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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/12/12(木)   CATEGORY: 未分類
父祖の地徳島で講演
11月の最後の二日間徳島にいった。空路徳島に到着し、四国大学の言語文化研究所で講演を行い、終了後、四国大学の先生たちとの懇親会に参加。翌日は鳥居龍蔵記念館の学芸員さんとの相談のあと、四国大学書道文化ギャラリーで行われている谷内清巌展を参観し、空路東京へ戻った。例によって弾丸ツアー。
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 講演に呼んでくださった太田剛教授は六年前からのおつきあい。
 六年前、突然「岡田鴨里(私の六代前のご先祖)のお墓の拓本をとっていたら、あなたに会いたがっていました。半年以内に墓参に来なさい」というメールがきて、墓地の場所すら知らなかった私に先祖の墓参を促してきた。

 このメールをみて「やべぇ」と思いつつも添付されている心霊写真をみて怖くなり、結局半年後、淡路に飛び先祖の墓に手を合わせた。お墓は荒れ果てていた。太田先生はそのあと、淡路市が管理している先祖の生家につれていって下さった。ぶっちゃけ廃墟であった。市町村は文化財を保護するものだと思っていたのでこれは衝撃だった。

 その後、先祖の墓をまもってくださっている栄福寺さまより得た情報をたぐり、神奈川県立歴史博物館での岡田鴨里資料群をみつけだし、その資料群をOくんをはじめとする院生の力をかりてデジタル化した。その間、鴨里のお墓を守ってくだっている栄福寺のご住職が好意で墓石群を整備してくださり、かつての景観をとりもどして今は地域をみおろす丘の上に整然と並んでいる。いずれ蜂須賀桜を移植して桜の丘にするのだという。
 
残る問題は淡路市が廃墟にしてしまったご先祖の生家。この廃墟の存在を知ってから、私は淡路市の教育長にお願いしたり、地元を選挙区にする自民党議員に直訴したりしたが、彼等は一ミリも動かなかった。今回の旅はこれを何とかするための会合も含んでいた。

 実は、今年の9月5日淡路市の教育長と教育部長が私の研究室に現れ、鴨里の生家の遺構を取り壊すと通達してきた。この数年間私がいろいろ表明してきた意思は全部無視と彼等は決めたのである。さすがに向こうもまずいと思ったのか、「鴨里の命日を教えてください、顕彰活動しますから」というので調べたら、何とその日(9月の5日)だった。いかに鈍い私でもこれは取り壊しをやめろというあの世からのメッセージであることは分かった。ご先祖、絶対、成仏していない。

 行政が一度きめたことを覆すことは難しい。まして東京で一人で反対を申し立てても、お先はまっ暗である。普段の私は勝算のない行動は絶対しないが、この時は祟りが怖くて延髄反応で反対の意を表明した。でもそれは重い荷物をしょって目的地も見えないまま歩かされているような旅の始まりであった。

 しかし、この前にはすでに旅は始まっていて、グラウンドゼロに太田先生がいる。今回太田先生のお招きで四国に行くことが決まった時、とにかく先生に一言、恨み言を言いたかった。しかし、言ってみたら「私のせいだっていうんですよ〜」と奥さんにむかって笑っていってて、ちょっとアレだった。

初日

講演では、太田先生のリクエストにより、半分はご先祖岡田鴨里のお話しをし、残り半分はチベット文化についてお話しした。↓
 
 https://blog.goo.ne.jp/pjota12345/e/4437e7a7bbcb8807f424975958b78b0f

その後、淡路島からきてくださった方たちと個別に意見交換をし、その後、四国大学の文学部の先生方との懇親会にいった。S先生(徳島城博物館に30年間つとめた後に四国大学にこられた言語文化研究所の所長さん)の隣に座った。

S先生「私は博物館につとめていた間、ずっとあなたのご先祖が記した蜂須賀家記を読んでいました(蜂須賀家は徳島藩の藩主の家系)。」

私「神奈川県立歴史博物館に所蔵されている鴨里の資料群の中には、蜂須賀家記の稿本と、これを書くために集めた資料群が含まれているんですけど、ご存じですよね」

S先生「知りませんでした。私は神奈川県立博物館には二人も友達がいるんですよ。私が蜂須賀家の歴史を研究しているのを知っているのに、誰も教えてくれませんでした」

私「先生を友達と思ってないんじゃないんですか。うそうそ、この資料を受け入れた学芸員の方によると博物館には閲覧機能ないから閲覧したい人がきても困るという理由から、資料のあることを公表していなかったんです。それにしても中にいる研究員が知らないというのもひどい話。この資料、博物館が一ミリも動かないから、院生Oくんの力を借りてデジタル化したんですよ。博物館が貸してくれたのは電源だけ。」

S先生「そのデジタルデータ欲しいです」

私「どんどん使ってくださーい。そのためにデジタル化したんです」

二日目

翌日、太田先生は鳥居龍蔵記念館にまで車で送ってくださる。徳島県の博物館・美術館は市内からかなりはなれた文化の森という地域にあり、公共交通機関がほとんどないので助かった(田舎は車社会)。
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鳥居龍蔵は徳島出身の人類学者で日本人の起源を求めて、千島、モンゴル、中国南西部の民族調査を行い、東大助教授までいった。日露戦争後、内モンゴルのハラチン部の王府で日本語の教師も行っており、大隈重信に依頼され現地からモンゴル人留学生を選定して派遣している。そんなこんなで、鳥居龍蔵のモンゴル滞在期の資料がないかをさがしにいったのだが、まだ資料の整理がついていないので、あるかないかも分からない状態だという。
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 しかし、一冊だけモンゴル語の本をだしてこられたので、「あっ、これ数学の本ですよ」というと、えらく感激された。なので、「モンゴル関係で面白いものがでてきたらいつでもご連絡ください」としつこく念を押して記念館を去る。
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 それから、谷口清巌展に向かうが、その途中、私が眉山にいったことがないといったら、太田先生は眉山をまわるルートで徳島市内に向かってくださった。

 その日は快晴で昨日から急に寒くなった結果、紅葉はメリハリのきいた色になって青空を背景に美しい。眉山の頂上からは徳島市内と吉野川と紀伊半島が一望できた。頂上には第二次世界大戦末期、ビルマで命をおとした人々の鎮魂のためにビルマ式仏塔(パゴダ)がたっている。当初はお坊さんが常駐していたが、支える会員の減少により今は徳島仏教会が管理している。

 眉山をおりると、なぜか車が渋滞して動かない。太田先生は「こんな時間にこのあたりが混むなんてへんだなあ」とおっしゃていたが、しばらくして動き出すと、理由が分かった。徳島市内から黒煙があがっている。火事である。東京でもしょっちゅう消防車は出動しているが、大体ボヤのうちにけしとめられ、こんなベタに煙のあがる火事は久しぶりにみた。なので写真にとってツイッターにあげた。
 そして、どこが燃えているんだろうとツイッターを検索するが何もヒットしない。
 しばらくして徳島 火事でまとめサイトがあがったが、私の投稿が一番上・・・。

 徳島、ツイッター人口少なっ!

東京で火事があったら、同時多発的にみなが投稿するから大体どこが火元でどんな被害かすぐわかるのに、私が被害の全容をしったのは翌日の徳島新聞であった。

教訓: ツイッターの速報性はある程度人口が密集していないと機能しない。

 火事の煙を横目に見つつ、書道文化館一階の谷内清巌展につく。谷内清巌は淡路島に生を受け、出家する前の姓は倉内という。高野山真言宗で出家し、19才で谷内家を相続した後、大阪で泊園書院の学頭をつとめるなど秀才ぶりを発揮した後、京都で出世し、空海以来の名刹神護寺の貫首や大覚寺の宗務総長をつとめた。書家としても名高いため、今回彼の書を集めた展覧会が開かれ、同じく淡路の偉人つながりで私が講演に呼ばれたわけ(淡路島は江戸時代は徳島藩)。

 会場には倉内家一門が集結していた。一門の方からの聞き取りによると、若き日の清巌は石濱家の女性と結婚して男児を授かった後離婚しており、たまにその男児が清巌さんにあいに上京していたという。なぜこのことが知られていないのかといえば、後に高僧として知られるようになった清巌さんは出世するまえの俗事は表にださなくなったからではないかとのこと。

 鴨里の曾孫を娶った石濱鐵郎と清巌はほぼ同世代、明治期の石濱家の戸籍を確認してみると、鐵郎には二人の姉がいていずれも離婚歴が記されていたが、不思議なことに両方とも明治33年に出戻っている。そして、破綻した結婚相手の名前は戸籍に記されている限りでは倉内姓ではなかった。何分明治期なのでどこまで戸籍を信用していいか分からないが、一族がそういうのだから、やはり鐵郎の姉のどちらかが清巌の結婚相手だったのだろう。
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 会場で手にした資料をみると、清巌は22才までは淡路島で漢学を学んでおり、23才で大阪にでて泊園書院で学び、27才で再び淡路にもどり教員をはじめ、31才から32才まで京都でまた教員をやり、33才〜37才まで岡田鴨里の生家のすぐ近くの多聞寺の住職をつとめている。30代後半からは京都で出世街道をばく進するので、石濱家の女性と結婚して子供をなしたのはおそらくは石濱家のあった洲本にいた22才以前、あるいは鴨里の生家近くで住職をしていた33才から37才までの間であろう。
 
 というわけで、今回の四国の旅でも再び、百年以上前の過去のご縁が発覚したのであった。太田先生とお会いするたびに百年以上前の人達の交友関係が明らかになるこの不思議さ。東京生まれの東京育ちの私がいつのまにか、淡路島や徳島に足繁く通うようになっているのも不思議な話である。

この六年間、思ってもいない人間関係が拡がり、歴史を継承する意味とか、偉人の顕彰とか、文化財の保護について、いろいろ勉強し考える契機となった。

 いずれ状況が落ち着いたら九月から今にいたるまで、私が巻き込まれてきた、ご先祖生家問題について明かせる範囲内でお話ししたいと思う。
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DATE: 2019/11/10(日)   CATEGORY: 未分類
空き巣被害にあって
 実は7月に空き巣に入られた。バリの学会から帰って時差ボケが残っていた私は、裏の離れで昼寝をして母屋に戻ってきたら、何か違和感。状差しに入っていた銀行の封筒類が机の上に出してある。出した覚えない。もしや? と思いつつ、玄関においてあったバックの中をみると、財布の中に入っていたお金がない。

 空き巣である(確定)。

 まさかと思った。
 だってうちすごい古いの。これまで向こう三軒両隣が空き巣はいってもうちだけは入らなかった。古い家なんでお金ないと思われているな、このままにしておけば金のかからんセキュリティだと自分の不精を正当化していたが、その自信が根底から崩れた。すぐに110番する。

生涯一度は救急車を呼ぶかもしれないが、110番通報はしないと思っていた。人生は何があるか分からない。

 警察署が近いため、警察の方はわりとすぐにかけつけてくれた。私が、事情を聞かれる間、鑑識の方が足跡採取などを始めた。

 足跡があるってことは、空き巣ヤロー、土足であがりやがったな(怒)! 

 落ち着いてよく見てみると、すべての部屋の引き出しが少しずつ開けられていた。タンスや机にお金入れるかよ。もっともキモかったのは若殿と花姫の部屋まで物色されていたこと。

 キモキモキモ。

とにかく二人が無事でよかった。犬なら喉笛にくらいついて撃退してくれただろうが、オカメインコは無事でいてくれればそれでよい。
 
 警察の方曰く「ここらあたりは中国人やコロンビア人の窃盗グループがよく荒らすんですよ。一時パソコンばかり盗んでいくやつらがいました」と云われてはっと気づく。

パソコンがない。そこいらを探すがない。ないないないない。私のMacががががが。

すぐにマックを追跡するが、電源がきられていて追跡できない。盗み馴れてんな(怒)。

 このマック、去年買ったもので、メモリ増設していたから軽く20万は超えていて、なおかつこないだ修理したばっかりで、9月しめきりの論文のための、読書メモやpdf論文があそこにしか入っていない 。パソコンは買い換えられるけどデータは取り替えがきかない。
 シリアル番号を警察の書類にかき、泥棒の指紋と区別するため私の十本の指の指紋をとられる。

私「これで私が身元不明の死体になった時にも身元が分かりますね」

警察「用途が犯人逮捕に限られているので、終わったら破棄されます」

私「じゃあ身元不明の死体にならないようにします」

 帰り際の警察の方の話では、実行犯はすぐ捕まるだろうとのこと。組織の場合、末端を捕まえても、盗品は戻って来ないと、暗にとられたものはかえってきませんよ、的なことを云われる。

 ここでみなさんに質問。

 私がパソコンを盗られたといった時、そこのあなた、やったのは某国のスパイだと思いませんでしたか? 正直に言いましょう。 私も一瞬そう疑いました。

 しかしすぐ、冷製パスタになって犯人像をプロファイリングした結果、日本人のドロボーだろうと結論。だって、某国のスパイが家中のひきだしを三センチずつ開けます? 何より笑ったのが、うちの下駄箱の上には、高崎駅名物ダルマ弁当のケースの中に財布からあふれた一円玉を投げ入れてあるのだが、それを盗ろうか盗るまいか迷って動かした形跡があった。

 ケース一杯でも一円だったら大したお金にならないことに途中で気づいて、もっていくのをやめた、そんな風情であった。ダルマもって考え込む某国のスパイなんていないだろ。

 そもそも論でいえば、私は某国がほしがるような情報もってない。パソコンも研究情報しかはいってない。
 
 しかし、私が空き巣にあったことを知った人はみな、「某国のスパイではないか」と延髄反応した。というわけで、私に何かあると真っ先に某国が疑われることがわかった(笑)。

 警察が帰ったあと、空き巣がパソコンの電源までもっていったことに気づき、怒りがMAXとなる。空き巣が触った場所、歩いた場所をすべてノロアウトで消毒した。人様のものをとるなんて、このクズ! クズ! とのろいながら。
 
それから一ヶ月半たった、9月6日、私は国立博物館で行われている三国志展をみているとケータイがなった。でると、何と空き巣が捕まったという。石造りの博物館は電波が悪いので、入り口にまででて電話をかけなおすと、空き巣は案の定、日本人で27才、警察の見立てでは組織のバックのないフリーの空き巣だという。

私「で私のMacは今どこに ?」

警察官「××交差点のゴミ箱に捨てたといっているんですが・・・・」

私「私の学者としての資産をゴミ扱い? (怒)」

警察官「と犯人はいってますが、これは嘘でネットで販売しているのではないかと疑っているので、裏付け捜査をしているので、連絡をまってください。余罪がたくさんあるので、たぶん檻の中に入ります。安心してください。」

私「盗まれたMacの代金とかお金とか空き巣に請求できるんですか」

警察官「我々は捕まえるだけで、そのあとは詳しくないんで、いずれ犯人の弁護士から連絡いくと思います」

 私が予想していた犯人像は日本人の盗癖のある高齢者であったが、実物は意外に若かった。27才ならドロボーするより普通に土木作業員とかまぐろの一本釣り漁船にのって働いた方がお金かせげるだろう。警察の方もいっていたが今時の鑑識は優秀だし、防犯カメラがつきまくっているから簡単に捕まるし、捕まったら前科もので、刑務所でたあとも就職先も限られるだろう。社会のルールに反して一瞬よい思いをしても、結局はコスパはものすごく悪いのだ。

 しかし、そのことに気づくような頭がないんだろうなあ。
 
 こうして犯人は捕まったものの一ヶ月以上たっても警察からも弁護士から一向に連絡はなく、これ窃盗だからいいけど、身内を殺されたりなど、もっとすごい被害にあってこんな放置されてたら、きっと傷つくよなと思いつつ、11月に入ったことだし、渋谷の捜査本部に電話をしてみた。

すると、パソコンは楽天に売りに出されたので、今、楽天からの返事待ちで、買った人間を特定するまで二〜三ヶ月かかるとのこと。

 楽天って盗品売っているのか?と一瞬思ったが、楽天フリマのラクマかもしれない。
 27才余罪ボロボロ空き巣くんは、組織がないのでフリマで盗品を売りさばいていたのか。
 というわけで、私のパソコンちゃんは戻ってくるかも知れない。9月提出の論文はもう不本意な内容ながらだしちゃったけど、Macがもどってくれれば少しは気分が晴れる。

 とかいっていた11月9日、資料を撮影するためにひさびさにデジタル・カメラが必要となり、探すがない。あったはずの場所にない。これは資料撮影のために購入したもので、ミラーレス一眼のLumix、今まで寺本婉雅将来のチベット医学の写本を撮影し、ご先祖岡田鴨里の資料群の一部を撮影するなど大活躍であった。

 それがない。空き巣がもっていったと結論せざるえなかった。警察に電話すると、また被害届けをとりにくるという。その際、いくらか値段をみつもってくれというので買った時の値段はすぐわかりますというと、それから五年たって今ならいくらで買うかという減価償却後の値段だという。

警察官「タダのものを探すのはちょっとということになりますから」

私「持ち主にとってはカメラもパソコンも古くなったらそのまま値段がさがっていくというものではない。かえってあがる。そもそも盗品がネットで販売できるのがおかしい。誰かの手にわたったらそいつは知らないで手に入れた「善意の第三者」ってことで、私に返す義務はないんだぞ(法学部出身のwくんに教わった笑)。
 パソコンに関しては私は盗まれた日にシリアルナンバーを銘記した被害届けをだしている。それを速やかに公開してネットで買い手が検索できるようにすれば、盗品を売り買いできなくなり、泥棒を殲滅できる。なぜそういう法律がないんだ」

警察官「法律を作るのは別の人なんで。刑事課にいってください」

たらい回しかよ

 全国の空き巣に告ぐ。
 もう私は家に現金は一銭も置いてない。パソコンも財布もちょっと席を離れる時でも必ず持ち歩くようにしている。なので、うちにはいっても無駄。

まっとうに働け!
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DATE: 2019/11/06(水)   CATEGORY: 未分類
[訃報] 護国寺の御前様遷化さる

 護国寺の御前様がさる10月28日に遷化された。
 護国寺様はチベット・フェスティバルを始めとしてチベットに関するイベントに何度も会場を提供して下さり、2008年に三度目のチベット蜂起があった時には、SNSでつながったサポーターたちが自発的に境内の大師堂にあつまって連日チベット人のためにキャンドルを捧げ祈るのを見守ってくださった。

 2011年に東日本大震災が起きた時に、ダライラマ14世が急遽来日され、犠牲者の49日法要を行おうとした際に、本堂を提供してくださったのもこの護国寺様だった。したがって、護国寺は善光寺と並んでダライラマ14世が直接訪問されて釈迦牟尼像を送って感謝を述べた数少ないお寺の一つである。

 このようなことが可能であったのは御前様の全方位リーダーシップがあったためである。
チベットをめぐる情勢は依然厳しいものがあるが、2008年以前の、チベット問題について語ると即ウ×ク扱いされ何も聞いてもらえなかった時代よりは格段によくなった。最近は少なくともみな事実に基づいてチベット情勢を判断してくれている。これも御前様をはじめとして多くの方々の御陰によるものである。

 ご逝去の報に接し心よりご冥福をお祈り申し上げます。
以下ご葬儀に関するお知らせを掲載させていただきます。

        訃   報
   
当山住職岡本永司儀病気療養中のところ10月28日月曜日午前1時35分 世壽92歳(満91歳)をもって他界致しました
ここに生前に賜りましたご厚誼に感謝し謹んでご通知申し上げます
なお密葬儀並びに荼毘式は山内関係者及び親族法類のみにて密やかに執行致しました
つきましては本葬儀を下記の通り執行いたしますのでお知らせ申し上げます

            記
氏名  岡本永司(おかもと えいし)大本山護国寺第五十三世貫首(かんす)
生年月日  昭和2年11月8日生 世壽92歳(満91歳)
本葬儀  11月 29日金曜日  13時〜
場所  大本山護国寺 観音堂 
住所  〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1
電話番号  03-3941-0764
最寄り駅  地下鉄有楽町線 護国寺駅 一番口
担当葬儀社      矢口葬祭 03-3941-7222
供花・供物・花輪受付 矢口葬祭 03-3941-7222
 
また10月29日〜11月27日 9時〜16時までお別れのご弔問御記帳を本坊エントランスロビーにてお受けしております。
 
ご弔問記帳所
期間 10月31日 〜 11月27日まで
時間 9時〜16時まで
場所 本坊エントランスロビー
 
上記の通りご案内を申し上げます。
この件につきましてご不明な点がございましたら下記にお問い合わせください
問い合わせ先 護国寺担当 伊澤元祐(いざわ げんゆう)  08043595592
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DATE: 2019/10/27(日)   CATEGORY: 未分類
衝撃の事実!
当代のごろう様(オカメインコ♂)が我が家に迎えられるまでは疾風怒濤の大河ドラマ。何しろ先代から生まれ変わって私の元に戻ってきたのだ。

当代ごろう様の実家は某JR駅に面した某合気道場の二階。2017年の七月末、私は駅から見えるインコのはりついた窓に導かれ、今のごろう様とであった。

 ご存じない方は大河ドラマはこちらでご覧いただけます。

 このオカメ道場の主Sさんは「カゴにいれてかうなんて可哀想」とといい、オカメインコ60羽は道場の二階を自由にとびかっていた。

 私は「何か災害とかあった時、60羽つれてどうやって避難するんだろう、そもそもこのまま増え続けたら飼育崩壊になる」と思ったが、批判的なことをいうとヒナをゆずってもらえなくなるかもしれないので、三羽をもらいうけるまでは口をチャックしていた(このうちちょろちゃんは病院で呼吸器系の病気にかかり夭折した。長生きさせてあげられなくてごめん)。

 こうして我が家にやってきた当代のごろう様も妹のはなりんもオカメインコとしては極小で体重は80gしかない。さらに云えば、ごろう様は足の爪が一本欠損しており、はなりんはペローシスである。二人がこんな状態なのも、過密な環境で親にストレスがたまり、子供達に給餌をまともにせず、羽をぬいていたからである。明らかにこの飼育環境は無理がきていた。

 今回の台風では道場一帯にも浸水被害があったので、その災害見舞いをかねて二年ぶりに道場を訪問してみた。外から見る限りでは道場は二年前と変わっていないようにみえた。

 実はSさんとはごろう様をひきとって以後疎遠になっていた。ごろう様をひきとって半月ほどして、こちらから送るメールが戻ってきてしまい連絡がつかなくなったため、「ちょろちゃんがなくなったことを怒っているのかも」と気が引けて何となく連絡をとらなくなってしまったのである。

 手ぶらでいくのも何なので佐渡島直送の柿を一袋かって道場の戸をあけると、ご主人とお弟子さん二人がいた。

私「2017年にこちらの奥様からオカメインコを三羽お迎えしたものです」と、今朝とったごろう様の写真をみせると(これがその時お見せした写真です)、「ああ、あの時の」と思い出してくださった。

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 この前の台風の被害をきくと、床下浸水はしたけど、ギリギリ部屋の中には入ってこなかったという。
 「奥様は?」と伺うと、ここから耳を疑う怒濤の展開。

何とSさんは2017年の9月14日に急逝したのだという。ごろう様をおむかえして一月もたたない時である。だからあの頃からメールが届かなくなったのか。

Sさんは倒れて救急車で病院に運びこまれた時には、全身ガンで手の施しようがなかったのだという。彼女は牛や豚が可哀想といい、完全菜食であった。「動物保護の活動をしたいけど、どうしたらいいか」聞かれたので、ネットを検索して日本で一番大きな団体であるアニマルライツを紹介し、道場とかで上映会とかやってはと勧めてみたが、それを実現することもなく急逝されたのか。

 私「でででででは、二階のオカメインコの御世話は今どなたがされているんですか?」と聞くとご主人だという。しかし、その後衝撃の事実がががが。

 何とSさんとダンナさんは入籍していなかったので、旦那さんは奥様の遺産(道場)を相続することができず、奥様の母親の弟と裁判沙汰になっているというのである。

 つまり、もし裁判に負けたらあの道場はなくなり、60羽のオカメインコは行く先がなくなるのである。今や希少となったノーマルオカメインコが八割をしめる夢のような世界なのに。ごろう様のパパとママと兄弟といとことはとこetc.はどうなってしまうのか。

 暗い気もちになりながら家に帰り、Sさんのなくなった日の日記を確認した。2017年9月14日 は、震度三の地震があってごろう様とはなりんの兄妹は初オカメパニックを起こしていた。まさかこれがSさんのなくなった時間?

今から思うと彼女のなくなった直後オックスフォードで学会があり、成田エクスプレスにのるためにあの駅を通った時、ホームからごろうちゃんのお父さんとお母さんに挨拶したけど、あの時点でもうSさんはいらっしゃらなかったのか。

 メールを確認してみると、三羽を養子に迎えるまでの一ヶ月、24通のメールを受信していた。一回インド料理をご一緒した時はたしかに具合が悪いとはおっしゃっていた。しかし、まさか二週間後になくなるほどガンにおかされていたとは。

 鳥のレスキューを行うNPO法人に相談の電話をかけてみると、やはり飼育崩壊の前に徐々になんとかした方がいいとのアドバイスを戴いた。そりゃ誰だっていきなり60羽の受け入れは無理だろう。とにかくご主人に今の状態をオカメファーストで考えて戴けるようにと、このNPO法人の簡単な活動内容と電話番号と私の電話を受けてくださった方の名前を大書して道場主におわたししてきた。必要とあれば仲立ちしますと一言つけて。

 Sさんは私にごろう様をわたした直後になくなられた。空海に法を伝えた後にすぐ他界した恵果阿闍梨のように。先ほどのリンク先を見て戴ければわかるが、先代ごろう様は2017年の私の誕生日に急死し、その直前に連絡をとってきた余命いくばくもないFさんが、一月後になくなって、そのお葬式に向かう途中でこの道場をみつけたのである。つまり、ごろう様が私の手許に戻ってくるまで二人の方がなくなっている。二人とも私と初対面ないし長い交流のない期間をへて私と出会い、その直後になくなっている。

 これが何を意味するのか分からない。が、一つ分かるのは60羽の命は守らなければいけないということ。

 これからどうなるのかは分からないし、人様のおうちのことなので私の一存でどうこうできるわけもないけれど、みまもりつつ、できることがあったらやりたいと思う。それがなくなったSさんや、先代ごろう様の遺志のような気がする。
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DATE: 2019/09/28(土)   CATEGORY: 未分類
沖縄でゼミ旅行 ('19)
 琉球王国は1609年に薩摩に侵攻された後も、清朝に朝貢しつづけたため、1879年の琉球処分によって公式に日本に帰属するまでは国際的には清の衛星国とみなされていた。そんなことを授業で扱ったら、ゼミ生が是非琉球に行きたいといいだしたのでちょっと遠いし高いけど今年のゼミ旅行は沖縄にいこうということになった。以下そのレポートです。

8月27日 27年アメリカだった沖縄

 夕方にホテルにチェックインをし、国際通りに向かう。途中、現県庁の横にある琉球政府・立法院跡の記念碑を見に行く。

 私「日本が戦争に負けた後、本土は1951年のサンフランシスコ講和条約で独立を回復したけど、沖縄は台湾・朝鮮半島に近くて対ソ・対中の基地をつくるのに適していたので、引き続きアメリカの支配下に置かれたの。沖縄の人にしてみたら島中を焼け野原にされた挙げ句、その張本人が上陸してきて鉄条網で島のあちこちを囲って基地をつくりはじめたのでそれは情けなかった。本土に復帰すればこのような状況が改善するかと復帰運動したけど、1972年の復帰後も今にいたるまで基地はそのまま。今県庁があるこの場所には27年にわたりアメリカの沖縄統治の拠点となった琉球政府があった。1972年以前に日本人が沖縄に旅行するにはパスポートが必要だったんだよ。ちなみに、アメリカ施政下でつくられた施設が琉球大学とか琉球政府とか「琉球」が強調されたのは、王朝時代の地名を連呼することで日本との間に距離を感じさせる意味もあったらしい。」と解説。

  国際通りにはクルーズ船からあふれだした中国人観光客であふれかえっており本土観光客はマイノリティ。坂を登り切ったところに「ラフ・エンドピース専門学校」というものがあり、「ヒッピー教育でもするのか」と検索してみたら、吉本のお笑い学校だった。ラブじゃなくラフか。

 食事のあと崇元寺門と大明嘉靖帝の日付ついている下馬碑を見に行く。国際通りから歩ける距離だが裏道に入ると途端に暗くなり、町並みは台湾か韓国の地方都市みたいな独特の雰囲気。

8月28日 琉球王朝の御嶽めぐり

 二日目は琉球王国の信仰世界をさぐるため著名な御嶽(ウタキ=本土でいう神社)をめぐる。
琉球王国最高の聖地はニライカナイ(海の彼方にあるという常世の国)から神様がおりたったという久高島。その久高島を対岸から拝む斎場御嶽も聖地。そしてこの久高島を首里から遙拝するのが弁ヶ嶽の御嶽である。

 まずは泊まっているところの近いところから攻略ということで弁ヶ嶽にいく。ここは首里の最高地点で小高い丘の上にあり、観光地としては無名なので探し当てていく感じ。

 拝所につくと、男の子たちは遠目に見える古い集合住宅を「何か憑いてそう」と気味悪げにみており、Rちゃんのケータイが突然電源がおち、Kちゃんは気分が悪いといいだし、Eちゃんはとったつもりのない写真が二枚とれてるといいだし、私が「みんな気のせいよ。私は何ともないから。」といって、とった写真をみてみると、連続してとった写真の一枚だけが上下逆にとれていた。

私「うん、普通にやばいね」
急いで山を下りる。

 それから一路南下してゆるキャラはなんじいが支配する南城市に向かう。フェリーの時間の都合からまず久高島にいくことにし、フェリーの発着所である安座真港にいく。この日は恐ろしいまでの晴れでクソ暑い。その分海はマリンブルーで文句なしに美しい。

フェリーは20分くらいで我々を神の島久高島へと運んでくれた。

かつてこの島の男たちは海人(うみんちゅ)と呼ばれ操船技術で琉球王朝に仕え、女性は神人(かみんちゅ)といって、琉球王朝最高位の巫女、聞得大君にお仕えすることを誇りとしていた。琉球文化は女性が王権をまもる非常に古い文化を残していて、男尊女卑文化の栄えた本土とはひと味違う。かつて島に生まれ島の男に嫁いだ女性は30になるとイザイホーという儀式をへて神人になった。しかし、現在島に生まれ島の男と結婚する女性がたえ、祀りも行われなくなった。

 島には人影がほとんどなく、これじゃイザイホーも絶えるはずだよと思っていると、小学校には人の気配がある。調べて見ると、この島には全国から不登校の子を受け入れているとのことで外部からの子供ももいたのかもしれない。ちなみにこの島での不登校の治癒率は90%という。島の自然の中で追い込み漁とか、隣の人がもってきてくれる野菜や魚とかを食べているうちに、子供達は自然とゲームをすてリアルを楽しみだすのだとか。ちなみに、本島にある依存症患者のためのリハビリ施設「沖縄ダルク」も全国のどの施設よりも治癒率が高い。沖縄の自然万能。

 フェリーをおりて歩き出すと、日差しを遮る者が何もないので暑い。女子はみな日傘をさしていたので問題なかったが、男子が例によって準備が悪く、「オレもうここで死ぬのかな」とか言い出すので、あわてて島にほぼ唯一の食堂に入る。壁には秋篠宮と紀子様がこの島を訪れた時の写真がはってあり、メニューは「イラブー御膳」「イラブー汁」が推しらしい。

学生「イラブーがこの島の特産なんですね」

「イラブーはシマシマのウミヘビよ。昔はここのウミヘビを燻製にして琉球王家に奉納したの。私は無理だけど食べてみたら?」と云うと、

学生「ソーキ蕎麦にします」
 
食事が終わった後、自転車を借りて、神様がおりてきたカペール岬に向かう。自転車にのると風を切って涼しくなるので男子がいっきに元気づいた。みなでとりつかれたようにひたすら島の北端にむかって爆走する。すぐに人家がなくなり舗装がきれ、丈の高いサトウキビやハイビスカスの間をはしる一本道はDr.コトーの一画面の中にいるよう。
 カペール岬は珊瑚礁の神々しい海だった。青い空に白い雲、青い海。ジブリ映画の一コマみたい。

 Hくん「エモーイ」を連発。

 そして「チャリできた」のネタ画像をとって、再び自転車にまたがり、今度は五穀のはいった壺がながれついたイシキ浜に向かう。朝日がのぼるニライカナイに続く海である(写真はイシキ浜に佇む私)。
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 「こういうところでは私利私欲のお祈りをしちゃだめ、世界平和を祈るのよ」と云いつつ、世界平和にの後にひっそりと論文が期限までに仕上がりますようにと付け加えた。

 帰りのフェリーに飛び乗り、安座真港につくと、慌ただしく斎場御嶽へ。琉球王朝最高位のシャーマン聞得大君(きこえのおおきみ)が即位した聖地である。前回訪れた時は突然お肌が潤って若返ったので今回もっとも楽しみにしていた訪問地である。なのになんか前と違う。数年前にきた時は駐車場から歩いた記憶がないのに、今回はかなり手前のお土産物屋でチケットを買ってそこからえんえん入り口まで歩く。そして御嶽につくとこれまた前回はなかった、教育ビデオを見させられる。

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 その内容は「ここは祈りの場所です。神聖な香炉に土足であがったり、拝んでいる人をジャマしたりしないでください」という観光客にマナーを啓発するもので、ここ数年で何かいろいろあったもよう。

 で部屋にいたガイドの方に聞くと、近所の方から路上駐車の苦情がくるようになったこと、観光客が聖地を土足でけがし、香炉をただの石だとおもって荷物を置いたり、写真をとるための足台にしたりして(自然崇拝なので拝殿とかないので)、香炉はすでに三つ壊され、先週も一つ壊されたばかりだとのこと、もうガイドをつけないと域内を歩けないようにしようという話まででていると。

 ガイドさんの怒りは続く「こういう話をすると、マナーの悪いのは外国から来た人でしょうと言う人がいますが、海外からきた人はここは拝む場所ですといえば分かってくれる。『信仰を強制された』と苦情電話してくるのは日本人です。私なんか苦情件数ナンバーワンですよ」。

 苦情電話をかけるには日本語のハードルがあるからじゃないかと思ったが、怖いので黙っている。さっき久高島であったガイドさんも殺気立ってブアイソだった。我々本土観光客は聖地をまもる女性ガイドたちからは良く思われていない模様。

 斎場御嶽をでるともう夕方。炎天下の一日に疲れはてた我々は近くの喫茶店に入り、コーラにマンゴーアイスをのっけた普段ならぜったぃ食べない甘物を注文。お店の方がサービスでカットパインをだしてくださる。そう、こういう普通のお店の人とかは本当にさりげなくいろいろな気遣いをしてくれる。その晩も夕飯ではいったお店でも「写真とりましょうか?」とか聞いてくれ、しばらくしてからまたもどってきて「全員はいっているか心配になったので確認させてください」とか、しぬほど性格がE。そういえばお店の人は大体男性でガイドさんはみな女性。ジェンダーで観光客へのあたりが違うのだろうか?

8月29日 「本土観光客はポタラ宮の漢人観光客か」

 今日も朝から暑いが、昨日と違うのは雲がでていること。予報では午後から雨なので昨日ほど暑くならないはず。
 本日は、琉球王朝の政治施設めぐり。しかしその前に、港川人の発掘地点である「港川フィシャー遺跡」にいく。出土地点らしきところを探しても分からないので、もよりの民俗博物館に電話をして聞くと、スタッフさんがきて下さるという。実際案内がないと分からない石切場の奥であった。聞けばこのから切り出された庭石から動物の化石を見つけたアマチュア考古学者の大山盛保が、動物があるなら人の化石もでてくるだろうと一人で探し続けてと見つけたのが港川人。人種的には南から来た人々で縄文人とは縁が薄いとのこと。沖縄には鎌倉時代も戦国時代もなかったが、古代史も本土とは関係なさそう。

 港川から那覇の郊外にある琉球王朝の別荘識名園にいく。ここは琉球王家の迎賓館で、中国からきた冊封使(琉球で新しい王が誕生した時、清朝から辞令をもってくる使者)の接待に使われていた場所。江南の風景が取り入れられ、庭木は熱帯の木々がおいしげり、エキゾチックな六義園といった感じ。敗戦の年、この美しい庭園はアメリカ軍の艦砲射撃により壊滅し、爆撃穴しか残らなかったが、写真にとられた往事の識名園の姿をもとに復元されている。
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 識名園の次は一路首里城に向かう。それまでど快晴だったのが、徐々に雲がでてきた。まず王家の墓玉陵(たまうどん)にいく。琉球では遺体を洞窟などに放置して腐りきると洗骨して巨大な骨壺におさめた。王族も基本的には同じシステムで葬られ、ここ玉陵でも遺体を腐らせて洗骨する部屋が真ん中にあり、洗骨ののち王様の骨壺が収められるのは左の部屋、王族の骨壺は右の部屋に収納された。玉陵の前の拝所ではいまだに拝む人がひっきりなしに訪れており、今は無き王家の人々に対する思いが感じ取れた。
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 最後の目的地は首里城である。しかし、門をくぐった瞬間にスコールが降り出し、女子は傘をもっていたが例によって男子がぬれるので、レストルームで雨が上がるのを待つ。傘を持っていない観光客であふれたレストルームは難民キャンプのよう。しばらくして小降りになったので正殿に入場すると丁度ガイドツアーが出発するところであった。

 ガイドさんは琉球王の王座の前で、「ここは外国の宮殿だと思ってください」「琉球王国は日本と中国の間で外交努力をかさねて410年続きました」と「おっ」、という説明をはじめた。康煕・雍正・乾隆の揮毫を背景に、中華風の龍がまきついた柱などはたしかにエキゾチックで日本的でないが、1609年以後は琉球は薩摩に実効統治されていたこと、さらに国際的には清に従属し琉球王は交代のたびに中国から辞令をもった使者(冊封使)がきていたことなどは詳しく説明しないのか。
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 深読みかも知れないが、このガイドさんからも本土観光客が琉球の独自性を理解していないことに対するいらだちを感じた。これは斎場御嶽や久高島のガイドさんの、拝所の神聖さを理解していない人への怒りにも通じているようだ。

 そこでひらめいた。これはあれだ。チベットのポタラ宮において、漢人観光客我が物顔で大声で携帯で通話したり、大声でしゃべったりして、インスタ撮影とかをしているのを、チベット人巡礼が暗い目をしてみつめているというあの構図だ。チベット人にしてみたら、ポタラ宮は観音の聖地であり、この宮殿の本来の主は観音の化身ダライラマ14世である。それが今、ダライラマ14世を追い出した国の人々が、ただの観光地として聖なるポタラ宮につめかけ、聖地に対する敬意も払わずに騒々しく「観光」している。

 そうだ、これだよと気づくと、沖縄の人の気持ちも何となく理解できるような気がした。
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