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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2024/02/24(土)   CATEGORY: 未分類
24年のロサル法話
2024年2月24日はチベット暦正月の15日。満月の日で、正月四日からはじまった祈願会のクライマックスにあたる日である。この日は伝統的にダライ・ラマがお釈迦様の前世譚(ジャータカ物語)から一話を選んで法話をすることになっており、以下、菩提心の話と前世譚の話を二部にわけてお伝えします。
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1. 菩提心をおこしましょう。

菩提心(他者を救済する力を得るために仏の境地を目指す心)を育てることはとても重要なことである。菩提心をもてば自分一人についても幸せな人生を送ることができ、大きくは世界平和を実現することにもつながる。

 心の平和を唱えるのだけではなく実際それを心におこし、毎日それを育てていかねばならない。そのために「一切ヨーガの菩提心の起こし方」を授けよう。これは世俗的な意味での菩提心と究極の意味での菩提心をそれぞれ月輪と金剛杵に観想して胸の上で一つにして心を定めていく瞑想法である。

 ※ この観相については過去にブログ主が『ダライ・ラマの密教入門』を翻訳した時のものが、よくまとまっており、今回の法話内容ともほぼ一致していたので以下に転載して(青色の部分)法王の法話に代える。

「他者を救うために仏の境地を目指す心」(菩提心)には「世俗的な意味」(世俗)と「究極の意味」(勝義)の2つの側面があります。まず世俗的な意味での菩提心について説明しましょう。私たちは可能なかぎりの有効な手段を尽くし、理性を保ち、優しく、他のもののためを思い、他のものについて考えるべきなのです。
この点についてシャーンティデーヴアは『菩薩行への道』の中で、「自分の幸福と他のものの苦しみを取り替えなければ、その人は『仏陀の境地』を得ることはない。そして輪廻の中で幸福を得ること もないであろう」と述べています。

この文章は、自分の幸福のために他人をけちらしているこの自己中心的な生き方を、他のものの幸福を願う生き方に変えることができないならば、その人は「仏陀の境地」に至ることができないばかりか、今この時ですら不幸であり、さまざまな苦しみを味わわねばならない、と説いているのです。

われわれを取り巻く現在の状況を見ても、怒りや憎悪を通じて、真の永続する世界平和を実現することはできないことは明らかでしょう。たくさんの人が非武装化と軍縮を主張していますが、これらの目的は憎悪によって果たすことは可能でしょうか。非武装化はただ平和な心、すなわち愛、憐れみ、 相互信頼の情を通じてのみ達成できるものなのです。憎悪を通じては相互信頼の情を育むことはでき ません。

また、信頼がなければどうしてこのような美しい理想が達成できるものでしょうか。机上の空論はいくらでもできます。しかしあなたの心に悪いところがあれば、誰もあなたの空論に耳を貸さないでしょう。あらゆる物事は良い心を通じてのみ達成できるのです。

このように、個々の家族、国家、世界のそれぞれのレヴェルで、平和は「良い動機」、すなわち、暖かい心、 真の人情、を通じて達成されるのです。一生の愛を誓って結婚した二人も、怒りや憎悪が生まれ 育っていけば行き着く先は離婚です。このようなあってはならないことも憎悪ゆえに起きることなのです。やさしさも、愛も、理解も、互いを尊敬しあうことがなくなるために起きるのです。これは明らかでしょう。

私たちは強い決意をもって「優しさ」(慈悲)を育まねばなりません。あなたはあらゆる命あるものを救おうという気持ちが強く鮮明に起きるようになるまで「優しさ」を育むのです。 それからこの優しさがあなたの心臓の上にある月輪に変容すると思いなさい。しかしこの感情、つまり「優しさ」がなければ月輪を観想する意味はありません。したがって、私たちはまず揺るぎない 「優しさ」を育まねばなりません、そのようにしてはじめて、この感情は月輪に変容するのです。

次に、「究極の意味」(勝義)における菩提心について説明したいと思います。これは「空を認識する」ことにかかわっています。わたしたちの感覚に生起するあらゆる知の対象は、どのようにわれわれの感覚に現われるのでしょうか。対象は意識の持つ「概念化」の力によって意識の上に「仮に設定」(仮設)されたものなのです。 にもかかわらず、わたしたちはその対象があたかも客観的に存在するものであるかのように感じています。もし対象がそのように存在しているものであるなら、対象を追求すればするほど、はっきりしてくるはずです。しかし、実際には対象をいかに追求しようとも、それはいつまでも曖昧なままで 対象自体が見いだされることはないのです。

注意しなければならないのは、対象が意識の「概念化」の力によって意識の上に「仮に設定」され たものであるということは、対象が「存在しない」と主張しているのではないことです。 というのは、これらの対象は明らかに私たちにとって害をなしたり、 益をなしたりしてくるからで す。このため、確かに対象は「存在している」のですが、それ自身の性質で客観的に存在しているものではなく、それ自身とは別のいつくかの条件のもとに成立しているということなのです。

それらはいくつかの条件に依存して成立(縁起)しているため、それらは自身の力で成立しているという意味での独立性を欠き、 言い換えれば、 自身の性質によって成立しているという観点から見れば空(くう)であるのです。 あらゆる現象はそれ自身の性質では成立していないという確信はあなたの心臓の上にある月輪の上に、五鈷杵の姿となって立ちます。これらの月輪と五鈷杵によって象徴される二つの心が、あなたが仏になる時、「形ある体」(色身)と「真理の体」 (法身)の原因となります。これらの心を決して忘れることなく保ちつづけようとせねばなりません。

真言は、オーン・サルヴァ・ヨーガ・チッタ・ウトパダヤーミ〔私はあらゆるものを愛する二 つの心を合わせて発心します。


以上のように、これから毎朝菩提心を生起しましょう。
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2. 仏の本生譚から第13話「魅惑の女」の章

 本生譚を日本語で読みたい方は
干潟龍祥 高原信一訳『ジャータカ・マーラー <本生譚の花鬘>』講談社を御覧ください。第13話を要約するとこのようなお話です。
 お釈迦様が前世シビ国の王様だった時、王は優れた性質をもち、真理にのっとって国を治める素晴らしい王でした。その国にべらぼうに美しい娘がいて、見るものはみな心を奪われてふぬけになったのでウンマーダヤンティー(魅惑の女)と名付けられていました。娘の父は王様の妃に差し出そうとしたものの、様子をうかがいにいったバラモンたちはこの娘は美しすぎて王様にとってよくない。不吉だ、ということで、王様に嫁にとるのをやめたた方がいいと進言し、王様も従います。そこで娘の父は宮廷の高官アビパーラガに娘を嫁がせます。ここからは想像つくかと思いますが、王様はある日まちでウンマータヤンティーを偶然目にしてしまい、その瞬間から恋煩いでふさぎこんでしまいます。賢い高官アビパーラガは、王様が自分の妻に恋をしていることを察知して、王様を尊敬していたため、・・・というところで、いつものように法王様は話をぶっきってしまわれました。多くの方はこの先が気になったかと思います。この先をネタバレしますので聞きたくない方はここでバックしてください。

 高官アピパーラガは王様に妻を差し出そうとしたものの、王様は「王権の乱用は正しいことではない」と拒絶します。高官が「臣民の反応を気にするのであれば私と王様との間で秘密にすればいい」いいますが、王様は「ばれなければいい、とかいう問題ではない、正しいことではない」といいます。すると、高官、「では私の妻を娼婦にすれば人妻でなくなるわけだから、王様も・・・」 (おいおいおいおい) といったら、王様、「罪のない女にそんなことをしてはらない」と最後まで拒絶。

 エライ、ご立派。さすが、お釈迦様。前世においても21世紀の倫理判定にたえられる徳の持ち主だったのでした。
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DATE: 2024/01/28(日)   CATEGORY: 未分類
チベット新年と公開講座のお知らせ
 元日から大地震がおき、なんかもう「大仏建立」のジョークをいう気力もうせる2024年の幕開けである。こういう年は旧暦の正月を祝って流れを変えた方がいい。今年はたまたま旧暦のお正月とチベットのお正月が同じ2月10日なのでチベットレストランでお正月をお祝いして盛大に流れを変えましょう。

 知る人ぞ知る東京で唯一のチベット料理屋レストラン・タシテレは新年4日よりチベット・ビールをつくるためにクラファンをした。すると、お酒を飲みたいのか、チベット支援をしたいのか、その両方かは謎だが、とにかくみんなが寄付してああっというまに目標達成。そこでチベット新年にレストランタシデレでチベット・ビールを開栓して法王代表事務所のアリヤ代表と不肖私がトークすることになりました。
 一緒にチベット新年をお祝いいたしましょう。
●第一部 チベットビール醸造記念トークイベント&開栓パーティー
日時:2024年2月10日(土) 開場 11:30 / スタート 12:00
場所:チベットレストラン タシデレ(東京都新宿区四谷坂町12-18)
参加費:4500円(ロサルセット&タシデレオリジナルチベットビール)
※お酒の飲めない方にはソフトドリンクをご用意しております。

●第二部 絵画展開催記念トークイベント「しかばねと勇者のはるかな旅」
日時:2024年2月10日(土) 開場 15:00 / スタート 15:30~17:30
場所:チベットレストラン タシデレ(東京都新宿区四谷坂町12-18)
参加費: ご来場の方 2500円(先着30名様) / オンライン 2000円
【ご予約・お問い合わせ】チベットレストラン&カフェ タシデレ
Email:tibetrestaurant@tashidelek.jp   Tel:03-6457-7255


 また、17日には早稲田のエクステンションセンターで公開講座「大隈重信がシャム(タイ)に送った民間人外交官 稲垣満次郎」を行います。
 1901年、日本仏教を代表して高僧四人がタイに仏様の舎利をいただきにあがった。この一大イベントの仕掛け人が初代シャム公使稲垣満次郎である。この奉迎にはすさまじい経費がかかり、奉迎のための会は破産し、最後は逮捕者まででるというおちがついた。しかし、仏教界の動きが国家的イベントになることは、明治末期の人々はまだ江戸時代の仏教徒としての信仰心が残っていたことを示していて興味深い。

 ちなみに、エクステンションセンターは入会すると会員料金で講座を受講でき、早稲田大学中央図書館の利用が可能になるなどの特典がある。もし新規に入会されたい方がいましたら、「教員紹介」と伝えていただければ入会金割引になるとのことです。

 以下詳細です。
講座名「大隈重信がシャム(タイ)に送った民間人外交官 稲垣満次郎」
日時:2024年2月17日 (土)
場所: 八丁堀校(〒104-0032 東京都中央区八丁堀3丁目17−9 京華スクエア 3F)
講座情報URL  : https://admin.wuext.waseda.jp/course/detail/59784/

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DATE: 2024/01/03(水)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ秘話 ⑦ 触地印の仏
あけましておめでとうございます。

 年頭恒例エッセイ、ダライラマ秘話シリーズも七回目を迎えました。
 今回は、ダライラマなどチベットの高僧がプレゼントに多用する「触地印の仏」について扱います。

 古來より現在にいたるまで、チベットのお坊さんが俗人などにプレゼントをする場合、受者の仏教の実践に資するようなもの、仏像、仏典、お線香などを授ける。2008年、北京オリンピックの年、なんやかんやでチベット人のために行動してくださった護国寺さまと善光寺さまに、事後、ダライラマ14世は表敬訪問し、その記念として仏像を授与した。それらの仏像はいずれも触地印の釈迦像であった。

 多くの人がチベット仏教といってイメージするのは、手や足のいっぱいある密教尊ではないだろうか。なのになぜ、マハーカーラ尊でも、ダーキニー尊でも、ヤマーンタカ尊でも、グヒヤサマージャ尊でもなく触地印の仏なのだろうか。「日本仏教に合わせたのでは」と思う方もいるだろうが、日本では触地印の仏像はほとんど作例がない。当時不思議に思っていたが、何となくその答えがわかったような気がしてきた。

 まずは触地印の意味について解説。

 お釈迦様の伝記(仏伝)によると、釈迦はナイレンジャー川のほとりで瞑想に入り覚りを開く直前、自分の中にある煩悩(魔)に戦いを挑まれ、それらの魔を降して大地の神を証人として覚りを開いた。なので、成道の時の姿は、右手を大地につけ(触地印/ 降魔印)、左手を膝の上においた結跏趺坐の姿で表される。つまり、触地印は釈迦の伝記のハイライトを具象化したものである。

 釈迦が覚りを開いた場(現ブッダガヤ)は金剛座とよばれ、世界の終わりがきても崩れない不動点といわれ、『大唐西域記』(8世紀)が書かれた時代には、2.5mくらいの触地印の仏が祀られていたことが記されている。インドで仏教が衰退すると同時にブッダガヤの大塔はヒンドゥー教の寺院へと改変され、仏像も姿を消した。
触地印の仏1
触地印の仏2

  この触地印の仏は、20世紀初頭になると、仏教徒間での贈答の際や大寺の本尊として頻繁に用いられるようになる。たとえば、
 写真1,2は、1901(明治34)年7月27日 雍和宮貫主アキャ・リンポチェが来日した際に、宮中に献上した仏像である(「喇嘛貫主来朝日誌」『教学報知』639、1901年8月21日)。二体とも見ての通り触地印の仏である(国立博物館所蔵)。

 1904年にイギリス軍を率いてチベットの鎖国をうちやぶったイギリスのヤングハズバンド大尉も、チベットから撤退する際にガンデン座主から仏像を授かっている。金子民雄『ヤングハズバンド伝』によると、この仏像は終生ヤングハズバンドの傍らにあり、ヤングハズバンドが死去すると遺体とともに埋葬されたという。この仏像がどのような様式のものであったかは不明であるが、王立地理学協会が所蔵するヤングハズバンドの仏像といわれる画像はやはり触地印である(写真3)。

 写真5は1911年に、鶴見に移転した 総持寺の本尊として外務官僚から寄贈された清朝由来の像であり、これも触地印である(『総持寺名宝100選』2011)。
 写真4は1912年9月、 河口慧海が第2回チベット旅行でインドの考古部長より贈呈されたというブッダガヤの金剛道場に安置されていた仏像も、触地印である(堺市博物館(2023); 『企画展河口慧海』No.47: 国立博物館TJ-4834-14)。
 1914年6月9日 ロシア帝国の首都サンクト・ペテルスブルグにたった初めてのチベット寺(通称ダツァン)にタイ(当時はシャム)から寄贈された二体の仏像のうち一体は触地印であり、当時の写真をみるとこのダツァンの本尊も触地印ぽい。
  これらの諸事例において、送り手と受け手は、モンゴル系チベット僧→日本宮廷、タイ宮廷→ロシアのチベット寺、日本の外務官僚→総持寺、インド考古局→日本人河口慧海、と様々であり、送り主は受け主の事情も考慮するであろうことを考慮すれば、20世紀初頭、触地印の仏がかなりグローバルに認知された様式であったことがわかる。ではなぜ20世紀初頭、国も民族も様々な仏教徒間で触地印の仏が贈答されたのか。一番ありえそうな話は、インドにおけるブッダガヤ復興運動の影響である。

ブッダガヤ復興運動についてものすごく巻いて説明すると、こう。

インドで仏教が滅びるとブッダガヤの大塔はヒンドゥー教の寺院へと変わった。しかし、19世紀に欧米人の知識人が、キリスト教なきあとの理性ある世界宗教候補として仏教を称賛したため、仏教は大ブームをひきおこした。中でも釈迦の伝記のクライマックスにあたるブッダガヤでの成道はとくに西洋人に人気があり、ブッダガヤがヒンドゥー教の寺院であることが惜しまれるようになっていた。

1885年 『アジアの光』(釈迦の伝記を散文詩にしたベストセラー)の著者であるエドゥイン・アーノルド(1832-190)が、「十字軍がキリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還したように、ブッダガヤをヒンドゥー教徒の手から取り戻そう」と檄を飛ばし、ブッダガヤに対する世界の注目度は上がっていった。

1891年 5月31日 神智学協会の会長オルコット大佐の下で仏教の価値を学んだセイロン(スリランカ) 人のダルマバーラは、ブッダガヤの復興を目的としてオルコットを理事長に担ぎ、マハーボディ・ソサイエティ(大菩提会)を設立し、日本の仏教徒にも協力を呼びかけた。9月、ダルマパーラの呼びかけに応えて日本でも、真言宗の釋雲照(三浦梧楼などが施主をしていた当代の名僧)が中心となって印度仏蹟興復会が設立された。同年、10月31日 ダルマパーラがブッダガヤで国際仏教会議を開催した。

 オルコット大佐は、世界中の仏教徒を協力させるため、上座部仏教であれ、大乗仏教であれ受け入れ可能な仏教の教義を、14ヶ条の基本的な信仰条規にまとめて、その書類を手に著名な仏教徒の署名を集めてまわった。オルコットは神智学協会の機関紙 Theosophist の中で、自ら14条の信仰条規携えて、ビルマ、セイロン、日本、チッタゴンの高僧たちと会い、その批判に応え、また、その兄弟愛に訴えて、この信仰条規を受け入れさせたと主張し、これに署名した日本、ビルマ、セイロン、チッタゴンの高僧たちのサインを公開した(Theosophist, 1892 年1 月号: 239-240)。

 肝腎の聖地復興についてはイギリス・インド政府がヒンドゥー教・仏教の対立に加わることを避けて何もしなかったこと、かつ、ブッダガヤの地権者であるヒンドゥー教徒のマハントも頑として仏教徒に譲らなかったため、なかなか進捗しなかった。しかし、1901年にブリヤート人のイロルトゥエフがインドを巡礼に訪れ大菩提会の活動に賛同を示すと、オルコットはこの仏教徒大同団結に「東シベリアの仏教徒」(チベット仏教徒のブリヤート人)も加わった、とぶちあげた。

また、1902 (明治35年)12/24 浄土真宗本願寺派の藤井宣正、同派法主の大谷光瑞、哲学館(現東洋大学)創立者の井上円了、ラサから脱出したばかりの河口慧海がブッダガヤで会合し、神智学協会のアニー・ベサント、オルコットの演説を聞いている。

 ここで触地印の仏に話を戻すと、ダルマパーラとオルコットが上座部仏教、大乗仏教、チベット仏教などの異なる地域の仏教を聖地復興のために協力させるため、西洋人に評価されていた仏教の教義を十四か条に抽出して示したように、触地印の仏はブッダガヤ復興のシンボルとして全仏教徒の理解できる共通のアイコンとして当時機能していたのではないかという仮説が建てられよう。

 そう考えると、もともと触地印の仏の作例がほとんどなかった日本において、総持寺のような大寺の本尊に触地印の清朝の仏が選ばれていたこと(現在は別の本尊になっている)、ダライラマ13世とサンクトペテルスブルグのオリエンタリストが施主となってたてたペテルスブルグのチベット寺院の本尊が触地印の仏になったことなどに説明がつく。

 世界中の仏教徒が19世紀末から20世紀初頭、一瞬だけ互いを認識し、共通の基盤をもとうとしていた時代の名残が、現在ダライラマ14世による触地印の仏の授与にも続いているのではないだろうか。
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DATE: 2023/12/18(月)   CATEGORY: 未分類
2023年の総括
2023年も残りわずかとなったので、愛鳥の一年12ヶ月のショットの中から季節感のあるものを選んで冒頭におきます。そして、定例の独断と偏見による2023年の総括をいっきまーす。

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まずチベット学者としてのワタクシの一年を備忘のために振り返ってみる。

 四月に中公新書から拙著『物語チベットの歴史』がでて、これまでの研究の概要を一般の方でも手に取りやすい形で届けることができて嬉しかった。手にとってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございました。
 そして、今年公開された以下の三冊の海外出版の記念論集にいずれも拙稿が収録された(書誌の出版年は2022年でも紙媒体は実質今年公開。写真はクリックすると大きくなります)。

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Revue d'Etudes Tibétaines published by the UMR 8155 (CRCAO) of the CNRS, Paris
以下のサイトで全論文が公開されている。⇒ https://www.digitalhimalaya.com/collections/journals/ret/

A Life in Tibetan Studies Festschrift for Dieter Schuh at the Occasion of his 80th Birthday. Lumbini International Research Institute:

Histories of Tibet: Essays in Honor of Leonard W. J. van der Kuijp (Studies in Indian and Tibetan Buddhism. Wisdom Publication
 
 日本でも欧米でも戦後のベビーブーマー世代(団塊の世代)は多くのチベット学者を輩出した。影響力のある学者が退職する時、あるいは、七十才とか八十才とかのきれのいい年になると、日本でも記念論集が企画され関係各位が寄稿するが、欧米にもそのような習慣があるらしく(彼らはFestschriftという)、この三冊はDan Martin, Leonard van der Kuijp, Dieter Schuh の記念論集である。

 じつはこの三冊の原稿依頼はほぼ同時期に届いた。おそらくは他のチベット学者も同じような状況であったであろうが、未発表の原稿を三本(場合によっては他の人の記念論集も依頼されていればそれ以上の)をストックしているベテラン学者なんてそうそういない。なので、英語圏のチベットたち学者はどれにだすかでさぞや困ったことと思う。しかし、幸か不幸か私は日本人。私が日本語で発表した論文は腹のたつことに欧米人が読めないため未発表扱いである。なので過去の英訳されていない拙稿を三本選んで、AIで英訳して提出したのでなんとかなった。
 この三冊にのった拙稿はいわば「AI三部作である」(いばっていうことではない)。

 次に今年新たにわかったこと。19世紀末のインドの仏跡復興運動が、サンクトペテルスブルグのオリエンタリスㇳであるウフトンスキー公を感化し、公を通じてロシアのチベット仏教徒のトップ、イロルトゥエフが仏跡復興を知った結果、1901年にイロルトゥエフのインド巡礼やタイ巡礼が実現した。インドの仏跡復興運動がチベットやダライ・ラマを神聖視していたことから、イロルトゥエフもダライラマ13世との対面会見を強くのぞむようになったことなどを、マハー・ボディ・ジャーナルなどを用いて明らかにした。これは三菱財団からの助成金をいただいた成果である。ありがとうございます、三菱さま。

 フィールド調査は円安なので国内に限り、1912年ダライラマ13世と会見した曹洞宗の日置黙仙師や、20世紀初頭に日本の宗教建築をてがけた伊東忠太の作品を、可睡斎、総持寺、日暹寺などを訪ねて観察した。国内調査はアクセス楽だしでかけた先でも日本語通じるのでえらい楽ちん。

さて、次にチベット関係のニュースについて述べると、4月13日にダライ・ラマを小児性愛者であるかのように決めつける動画騒動があった(Dalai Lama incident)。現場にいた人が母親も含めて問題視していなかったこと、動画を拡散したアカウントが中国愛国者のものであったことから、すぐに沈静化した。

 それから今年は、ラマ、著名なチベット学者、著名なチベット映画監督、著名なチベット支援者があいついで逝去した。命日をリスト化すると以下のようになる。ペマツェテン氏と若麻績師はあまりにも早いお別れであった。直近の訃報としては、12月16日に、インドのギュメ寺本堂再建、ダライラマ来日時の施主をなさった清風学園理事平岡英信先生が逝去された。

 チベットの仏教や政治や社会のありようを海外や日本で知らしめることに大きな貢献をしてくださった彼ら全員のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

4月13日   大乗仏教保護財団(FPMT)のZopa rin poche
4月15日   山口瑞鳳先生(東京大学名誉教授・チベット学者)
4月16日   高野山館長の松長有慶先生(高野山真言宗元管長・全日本仏教会元会長・仏教学者)
4月28日   北村太道先生(種智院大学名誉教授)
5月8日    ペマツェテン監督(チベット映画監督)
11月21日  善光寺の若麻績敬史師(チベット・ウイグル・モンゴル支援者)
12月16 日 平岡英信先生(清風学園理事・ギュメ僧院本堂再建の施主)。
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DATE: 2023/11/28(火)   CATEGORY: 未分類
善光寺の若麻績敬史さんを偲ぶ
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善光寺の徳行坊の若麻績敬史師が急逝された。私が知りうる範囲内での師はこういう方であった。

折りしも2008年、北京オリンピックが開催される直前、中国は国威を示すために世界中の主要都市で聖火リレーを行う計画をたて、一帯一路の主要国カザフスタンから聖火リレーをはじめた。しかし、3月にチベットが弾圧されたことに国際社会は怒っており、リレーは抗議する西洋人市民によって混乱した。

 日本での聖火リレーは4月に長野の善光寺を出発点にして長野市内を走る予定であったが、今回急逝された若麻績敬史師らを中心とした四人の僧侶たちが「仏教徒を弾圧している国に協力することはできない」と反対し、結果、聖火リレーの出発点を返上することになった(長野でのリレー自体は開催された)。そのニュースがながれた時、私は近所のうなぎやでランチを食べていて、丼をもったままたちあがった。時代が動いていた(以後中国に忖度したマスコミ報道が激変する)。

善光寺中にはこの決断によって本堂が放火されるなどの被害がでるのではないかと心配される方もいた(実際数日後落書きされる被害がでた)。しかし、若麻績師は「善光寺は創建以来なんども焼けている。仏教徒として正しいことをするべきだ」ととりあわなかった、
 
 聖火リレー当日、華僑のお金持ちがしたてたバスにのって、愛国に燃えた中国人が日本中から五星紅旗をもって長野に集合した。対するチベット支援者は組織もなく、自発的にきた人々で、数も少なく、氷雨のふる4月の長野にあつまってふるえていた。かれらを暖かく迎えたのが若麻績師らであった。以来、師はチベット支援においては本当に力をつくして行動してくださった。本葬の献花にもそれは現れていて

 チベットでは「ダライ・ラマ法王日本代表事務所のアリヤ代表」
 「スチューデント・フォー・フリー・チベット」
 「スーパー・サンガ」
 「宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会」

最近はウイグルや南モンゴル、香港、台湾の人権についても活動をひろげていたため、
 
 「ウイグルの母ラビヤ・カディール」
 「南モンゴルクリルタイ」
 「世界モンゴル人連盟」
 の献花もみられ、とどめが、

「中国共産党と戦う同士一同」(笑)てものまであった(もちろん通常の献花もありました)。

 
  コワモテの保守だけど、外国人排斥には反対で、僧侶だけどヨハネ・パウロ2世を尊敬しキリストのとく自己犠牲を愛し、少女漫画を愛し、複雑かつ行動の人であった。伝統的な善光寺の行事で堂童子をつとめた師のいちばん近くにいた金田太朗さん(信徒代表)、そして若麻績さんにいろいろな人間関係をつないでいただいた方々は今回の急逝にみな本当にショックをうけている。

 わたしが若麻績師とメッセージをかわしたのは今年5月。ちょうど大菩提会(マハーボディソサイエティ)を調べていて、大菩提会にたのまれてサールナートで壁画をかいた野生司香雪画伯についてしらべていた時、若麻績さんがFBで今年5月に、長野市で野生司香雪画伯の展覧会が開催されること、野生司香雪は善光寺の雲上殿(善ち光寺の納骨堂) の壁画もかいていることをポストされていたので、こんなシンクロニシティもあるのかと思ってメッセージを送った。 

最後のメッセ

 すると、「なんと!! それは素晴らしい。石濱先生は善い意味でやはりお持ちですね」「香川県には野生司香雪顕彰会があり詳しい方々がおられます!!」とさらなる情報を教えてくださった。その展覧会はもうあと3日で会期が終わりであったので残念ながら見送ったが、あの時長野にいっていれば生前の若麻績師にお会いできたのかもしれない。若麻績師のメッセージ欄の最後に「ご冥福を祈念しております」と送信する。あの世に届いてほしい。

 若麻績師の本葬のあと、雲上殿の所在を調べてみると善光寺の北にある山の上にある納骨堂であった(善光寺から約一キロ)。若麻績師が最後にくださった情報を全うしようと、本葬がおわったあと、雲上殿にいくこととする。グーグルマップは徒歩16分というので、たいしたことないだろう。

 マップにそって歩き始めるが長野の道は五差路とかがあって、道もぐねっているため、どっちにまがっていいかわからない。ちょっと進んでは戻り別の道にいくを繰り返しているうちに面倒くさくなり、本能マップに従って山を登ることにする。とにかく高い方へいこうと、明らかに私有地や団地の階段で段差をかせいだりとかしていくうちに、ついに雲上殿に続く車道にでた。本能マップすごい。山は紅葉がちょうど見頃で、上りはきついが割と気にならない。

 雲上殿の受付で事情を話すと、職員の方が塔の中にある壁画まで案内してくださった。壁画は四面で、インドと日本が左右に別れており、お釈迦様が覚りを開いたシーンと聖徳太子さまがむかいあっており、善光寺の御本尊がインドからでていくシーンと日本で発見され長野にもっていかれるシーンが向かい合っていた。そういえば若麻績師、善光寺の御本尊には中国を通ったという伝承がないとおっしゃっていたなあ。

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 仏さまが覚りを開いたシーンはサールナートに描かれた野生司香雪の成道画と同じで(釈尊の地をさわっていない方の手のひらが上を向いている)、香雪はインドで書いたものがたりを日本に繋げたのである。壁画の中心に鎮座する御本尊は善光寺の御本尊のうつしであったため、手を合わせる。
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 帰りは高いところから低いところへ善光寺の塔を目指しておりればいいので、行きよりは遥かに楽であった。善光寺の北門から境内に入り、本堂でおまいりし、山門にのぼって境内をみわたし、若麻績さんの思い出を反芻する。青天快晴で暖かく、師の人柄を思うには良い天気であった。
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 東京に戻ると暗くなっており、折しも満月が東から登ってきた。紅葉も満月も師がみせてくれたような気がする。
彼を失うことはチベット支援にとって大きな痛手であるが、チベットには世界中に認められた素晴らしい仏教文化があり、それを消えないように維持つつ、非暴力(言葉による暴力も含む)で慈悲をもって中国政府と対峙していくというスタンスは、続けなければならない。世の中の関心が他にうつったからといってハマスのような暴力的な行動にはしったり、目には目をといった行動をとりはじめたら、その時こそ本当にチベットの終わりである。

 若麻績師のご冥福を心よりお祈りいたします。
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