連事務総長はビルマ人のウ・タントであった。

 一方のマイケル・アリスはブータン王家の英語教師の募集に応じて、1967〜73 年、ブータン図書館に勤務していた。1971年、ブータンにきたスーチーにマイケルがプロポーズをし、二人は結婚した。結婚に際してスーチーさんは旧宗主国の男性と結婚することにより、自分のビルマに対する愛をビルマ人が疑わないかとずいぶん悩んだという。しかし二人は仲が良く二人の男の子にも恵まれ、マイケル・アリスがオックスフォードで第一回国際チベット学会を開催したのは次男キムがうまれた二年後のことである。
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 二人の幸せな生活は1988年、スーチーさんの母が発作で倒れたことによって終わりを告げる。スーチーさんが母の看病のためにビルマに帰国したところ、ラングーンは民主化運動のうねりの中にあり、民主化勢力はスーチーさんに運動への支援を求めた。スーチーさんは父が政治闘争の中で暗殺されたこともあり、政治に関与することに当初逡巡したが、結局民主化運動の先頭に立つ。建国の父の娘であり、美人で弁のたつスーチーさんが演説すると、国民は熱狂した。脅威を感じた軍事政権は「民主主義はイギリス人の思想であり、彼女はずっと外国にすみ外国人と結婚した売国奴である」と宣伝し、スーチーさんを意図的に『アリス夫人」と呼び、建国の父アウンサン将軍とのつながりを否定しようとした。

 1988年8月8日、後に8888 蜂起と呼ばれるビルマ全土に広がった民主化の動きは、軍事政権によってつぶされ数千人が命をおとした。ビルマ版天安門事件である。翌、1989年、東欧の社会主義政権がドミノ式に倒れ、ダライラマ14世がノーベル平和賞受賞した年、軍事政権はいっそう硬化し、スーチーさんは軟禁され、民主化を要求した学生たちも逮捕された。逮捕された学生たちが監獄で拷問にあうことを懸念したスーチーは、自分を監獄に送るように要求し、軟禁中の自宅でハンガーストライキを始めた。

マイケル・アリスと二人の息子はビルマに飛び、ハンストするスーチーさんにつきそった。スーチーさんに何かあれば国際社会もビルマの国民も軍政を非難することは明白であったため、軍政は監獄内の学生の待遇改善を約した。スーチーさんはハンストを停止し、マイケル・アリスと二人の息子はイギリスに戻った。

 翌、1990年5月27に スーチーさんが軟禁中であるにもかかわらず、彼女の率いるNLDは総選挙で地滑り的勝利を得た。ここで軍事政権は予想外の結果に狼狽し選挙の結果をなかったことにし(笑)、スーチーさんの二人の息子にはビルマのビザがおりなくなり、イギリスの家族とスーチーさんの間の連絡は途絶えるようになった。軍事政権は「夫と息子に会いたいならイギリスへ帰れ」との無言の圧力をかけてきたのである。

 翌、1991年のノーベル平和賞はマイケル・アリスの奔走により、スーチーさんに贈られた。受賞式にはマイケル・アリスと二人の息子がかわりに出席し、スーチーさんがそれでもラジオくらいは聴けているかも知れない、もしそうなら息子の声を聴きたいだろうと、二人の息子がノーベルスピーチを行った。
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 1993年 ダライラマ14世を含む7人のノーベル平和賞受賞者がスーチーの解放を要求してビルマへの入国を試みるも拒否される。7人はビルマ難民キャンプを訪れ支援を表明。そのままジュネーブにとび国連人権委員会アピールを行った。
 1997年 マイケル・アリスが前立腺ガンと診断され、国連のコフィ・アナン事務総長、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、アメリカ政府がマイケル・アリスのビザ発給をビルマ政府に申請したが軍政は認めず、再会が叶わないまま1999年3月27日、マイケル・アリスは享年53才で激動の人生の幕を閉じた。

 結局、スーチーさんの自由が実現するのは、2012年のことであった。国際的に孤立したビルマにおいて中国の影響力がまし続けたことに危機感を感じていた軍事政権は、この年民主化勢力に[形だけの]譲歩をはじめたのである。やっと出入国の自由をえたスーチーさんは20年ぶりのノーベルスピーチをオスロで行い、ダライラマ14世との会合も果たした。

 現在スーチーさんはロヒンギャ難民問題で国際的な非難をあびているが、軍人議員が優勢な議会において、ビルマの人々のほとんどはロヒンギャをビルマ人と認めていないという状況下で、スーチーさん一人を責めるのはあまりにも酷であると思う。
 
 人権活動家のチベット史家 エリオット・スパーリング(1951-2017)

 開会式では前回の学会の開催以後になくなったメンバーに対して黙祷も行われた。その面々の中でも圧倒的な不在感をかもしだしていたのは前述したエリオット・スパーリングであった。彼はどこにいても目立つ人であった。学者としての業績はむろんのこと、黒いシャツ、黒いサングラスというアレなファッションに、忌憚ない発言、そのうえみごとな×ゲ、彼はチベット支援のいたるところに顔を出していた。
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 彼の人権を守るための活動はチベット人に留まらずウイグル人にも及ぶ。2014年、中国当局に逮捕されたウイグル人の経済学者イリハム・トフティ氏を擁護したことから、中国に入国禁止となった。その三年後、インディアナ大学を引退したエリオットはニューヨークに居を定め、チベット人支援に本腰をいれようとしていた矢先、66才の若さで急死したのである。一人暮らしのエリオットの死を最初にみつけたのはイリハム・トフティ氏の娘であった。

 2014年7月7日に、エリオットが中国への入国を拒否されアメリカに送還された時、彼はバッテンがつけられた自分のビザをニューズ・ウィークに公開し、「私はこのビザを中国共産党人権賞と呼んでいます」といい、「[北京政府の入国禁止の]ブラックリストからはずれる手段があるのかはわからないが、私は自分の行動を変える理由をみいだせない。」「私は声高に異議を唱えたことは認めるが、それ以外、何も悪いことはしていない。そして、ビザを得るために北京の権威主義に従う意志もない」と言い放った記事をみて、「ああ、彼、絶好調だな」と思ってたらその二年後急死してしまった。エリオットに捧げられたパネルは、みなが最後に彼との思い出を語っていてほろりとした。
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 マイケル・アリスにしろ、エリオット・スパーリングにせよ、象牙の塔の中にこもることなく、あえて厳しい現実に関与し、ビルマや中国の民主化に挺身したことは、特筆すべきことであろう。

 思えば第一回国際チベット学会に参加した「若い」研究者たちは、みな1959年にチベットの亡国を目の当たりにし、難民となった若き日のダライ・ラマの言動と行動に感化され、ともに年を重ねていった人々である。思えばダライラマ14世も、静かな場所で仏教の研究と修行にうちこみたい人であったが、実際はチベット人のため、仏教のため、世界中の救いを求めている人々のために、現実世界へ関与する人生を歩むことになった。それを考える時、ダライラマの人生がチベット研究者の人生にも同期したと解釈することもできよう。

 国際チベット学会が巨大化し、当初のような情報交換、親睦の機能が低下してきたため、最近は若手チベット学者会議が、本会議の間に開かれ、国境をこえた交流を深めている。かれらは団塊の世代の子供世代なので、数も多く一つの勢力となっている。願わくば彼らも親世代同様、チベット学や研究対象であるチベット文化本体が消滅していかないようにそれぞれのジャンルで業績をだしてほしいと思う。
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DATE: 2019/07/15(月)   CATEGORY: 未分類
パリで国際チベット学会 ①トラブル編

■ついに私も大学者

欧米の学会は時差がきつくて不眠症が悪化するので避けてきたが、今回は英語の本を出版して宣伝しなければいけないし、学会が結成されて40周年ということもあり、パリで行われる国際チベット学会に参加することとした。
直前まで発表の準備をし、もろもろに忙殺されていたため、旅行の細かい準備までできずとりあえず地球の歩き方の地図部分だけ破り取って持って出発。

 空港について保安検査場でパスポートをとりだしてふっとめくってみると、なんかビザがたくさんはってある。「去年更新したばかりなのに多くね? 」よぎる不安。よく見ると私が手にしていたのは今年の1月に失効した古いパスポートであった。

 その昔、江上波夫先生が海外にでられた時、周りの人が「先生パスポートは?」と聞くと、「パスポートとは何だ」と答えたというレジェンドが頭をよぎる。私もついに江上波夫大先生と同クラスの大学者になったのか

 去年ロシアに行くのに、ロシアは入国時点で半年パスポートの期限が残ってなければいけないので、まだ半年以上期限が残っているのに新しいパスポートを作った。まだ期限が残っている古いパスポートには穴が開けられなかったのでそれで取り間違えたのである。てか同じ場所に保管すな、自分。
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「このまま家に帰って一週間寝て暮らそう」と一瞬思うが、パネルを主宰しているのでそうもいかず、次の日の便に振り替えてもらう。ちなみに、チェアマンを頼んでいたMichael van Praag教授がその朝、怪我で学会キャンセルとか伝えてきてるので、始まる前からこのパネルは呪われていた
 
 翌日、11時間の飛行の後、シャルル・ド・ゴール空港につく。ターミナル1は建設された70年代はアバンギャルドだったかもしれないが、今見ると社会主義ソ連風というか、ペテルスブルグの地下鉄風というか、タルコフスキー風というか、暗いしょぼい怖い建物。出口にでても案内表示がなく非常に不親切。あとで聞くとこのターミナル使った人はみな迷いまくっていた。

■北斗の拳の世界

空港から市内にでる電車は治安の悪い地域を通るので、強盗が多発している。在フランス日本大使館情報によるとギャングは複数人のってきて一人がとびこんでバッグをうばい、もうひとりがドアをしめて逃走を手伝い、バッグを放さないとホームまで引きずり出される、welcome to this crazy world ! な北斗の拳の世界である。そこでタクシーにのるが、あとで聞くとタクシーも渋滞で停車したところで路肩に潜んでいるギャングが窓ガラスを割ってバッグをとり、運転手も助けてくれないというので、アジア系女性の一人旅に安息の地はない

学会が指定したホテルはパリのはずれの13区にあり、とにかく大人数を安くとめることを優先したようで、会場から遠く、交通の便も悪く、サービスも悪いと三拍子揃ったすごいホテル(帰国の際空港まで一緒したカナダ人教授も「私の知る限り最低のホテルだ」と言い放っていた)。このホテル、初日から盗難が二件、発生して、2000ユーロとコンピューターとパスポートが取られたとかで、警察もきていた。どんだけセキュリティが甘いんだこのホテル。

しかし、パリも国際学会もはじめてのWくんは脳内で美化されたパリに酔っており、

「空港から市内にくる電車の中でいろいろな人種の人が乗り降りするのをみて、これが人権先進国の姿なんだ、とワクワクしました」という。

「この子は早く現実をみた方がいい」と思っていたら、その機会は意外に早くやってきた。

発表の終わった翌日、ちょっと一息とWくん市内で観光とルーブル美術館の前を歩いていたら、私とWくんはヒジャーブをかぶったイスラム系のローティーンの若い女の子に声をかけられた。彼らは、子供のための署名を集めているので署名してとしつこくつきまとう。署名をすると、今度は寄付をしろという。この時点で何かおかしいと思い、私はふりきったが、オメデタイWくんは同情して六ユーロだした(写真は無残な姿を晒すノートルダム大聖堂。屋根がおちてカジモドはもう住めない)。
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すると、その中東系の女の子はさらに電話番号を書けといってきて、気づくと二人の女の子も加わり総計三人に囲まれてまさに財布がとられようとしていた。つまり、募金は財布をださせるための手口で、署名で気を取られているすきに他の二人が財布をぬくシステムだったのである。さすがにWくんは途中で気づいて逃げたが、「人の善意を利用するなんてひでえ」とウツロな目でつぶやていた。

しかし、大柄なアフリカ系の男に張り倒されて財布とられたなら同情するが、イスラム系のローティーンの女の子三人にほだされて財布をとられそうになったのは笑い話にくくっていいと思う。

「目を覚ませ。これがパリだ! 」と私は勝ち誇ったのであった(何に勝つんだよ)。


■松岡修造がいるみたいな暑さ

今年の日本は梅雨空が続いて寒いがパリは連日めっちゃ暑く、みな半ズボン、ノースリーブ。二週前は熱波でヨーロッパで人が死にまくっており、私がいた間も連日快晴。一日のうちほんの数時間風がふくだけでほぼ無風。会場のinalcoは冷房がはいっているのが一階の講堂だけで、あとは蒸し風呂。ただ窓をあける以外の涼み方がないので人が部屋にはいってくるととにかくムッレムレ。

パリは緯度がたかいので夜は23時まで明るく朝は4時から明るいから、涼しくなる暇がない。結果、西日があたる部屋、中庭に面して風がまったく通らない部屋ははっきりいって地獄。汗まみれ。私達のパネルの部屋は西に向いている上に中庭に向いていたので、うだった。ホテは遠いからシャワーをあびに気軽にも戻れない。あまりに暑いので松岡修造がパリにいるのかと思い、検索したが、修造は長野にいた。パリの暑さは普通に地球温暖化が原因。

暑いとくればとすべてが臭い始める。もともとパリはネズミの都。世界遺産とかで古いものは古いままだし、中世から下水があるからネズミは繁殖しほうだい。Wくんは学会初日にトラムの駅まで歩く途中巨大なネズミの死骸をふみかけてショックで座り込んでいた(写真はひと目をはばからないパリの恋人たち)。
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そう花の都パリはとっても不衛生。トイレをがまんできない観光客や浮浪者が物陰で(地下鉄通路とか、公園の茂みとか、観光地の影になった場所)あたりかまわずシーをするので、折からの暑さで臭う臭う。シテ島におりる階段なんか17世紀からの立ちションの匂いが染み付いており、オエッとくる素敵な空間。
 恋人たちの都というより、し尿の都だね♥️

■パリ観光

というわけで、観光する気はもともとナッシングであったが、2019年4月15日に焼けたばっかりのノートルダムと、ダライラマの外交官ドルジエフ関連の史跡だけはちょっとだけは見に行いった。世界最大の観光都市パリは、川が流れていて、橋がかかっていて、お土産物屋が軒を連ねていて、観光客しかいなくて、お店は一見さんの観光客から全力でぼったくろうとしている店ばかりだから国際版の嵐山。
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こうエンドレスに毒づいていたらK先生がパリの人も同じことをいっていると賛同?してくれた。

ここでネガティブな方へのワンポイント・アドバイスです。行きの飛行機で見た「ミッションインポッシブルフォールアウト」ではトム・クルーズがさんざんパリの町をバイクで走り回っていました。なので、北斗の拳がきついという方はこれを見ればパリにこなくてすみますよ。

後編は40周年を迎えたチベット学会のレポート。
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DATE: 2019/06/17(月)   CATEGORY: 未分類
サカダワの食卓(手抜き)
チベットでは仏様が生まれ、覚りを開かれ、亡くなられた月はいずれもチベット暦4月であり、この聖なる月に積まれた善行は他の月に比べてン万倍になると言われているため、菜食したり、聖地を巡礼をしたり、布施をしたりで盛り上がる季節である。

 今年は西暦6月4日よりサカダワ月に入った。6月6日は先代の二回目の命日であるため、4日からつきあいの外食以外はベジにしている。ただし、ダシまでは徹底していないのでへたれベジである。料理に興味のない自分は、この期間、ベジ用のカレーとか、ラーメンのレトルト食品に、ゆば、豆腐、納豆など大豆製品を食べているだけなので、食事の準備が異様に楽である。バンザイ。
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みんなもやろう! 楽だよベジ。
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 サカダワにはいって三日目に先代の命日がきた(二年目)。今年の命日は去年のような不思議なこともなく、淡々と過ぎていった。卒業生のTくんが命日のお花を届けてくれたのでお墓にお供えし、先代と過ごした過去の日々を思う。ちなみに、2世は自立心が強く、指よりも文字通り頭に乗る、頭・肩のりインコになりつつある。何とかせねばホトトギス。
三回忌

そして、16日の本日は満月。サカダワの満月の日は一番功徳が増える日なので、この日は例年、NPO、NGOへの寄付をする。

 人間の活動によって生じた地球温暖化は異常な夏の暑さと豪雨・台風被害をもたらしているばかりか、ものすごい速さで地球上の生物を絶滅においやっている(BBC5月7日の記事)。なので、もともとWWFの会員なので寄付がラクっちゅーことでWWFの"南米の海をまもるための「イルカが教えてくれること」プロジェクトに寄付。そして、これも毎年恒例であるが日本野鳥の会に「野鳥の密猟や違法な販売を防止し、輸入の禁止を求める活動」に寄付。希少なインコを密林から誘拐してくるな!

 ちなみに、ダライラマ法王は、チャールズ皇太子が運営する熱帯雨林保護プロジェクトのCMにでていることが示すように、人間の活動が地球を破壊しつつあることに早くから警鐘をならし、COP24の会議が行われるたびに参加者にメッセージを発信している。

 ここで印象に残っているダライ・ラマの環境発言をいくつか。同じ文脈で同じ内容の発言を何度もされているので覚えたことなので、正確なソースは提示しませんが、大たいこんなところだと思います。

「私達には地球しかないのです。地球がだめになったからよそに住むとかできないのです。だから、みなで協力して地球の環境を保全していかねばなりません。」

「人間が作り出した問題は人間が解決できるはずです。」

「社会のリーダーたちは浪費をみせびらかすのではなく、率先して質素な生活を送り、みなの手本になるべきです。」

「私たちは自分の利益になると思い込んでいるものを、他人のことを意に介さずにがむしゃらに求め続け、他人ばかりでなく自分自身をも傷つけてしまうことになります。この事実は今世紀に入ってよりはっきりとしてきました。たとえば、核戦争を今起こしたら、それはそのまま自殺行為です。あるいは、目先の利益を求めて大気や海を汚染すれば、それは私たちの生存の基盤を破壊していることになります。個人や国家の相互依存(縁起)の度合いが増加しつつある現在、私が「普遍的責任感」(増上意楽)と呼ぶものを育てていく他、残された道はありません。」


最新のダライ・ラマの環境問題へのコミットメントを示した記事をいかにはっときます。

ダライ・ラマ法王、環境活動家グレタ・トゥーンベリさんに支援を表明
2019年5月31日

インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

ダライ・ラマ法王は、わずか16歳のスウェーデンの環境活動家の少女、グレタ・トゥーンベリさんに書簡を送り、私たち全員が気候変動の危機に直面していることに、更なる関心を高めるべく懸命に取り組んでいることへ深い感謝の念を表明された。

「貴方が、若者たちに共に声をあげるよう呼びかけている様子を見て、私は大変勇気づけられました。貴方は、気候変動についての科学的合意と対策の緊急性に対して人々を目覚めさせているのです」

「私もまた、環境保護を熱烈に支持する者です。ご存知のように、われわれ人間は地球を破壊する力を有する唯一の生物です。しかしながら、地球を破壊する力があるならば、地球を守る力もまたあるはずなのです」

「貴方が、われわれの唯一の棲み家である地球を守ることの緊急性に世界中の人々の目を開いたことは、じつに勇気づけられることです。同時にあなたは、あなたと同世代のきわめて多くの兄弟姉妹に対しても、こうした運動に参加する勇気を与えているのです」

法王は最後に、トゥーンベリさんの取り組みに対する支援を表明されるとともに、祈りを捧げられた。
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