23年 秋のチベット祭り
九月のチベット関係情報をあげます。ブログ主は九月に二つの講演します。9月9日には河口慧海などがチベットに向かう契機となった明治期の世界仏教運動を扱います(全一回)。さらにチベット死者の書がNHKスペシャルで放映されて30年を記念してNHKカルチャーで全三回死者の書を講義します。オンラインなのでお気軽にどうぞ。いずれもビジター参加可能です。
さらに東西で河口慧海展が行われます。重なったのはまったくの偶然とのこと。
演題「ブッダガヤを仏教徒の手に取り戻せ 仏跡復興運動が繋げた世界」
日時: 9月9日(土)13:10~18:10 ※途中休憩をはさみます。 外部参加OK
場所: 早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校(最寄り駅 八丁堀駅)
主宰: 早稲田大学エクステンションセンター
詳細はこのURLで。
<概要> 19世紀に欧米において市民社会にふさわしい宗教として仏教がブームとなると、釈迦の伝記は賛嘆され、イギリス人はインドで仏跡の発掘に励んだ。
欧米人の仏教に対する高い評価は伝統的な仏教徒に自信を与え、スリランカ人のダルマパーラは釈迦が覚りを開いた聖地ブッダガヤをヒンドゥー教徒から取り戻すべく、世界の仏教徒に呼びかけた。
日本においても仏教の源流をもとめて、河口慧海ら日本人はチベットに向かい、岡倉天心などの著名人もインドの仏跡巡礼にむかった。タイ、ビルマ、ロシア、日本の仏教徒たちの間には仏後巡礼をとおして横のつながりが生まれ、聖地奪還運動は伝統的な仏教徒に地域の仏教を相対化し仏教の普遍性を自覚させると同時に、時間がたつにつれそれぞれの国の民族運動へと変化していく。本講義では世界仏教運動のもりあがりと民族運動への変化について学んでいく。
演題:「チベット死者の書―生と死の哲学」(オンライン・全三回)
日時: 2023年 09/30(土), 10/21(土), 2023/11/25(土) 各13:00~14:30
主宰: NHKカルチャー
NHKスペシャルで『チベット死者の書』が放映されてから30年。記念講座をすることとなりました。オンラインですのでお気軽にどうぞ。詳細はこのURLで。
第一回 チベット死者の書が説く死と再生の過程
チベット人にとって死は決してネガティブなものではなく、人の意識がもっとも覚りの心に近づく最高のチャンスと考えます。しかし、生前にした様々な行いの影響ですぐ光の体験はきえ、人は再生の過程にいやおうなしに入っていきます。死者の書はこの過程でする様々な体験のガイドであり、注目すべきは何を見ようとそれを「心の現れ」であるのでとらわれないように説くことです。
第二回 『チベット死者』の書の「発見」ものがたり
死者の書と呼ばれる文献群がチベットでどのように生まれ、「発見」されたかをまず話します。さらに、1927年、エヴァンス・ベンツがカルマ・リンパの死者の書を英訳したことにより、欧米や日本において本書が「死」や「意識」に対する考え方を大きく変える契機になかったことついて述べます。
第三回 多死時代に『死者の書』が与える福音
死者の書は、「良い生」が「良い死」には不可欠であることを教えてくれます。目先の欲望にとらわれ、我執にまみれて生きた人に良い死は訪れず、中長期的に人生をみて我執からできるだけ離れた生き方をした人には良い死がやってきます。つまり、良い死を迎えることのできる生とは、本当の意味での幸せな人生でもあるので、死者の書とは実は生き方の書でもあるのです。
また、東西で偶然二つの河口慧海展が行われます。以下開催日の早い方から。
企画展「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」
場所: 東京国立博物館 本館 14室
期間: 2023年8月22日(火) ~ 2023年10月9日(月・祝)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2614
企画展「企画展「河口慧海 仏教探究の旅」
場所: 堺市博物館(〒590-0802 大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内)
期間: 令和5年9月2日~10月15日
URL: https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/exhibition/kikaku_tokubetsu/kawaguchiekai.html
さらに東西で河口慧海展が行われます。重なったのはまったくの偶然とのこと。
演題「ブッダガヤを仏教徒の手に取り戻せ 仏跡復興運動が繋げた世界」
日時: 9月9日(土)13:10~18:10 ※途中休憩をはさみます。 外部参加OK
場所: 早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校(最寄り駅 八丁堀駅)
主宰: 早稲田大学エクステンションセンター
詳細はこのURLで。
<概要> 19世紀に欧米において市民社会にふさわしい宗教として仏教がブームとなると、釈迦の伝記は賛嘆され、イギリス人はインドで仏跡の発掘に励んだ。
欧米人の仏教に対する高い評価は伝統的な仏教徒に自信を与え、スリランカ人のダルマパーラは釈迦が覚りを開いた聖地ブッダガヤをヒンドゥー教徒から取り戻すべく、世界の仏教徒に呼びかけた。
日本においても仏教の源流をもとめて、河口慧海ら日本人はチベットに向かい、岡倉天心などの著名人もインドの仏跡巡礼にむかった。タイ、ビルマ、ロシア、日本の仏教徒たちの間には仏後巡礼をとおして横のつながりが生まれ、聖地奪還運動は伝統的な仏教徒に地域の仏教を相対化し仏教の普遍性を自覚させると同時に、時間がたつにつれそれぞれの国の民族運動へと変化していく。本講義では世界仏教運動のもりあがりと民族運動への変化について学んでいく。
演題:「チベット死者の書―生と死の哲学」(オンライン・全三回)
日時: 2023年 09/30(土), 10/21(土), 2023/11/25(土) 各13:00~14:30
主宰: NHKカルチャー
NHKスペシャルで『チベット死者の書』が放映されてから30年。記念講座をすることとなりました。オンラインですのでお気軽にどうぞ。詳細はこのURLで。
第一回 チベット死者の書が説く死と再生の過程
チベット人にとって死は決してネガティブなものではなく、人の意識がもっとも覚りの心に近づく最高のチャンスと考えます。しかし、生前にした様々な行いの影響ですぐ光の体験はきえ、人は再生の過程にいやおうなしに入っていきます。死者の書はこの過程でする様々な体験のガイドであり、注目すべきは何を見ようとそれを「心の現れ」であるのでとらわれないように説くことです。
第二回 『チベット死者』の書の「発見」ものがたり
死者の書と呼ばれる文献群がチベットでどのように生まれ、「発見」されたかをまず話します。さらに、1927年、エヴァンス・ベンツがカルマ・リンパの死者の書を英訳したことにより、欧米や日本において本書が「死」や「意識」に対する考え方を大きく変える契機になかったことついて述べます。
第三回 多死時代に『死者の書』が与える福音
死者の書は、「良い生」が「良い死」には不可欠であることを教えてくれます。目先の欲望にとらわれ、我執にまみれて生きた人に良い死は訪れず、中長期的に人生をみて我執からできるだけ離れた生き方をした人には良い死がやってきます。つまり、良い死を迎えることのできる生とは、本当の意味での幸せな人生でもあるので、死者の書とは実は生き方の書でもあるのです。
また、東西で偶然二つの河口慧海展が行われます。以下開催日の早い方から。
企画展「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」
場所: 東京国立博物館 本館 14室
期間: 2023年8月22日(火) ~ 2023年10月9日(月・祝)
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2614
企画展「企画展「河口慧海 仏教探究の旅」
場所: 堺市博物館(〒590-0802 大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内)
期間: 令和5年9月2日~10月15日
URL: https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/exhibition/kikaku_tokubetsu/kawaguchiekai.html
チベットを求めて可睡斎に行く
お盆直後の8月17日に調査とレジャー兼ねて静岡県の名刹可睡斎(かすいさい)にいく計画をたてた。しかし、お盆に台風が直撃し、出だしは波乱に満ちていた。
●台風でとまる新幹線
8月15日、台風七号が近畿を直撃したことにより、東海道新幹線は計画運休となった。翌日復旧するかと思えば今度は静岡県内の大雨により車両のやりくりがきかず新幹線は朝からとまりっばなし。新大阪・名古屋・東京などの新幹線の主要駅には帰宅難民となった人々が滞留し、インドの鉄道駅のよう。午後七時のニュースでは「明日(17日)の運行についても見通せないので、最新の情報をHPで」となんか不安な予告をしている。でかけるのは無理かとも思ったが、可睡斎の精進料理の予約をいれていたので(笑)、17日、とにかく家を出た。
可睡斎は「こだま」の掛川駅から在来線で二駅。ホームでJR東海の駅員さんに「一番早いこだまはいつ来ますか?」と聞くと、「HPみて頂くとわかるのですが、いま東京〜新横浜間に何も走っていません。「こだま」はまだ東京駅に入線もして・・・あっ今入線して準備中表示になりました」とのこと。
普通こだまは自由席でも座れるのだが、帰宅難民が加わり70分おくれてつく「こだま」に途中駅からのる我々の座席はたぶんない。覚悟を決めて最初にきた「こだま」にのったら8:50分に発車。この列車的には70分遅れているが、予定では8:45分にでるつもりだったので主観的にはほぼ遅れナシ。小田原で降りた人の後に座れたため、席もOK。今回に関しては台風の影響ナシ。日頃の行いがいいのか悪運か。
掛川駅で降車して在来線で袋井駅にいき、タクシーで可睡斎へ。可睡斎は家康ゆかりの寺である。戦国時代、可睡斎の住職が、今川の人質だった家康(竹千代)を助けたことから、家康が駿河の城主になった時に恩人として住職を御前に呼んだ。しかし、この住職は家康の前で居眠りをはじめたので、まわりが咎めようとすると家康
「居眠りしてもヨシ!」といったことから、この住職、ひいてはこの寺は可睡斎(ねむってもヨシ)と呼ばれるようになった。

●目的は日置黙仙
今年の大河は家康が主人公であるため、袋井の駅にも可睡斎にも大河のポスターが貼りまくられている。しかし目的は家康ではない。もっと時代がくだった、1892年から1916年までこの寺の住職であった日置黙仙禅師である。
日置黙仙はグローバルな活躍をした曹洞宗の有力僧で、以下にあるように、1912年1月にインドでダライラマ13世と謁見している。以下、一目で分かる彼の年譜。
1892年 西有穆山の後任として、日置、可睡斎住職に就任。
1895年 日置、総持寺東京出張所執事 。
1896年 日置、可睡斎に僧堂開設願い。
1900年 高村光雲作の活人剣のモニュメントを可睡斎にたてる。
1901年 西有穆山、総持寺貫首に(この頃総持寺が北陸から鶴見に移転)。
1900年6月 日置、真正の仏舎利を奉迎するため暹羅(タイ)へ渡航。
1902年 西有穆山、曹洞宗管長に。
1907年 日置、日露戦争の戦跡をまわって慰霊。
同年10月30日 日置、タイから奉迎した仏舎利をまつる寺院日暹寺の住職に就任。
1911年4月2日 可睡斎に日露戦争の戦場の土をおさめた護国塔(設計伊東忠太)をたてる。
1911年12月 日置、タイのラーマ六世の戴冠式に日本仏教を代表して列席。來馬琢道も同道。
1912年1月 日置、ダライラマとダージリンで謁見。山上曹源も同道。このあとインドで仏跡巡礼。
1914年 ダライラマ13世から日置黙仙にチベット大蔵経(ナルタン版)が寄贈され、日置は総持寺に奉呈。
1915年8月1日 日置、サンフランシスコ世界宗教会議に出席。
1916年 日置、可睡斎住職を退任し、永平寺六十六世貫首に当選する。
同年6月 日置、来日したタゴールを迎える。
1920年 遷化。
ざっと見ても明治から大正期にかけての内外仏教界において日本を代表する活躍をしていたことが分かると思う。この彼がもっとも活動的であった20世紀初頭、可睡斎にいたので、これは一度はいかねばならないと思っていた。
●活人剣
山門をくぐると左手に、地面につきささり切っ先を空にむけた剣のモニュメントがある。その名も「活人剣」。「るろうに剣心」の神谷活心流ではない。史実に基づく由緒ある建造物である。日清戦争後、下関条約が締結された時、清國の全權大使として来日した李鴻章は日本の暴漢に襲われた。この時、李鴻章の治療に当たったのが陸軍軍医総監の佐藤進。李鴻章は佐藤が医者でありながら佩刀していることを問うと、佐藤は李鴻章に「私は毎日病とたたかっているこれは活人剣である」といい、剣禅一致の境地をといた。

この逸話に基づいて日置黙仙が高村光雲に作らせたモニュメントがこの「活人剣」である。このお寺愛国だったので、戦時中に剣は金属供出され、現在のものは2015年に再建されたものである。新旧を比べた写真をおいたのでご覧あれ。私は高村版活人剣が好き。
●伊東忠太の護国塔
まずは、総受付で護国塔への道をきく。この塔は日露戦争の戦没者を弔うべく立てられたもので、日置黙仙が大陸の戦場をまわって集めた土が塔の基壇におさめられている。設計は東大の工学博士伊東忠太。場所は谷ひとつこえてかなり急な坂をのぼった(舗装道はすべるのでもう一本ある山道を推奨)境内の西側の丘の上である。

ひーひー坂を登っていくといきなり視界が開けて護国塔が現れる。忠太らしくデザインはインド・チベット風で翼のついた狛犬が門番をしており、柱は真ん中がこころもちふくらんでいる(エンタシス。忠太は法隆寺の柱のエンタシスはギリシアのパルテノン神殿様式がインドを介して日本に伝わったと考えていた)。塔のファサードは一世紀のアジャンターやブッダガヤのマハーボディ寺院風、相輪部は前回述べたようにチベット仏塔様式である。
現存する塔は伊東忠太の設計図通りではないため、宝物館には伊東忠太の設計通りにつくられた護国塔の模型があった。この原案をみると、翼のついたライオンは四隅に配され、二段ある基壇は現在よりも高く、基壇二段目には北京のチベット寺昭廟風の階段がついていた。
当時の静岡民友新聞によると、塔の発起人たちはどのような様式で塔を建てるかでもめた。三浦梧楼中将は日本の伝統様式である五重塔・三重塔を主張し、渡邊子爵はインド様式を主張した。そこに日置の師である西有禅師が割って入り、「しじゅう(始終・四重)はやっかいでごじゅう(後住・五重)が迷惑する」、とダジャレをとばして、インド・チベット風に決着した。つまり、可睡斎側はインド・チベット様式を支持していたのである。当時としては最先端のデザインを可睡斎側は推していたのである。
●チベット・ホルンにトイレの神様
世代が変わり、現在可睡斎にいるお坊さんたちはこの時代についての話を知らなかったが、歴代住職の位牌をまつるお堂にチベットホルン(ドゥン)があり、「カルラの笛」と名付けられていた。解説文をよむと平成5年(1993)にチベットのドゥンを模して開発したとあるので、少なくとも1993年にはチベットに興味をもつお坊さんがいたわけだ。

この可睡斎、とにかく盛りだくさん。境内ではインスタ映えする風鈴祭をやっており、まるで「うる★奴ら」の「ビューティフルドリーマー」の世界(若いもんは知らんだろう)。そして見所は昭和10年に建設された当時は最先端の水洗トイレ。「日本一の禅寺院のトイレ」(東司)を謳うだけあり、それは迫力。

今はやりの男女兼用だけど、トイレのまんなかに烏枢沙摩明王がたち、蓮華の水盤からは手洗いの水がちょろちょろおちているので、たぶん変な人種はよりつかない。歌舞伎町タワーにも真ん中に烏枢沙摩明王を据えたら問題は解決するのではないか(土地柄がアレか)。
拝観料には堂内をめぐる権利、このトイレ見学、宝物館、風鈴のなる日本庭園をながめながらの冷やしぜんざいもこみとなっており、とてもオトク。2000円だすとこれに加えて精進料理もいただけます。このお寺もっと交通の便のよいところにあったら観光客がつめかけるだろう。

本堂の右手に秋葉總本殿があり、ここには火伏せの神である秋葉権現が祀られている。神仏習合時代ここは修験者の集まる場所で堂内には天狗の面がかざられている。むかーし、江戸には火事がたえなかったため、秋葉さんのお札は火災保険のように飛ぶように売れた。
ちなみに、現在の可睡斎のお土産は、トイレにはる烏枢沙摩明王とひぶせの秋葉権現のお札である。残念ながら日置禅師関連の資料がどこにあるのかはいまいるお坊さんたちでは分からないとのことで、また後日を期す。

●台風でとまる新幹線
8月15日、台風七号が近畿を直撃したことにより、東海道新幹線は計画運休となった。翌日復旧するかと思えば今度は静岡県内の大雨により車両のやりくりがきかず新幹線は朝からとまりっばなし。新大阪・名古屋・東京などの新幹線の主要駅には帰宅難民となった人々が滞留し、インドの鉄道駅のよう。午後七時のニュースでは「明日(17日)の運行についても見通せないので、最新の情報をHPで」となんか不安な予告をしている。でかけるのは無理かとも思ったが、可睡斎の精進料理の予約をいれていたので(笑)、17日、とにかく家を出た。
可睡斎は「こだま」の掛川駅から在来線で二駅。ホームでJR東海の駅員さんに「一番早いこだまはいつ来ますか?」と聞くと、「HPみて頂くとわかるのですが、いま東京〜新横浜間に何も走っていません。「こだま」はまだ東京駅に入線もして・・・あっ今入線して準備中表示になりました」とのこと。
普通こだまは自由席でも座れるのだが、帰宅難民が加わり70分おくれてつく「こだま」に途中駅からのる我々の座席はたぶんない。覚悟を決めて最初にきた「こだま」にのったら8:50分に発車。この列車的には70分遅れているが、予定では8:45分にでるつもりだったので主観的にはほぼ遅れナシ。小田原で降りた人の後に座れたため、席もOK。今回に関しては台風の影響ナシ。日頃の行いがいいのか悪運か。
掛川駅で降車して在来線で袋井駅にいき、タクシーで可睡斎へ。可睡斎は家康ゆかりの寺である。戦国時代、可睡斎の住職が、今川の人質だった家康(竹千代)を助けたことから、家康が駿河の城主になった時に恩人として住職を御前に呼んだ。しかし、この住職は家康の前で居眠りをはじめたので、まわりが咎めようとすると家康
「居眠りしてもヨシ!」といったことから、この住職、ひいてはこの寺は可睡斎(ねむってもヨシ)と呼ばれるようになった。

●目的は日置黙仙
今年の大河は家康が主人公であるため、袋井の駅にも可睡斎にも大河のポスターが貼りまくられている。しかし目的は家康ではない。もっと時代がくだった、1892年から1916年までこの寺の住職であった日置黙仙禅師である。
日置黙仙はグローバルな活躍をした曹洞宗の有力僧で、以下にあるように、1912年1月にインドでダライラマ13世と謁見している。以下、一目で分かる彼の年譜。
1892年 西有穆山の後任として、日置、可睡斎住職に就任。
1895年 日置、総持寺東京出張所執事 。
1896年 日置、可睡斎に僧堂開設願い。
1900年 高村光雲作の活人剣のモニュメントを可睡斎にたてる。
1901年 西有穆山、総持寺貫首に(この頃総持寺が北陸から鶴見に移転)。
1900年6月 日置、真正の仏舎利を奉迎するため暹羅(タイ)へ渡航。
1902年 西有穆山、曹洞宗管長に。
1907年 日置、日露戦争の戦跡をまわって慰霊。
同年10月30日 日置、タイから奉迎した仏舎利をまつる寺院日暹寺の住職に就任。
1911年4月2日 可睡斎に日露戦争の戦場の土をおさめた護国塔(設計伊東忠太)をたてる。
1911年12月 日置、タイのラーマ六世の戴冠式に日本仏教を代表して列席。來馬琢道も同道。
1912年1月 日置、ダライラマとダージリンで謁見。山上曹源も同道。このあとインドで仏跡巡礼。
1914年 ダライラマ13世から日置黙仙にチベット大蔵経(ナルタン版)が寄贈され、日置は総持寺に奉呈。
1915年8月1日 日置、サンフランシスコ世界宗教会議に出席。
1916年 日置、可睡斎住職を退任し、永平寺六十六世貫首に当選する。
同年6月 日置、来日したタゴールを迎える。
1920年 遷化。
ざっと見ても明治から大正期にかけての内外仏教界において日本を代表する活躍をしていたことが分かると思う。この彼がもっとも活動的であった20世紀初頭、可睡斎にいたので、これは一度はいかねばならないと思っていた。
●活人剣
山門をくぐると左手に、地面につきささり切っ先を空にむけた剣のモニュメントがある。その名も「活人剣」。「るろうに剣心」の神谷活心流ではない。史実に基づく由緒ある建造物である。日清戦争後、下関条約が締結された時、清國の全權大使として来日した李鴻章は日本の暴漢に襲われた。この時、李鴻章の治療に当たったのが陸軍軍医総監の佐藤進。李鴻章は佐藤が医者でありながら佩刀していることを問うと、佐藤は李鴻章に「私は毎日病とたたかっているこれは活人剣である」といい、剣禅一致の境地をといた。

この逸話に基づいて日置黙仙が高村光雲に作らせたモニュメントがこの「活人剣」である。このお寺愛国だったので、戦時中に剣は金属供出され、現在のものは2015年に再建されたものである。新旧を比べた写真をおいたのでご覧あれ。私は高村版活人剣が好き。
●伊東忠太の護国塔
まずは、総受付で護国塔への道をきく。この塔は日露戦争の戦没者を弔うべく立てられたもので、日置黙仙が大陸の戦場をまわって集めた土が塔の基壇におさめられている。設計は東大の工学博士伊東忠太。場所は谷ひとつこえてかなり急な坂をのぼった(舗装道はすべるのでもう一本ある山道を推奨)境内の西側の丘の上である。

ひーひー坂を登っていくといきなり視界が開けて護国塔が現れる。忠太らしくデザインはインド・チベット風で翼のついた狛犬が門番をしており、柱は真ん中がこころもちふくらんでいる(エンタシス。忠太は法隆寺の柱のエンタシスはギリシアのパルテノン神殿様式がインドを介して日本に伝わったと考えていた)。塔のファサードは一世紀のアジャンターやブッダガヤのマハーボディ寺院風、相輪部は前回述べたようにチベット仏塔様式である。
現存する塔は伊東忠太の設計図通りではないため、宝物館には伊東忠太の設計通りにつくられた護国塔の模型があった。この原案をみると、翼のついたライオンは四隅に配され、二段ある基壇は現在よりも高く、基壇二段目には北京のチベット寺昭廟風の階段がついていた。
当時の静岡民友新聞によると、塔の発起人たちはどのような様式で塔を建てるかでもめた。三浦梧楼中将は日本の伝統様式である五重塔・三重塔を主張し、渡邊子爵はインド様式を主張した。そこに日置の師である西有禅師が割って入り、「しじゅう(始終・四重)はやっかいでごじゅう(後住・五重)が迷惑する」、とダジャレをとばして、インド・チベット風に決着した。つまり、可睡斎側はインド・チベット様式を支持していたのである。当時としては最先端のデザインを可睡斎側は推していたのである。
●チベット・ホルンにトイレの神様
世代が変わり、現在可睡斎にいるお坊さんたちはこの時代についての話を知らなかったが、歴代住職の位牌をまつるお堂にチベットホルン(ドゥン)があり、「カルラの笛」と名付けられていた。解説文をよむと平成5年(1993)にチベットのドゥンを模して開発したとあるので、少なくとも1993年にはチベットに興味をもつお坊さんがいたわけだ。

この可睡斎、とにかく盛りだくさん。境内ではインスタ映えする風鈴祭をやっており、まるで「うる★奴ら」の「ビューティフルドリーマー」の世界(若いもんは知らんだろう)。そして見所は昭和10年に建設された当時は最先端の水洗トイレ。「日本一の禅寺院のトイレ」(東司)を謳うだけあり、それは迫力。

今はやりの男女兼用だけど、トイレのまんなかに烏枢沙摩明王がたち、蓮華の水盤からは手洗いの水がちょろちょろおちているので、たぶん変な人種はよりつかない。歌舞伎町タワーにも真ん中に烏枢沙摩明王を据えたら問題は解決するのではないか(土地柄がアレか)。
拝観料には堂内をめぐる権利、このトイレ見学、宝物館、風鈴のなる日本庭園をながめながらの冷やしぜんざいもこみとなっており、とてもオトク。2000円だすとこれに加えて精進料理もいただけます。このお寺もっと交通の便のよいところにあったら観光客がつめかけるだろう。

本堂の右手に秋葉總本殿があり、ここには火伏せの神である秋葉権現が祀られている。神仏習合時代ここは修験者の集まる場所で堂内には天狗の面がかざられている。むかーし、江戸には火事がたえなかったため、秋葉さんのお札は火災保険のように飛ぶように売れた。
ちなみに、現在の可睡斎のお土産は、トイレにはる烏枢沙摩明王とひぶせの秋葉権現のお札である。残念ながら日置禅師関連の資料がどこにあるのかはいまいるお坊さんたちでは分からないとのことで、また後日を期す。

明治期政界の奥座敷は大磯
梅雨空が一変し夏らしい晴れとなった7月2日、明治・大正期の政界の奥座敷、大磯にいった。以下備忘の訪問記である。大磯駅は昭和な趣がそのままな感じで、巣立ったばかりの燕のヒナがいてとてもかわいい。となりの二宮駅は米軍の機銃掃射あとがそのまま残っているそう。
駅をでると日差しがきつい。しかし白いワンピをきているせいか、海風があるせいか、さほど暑く感じられない。都内だとタワマンやコンクリの上を熱風が走るが、ここは海の上から風が吹いていくるからか。大磯海岸は美しいアオバトの飛来地として有名であり、私はまず観光案内所でアオバトが見られる時間帯をきく。「早朝」と瞬殺される。
大磯といえばロングビーチの海水浴場で有名であるが、実はここ軍医総監の松本(良)順(林董の実兄)が国民の健康増進のために西洋式の海水浴場を流行らせようと、明治17年に開業した日本初の海水浴場なのである。いろいろな地を検分した結果、ここ大磯を選んだのだ。

明治20年に鉄道駅が開設されると、明治23年には伊藤博文がこの地を気に入り、明治29年に小田原にあった別荘滄浪閣を大磯にうつし本籍も移した。続いて陸奥宗光は明治27年に、大隈重信は明治30年(大隈は三年しかすまず古川市兵衛に邸をゆずる)、明治32年には西園寺公望が別荘を購入し、かれら総理経験者の別荘は大磯駅にほど近い海岸際に仲良く↓の順番で並んでいた。
西園寺(再建)・伊藤博文・鍋島直大(現存せず)・大隈重信・陸奥宗光

総理にかぎらず政商の大倉喜八郎、安田善次郎や歌舞伎俳優なども同時期に別荘をかまえ、大磯は格の高いお土地柄へと変わって行く。歴代総理がお隣さん同士であったのはほんの短い期間であるが、その間日清・日露の戦争、義和団の乱などがおき、日本は大陸へどんどん深入りしていった。対外的な姿勢についてはさして意見の違わなかったかれらが、隣同士の気安さで海をみながら大陸について生臭い話していただろうなーと思うと、海風がいっそう生臭くなる。
それでは実際の散歩ルート、いってみよう。大磯駅前には三菱財閥(岩崎家)の三代目の長女、澤田美喜がたてたかの有名なエリザベス・サンダーホームがある。敗戦後の極貧の日本にあって、生活に窮した女たちは進駐軍とあーなってこーなった結果、望まない子供を妊娠するものもでてきた。相手は黒人や白人であるから、子供がうまれれば一目で進駐軍の兵士とよろしくやっていたことがばれる。このため、戦後まもなくハーフの捨て子が大量にでて社会問題となっていた。そのような子供たちが安心してくらして、教育をうけられるようにしたのが、このホームである。
もともとこの建物は三菱財閥の岩崎家の別荘であり、敗戦後の財閥解体により接収されていたが、澤田美喜がGHQとかけあって福祉施設にするということで買い戻したものだ。ここまでは美談なのだが、戦後まもない混乱期におきた国鉄三大事件の一つ、下山総裁横死事件に際して、澤田美喜の秘書をしていた上海帰りの男が逮捕されておりCIAの出先機関などといわれた時期があった(後釈放される)。真実は闇の中だが、もし下山総裁が自殺であったとするなら、出先機関云々の説はまさにいまはやりの誹謗中傷である。
ホームを横目にみながら海にむかうと、西行法師所縁の鴫立庵が道路の向こうにみえる。鴫立庵のわきには疎水が流れ、そこからふきこむ涼しい風と今年最初の蝉の声と青い空に、子供の頃の夏休みの始まりの記憶が蘇えりエモい。
近くにある大磯町役場の側面には「祝! 湘南の風〜」と垂れ幕がかかっている。

私「役場がバンドの応援しているのか」
学生「よく見て下さい、湘南乃風じゃありません。海です。しこ名です。最近幕内に入ったんですよ」
海岸にでると、なぜかたくさんの男がいる。着衣で大砲のようなカメラをもち、西湘バイパスの橋桁の影で涼んでいるので明らかに海水浴客ではない。アオバトとりにきたバード・ウォッチャーかとも思ったが、聞いてみると、「水着をきたおねえちゃんの撮影会」。昨今いろいろな公共プールをしめだされているから、いまや海岸でやっているのか。それにしても解せないのは、近くの水着女性とるのに、なぜあんな立派なカメラが必要なんだろう。わけわからん。
みなかったことにして、海岸にたつ松本順(一文字が違えば嵐の徳川家康)謝恩碑を確認し、新島襄終焉の地をみ、大磯駅の北側にある妙大寺にいく。ここには大磯海水浴場をつくった松本順ほか、樋口季一郎(1888-1970)の墓がある。松本順の墓はロータリークラブが整備してくれているのですぐわかったが、樋口季一郎の墓は写真がないのでなかなか見つからない。


樋口は日本の敗戦後、南下してくるソ連軍を占守島(千島列島の最北端)の戦いでくいとめ、北海道をソ連の占領からまもった軍人である。東京裁判の被告にされそうになったが、満州国の特務機関にいたころ、ユダヤ人の亡命者を満洲国経由で逃がしていた功績により、ユダヤ・ロビーが彼を戦犯認定しないようにアメリカに働きかけ、罪に問われなかった。この人は私のご先祖と同じく淡路島出身で、かつ、『ゴールデンカムイ』の最終回にもでてくる人なのでぜひお参りしておきたいところ。探していると樋口家の墓はあったが、墓誌は戒名しか刻まれていないので確信がもてない。しかし、墓誌の名前の中に命日が一緒で、戒名に「季」の字がある人がいるので、おそらくはこのお墓が季一郎の墓であると思われる。
このあと、伊藤博文の別荘に向かう統監道を歩いて、島崎藤村の終の棲家を見学した後、政界の奥座敷、別荘地群に向かう。前回訪れた時は工事中で入れなかったが、今回は入り口がちゃんとあいており、明治記念大磯邸園と表札もでている。
管理人「大隈邸と陸奥宗光邸を公開しています。あがって見られますよ。建物の構造がよく分かります」というので進むと、びっくり。建物がジャッキで四メートルもちあげられている。

私「上がるのは我々でなく建物かいっ」
なんでも、建物の基礎をなおすためにもちあげているそう。見ると施工主は国の事業といえば名前がでる隈研吾設計事務所。この事務所うちの近所でも[地元の反対をおしきって]公共建築をつくっているが、クレーンが動いているのをみたことない。国から仕事とりすぎてまわっていないんじゃないの。
ふと気づくと後ろに先ほどの管理人さんがいる。
私「これいつ本当に公開されるんですか。」
管理人さん「今年完成のはずなんですが、会計年度ですから来年の三月までです。でもホームページで確認してくださいね。西園寺邸と伊藤邸はそれがおわってからです」
私の心の声「これは来年三月の完成も怪しい」
管理人さん「早稲田の方とうかがいましたが、校友会とかにここにきてもらえるようにいってもらえませんか」
私の心の声「いや、その前に早く工事終わらせてよ」

こうして二年前と同じく再び内観ができないまま大磯別荘群の観覧は終わったのであったった。
駅をでると日差しがきつい。しかし白いワンピをきているせいか、海風があるせいか、さほど暑く感じられない。都内だとタワマンやコンクリの上を熱風が走るが、ここは海の上から風が吹いていくるからか。大磯海岸は美しいアオバトの飛来地として有名であり、私はまず観光案内所でアオバトが見られる時間帯をきく。「早朝」と瞬殺される。
大磯といえばロングビーチの海水浴場で有名であるが、実はここ軍医総監の松本(良)順(林董の実兄)が国民の健康増進のために西洋式の海水浴場を流行らせようと、明治17年に開業した日本初の海水浴場なのである。いろいろな地を検分した結果、ここ大磯を選んだのだ。

明治20年に鉄道駅が開設されると、明治23年には伊藤博文がこの地を気に入り、明治29年に小田原にあった別荘滄浪閣を大磯にうつし本籍も移した。続いて陸奥宗光は明治27年に、大隈重信は明治30年(大隈は三年しかすまず古川市兵衛に邸をゆずる)、明治32年には西園寺公望が別荘を購入し、かれら総理経験者の別荘は大磯駅にほど近い海岸際に仲良く↓の順番で並んでいた。
西園寺(再建)・伊藤博文・鍋島直大(現存せず)・大隈重信・陸奥宗光

総理にかぎらず政商の大倉喜八郎、安田善次郎や歌舞伎俳優なども同時期に別荘をかまえ、大磯は格の高いお土地柄へと変わって行く。歴代総理がお隣さん同士であったのはほんの短い期間であるが、その間日清・日露の戦争、義和団の乱などがおき、日本は大陸へどんどん深入りしていった。対外的な姿勢についてはさして意見の違わなかったかれらが、隣同士の気安さで海をみながら大陸について生臭い話していただろうなーと思うと、海風がいっそう生臭くなる。
それでは実際の散歩ルート、いってみよう。大磯駅前には三菱財閥(岩崎家)の三代目の長女、澤田美喜がたてたかの有名なエリザベス・サンダーホームがある。敗戦後の極貧の日本にあって、生活に窮した女たちは進駐軍とあーなってこーなった結果、望まない子供を妊娠するものもでてきた。相手は黒人や白人であるから、子供がうまれれば一目で進駐軍の兵士とよろしくやっていたことがばれる。このため、戦後まもなくハーフの捨て子が大量にでて社会問題となっていた。そのような子供たちが安心してくらして、教育をうけられるようにしたのが、このホームである。
もともとこの建物は三菱財閥の岩崎家の別荘であり、敗戦後の財閥解体により接収されていたが、澤田美喜がGHQとかけあって福祉施設にするということで買い戻したものだ。ここまでは美談なのだが、戦後まもない混乱期におきた国鉄三大事件の一つ、下山総裁横死事件に際して、澤田美喜の秘書をしていた上海帰りの男が逮捕されておりCIAの出先機関などといわれた時期があった(後釈放される)。真実は闇の中だが、もし下山総裁が自殺であったとするなら、出先機関云々の説はまさにいまはやりの誹謗中傷である。
ホームを横目にみながら海にむかうと、西行法師所縁の鴫立庵が道路の向こうにみえる。鴫立庵のわきには疎水が流れ、そこからふきこむ涼しい風と今年最初の蝉の声と青い空に、子供の頃の夏休みの始まりの記憶が蘇えりエモい。
近くにある大磯町役場の側面には「祝! 湘南の風〜」と垂れ幕がかかっている。

私「役場がバンドの応援しているのか」
学生「よく見て下さい、湘南乃風じゃありません。海です。しこ名です。最近幕内に入ったんですよ」
海岸にでると、なぜかたくさんの男がいる。着衣で大砲のようなカメラをもち、西湘バイパスの橋桁の影で涼んでいるので明らかに海水浴客ではない。アオバトとりにきたバード・ウォッチャーかとも思ったが、聞いてみると、「水着をきたおねえちゃんの撮影会」。昨今いろいろな公共プールをしめだされているから、いまや海岸でやっているのか。それにしても解せないのは、近くの水着女性とるのに、なぜあんな立派なカメラが必要なんだろう。わけわからん。
みなかったことにして、海岸にたつ松本順(一文字が違えば嵐の徳川家康)謝恩碑を確認し、新島襄終焉の地をみ、大磯駅の北側にある妙大寺にいく。ここには大磯海水浴場をつくった松本順ほか、樋口季一郎(1888-1970)の墓がある。松本順の墓はロータリークラブが整備してくれているのですぐわかったが、樋口季一郎の墓は写真がないのでなかなか見つからない。


樋口は日本の敗戦後、南下してくるソ連軍を占守島(千島列島の最北端)の戦いでくいとめ、北海道をソ連の占領からまもった軍人である。東京裁判の被告にされそうになったが、満州国の特務機関にいたころ、ユダヤ人の亡命者を満洲国経由で逃がしていた功績により、ユダヤ・ロビーが彼を戦犯認定しないようにアメリカに働きかけ、罪に問われなかった。この人は私のご先祖と同じく淡路島出身で、かつ、『ゴールデンカムイ』の最終回にもでてくる人なのでぜひお参りしておきたいところ。探していると樋口家の墓はあったが、墓誌は戒名しか刻まれていないので確信がもてない。しかし、墓誌の名前の中に命日が一緒で、戒名に「季」の字がある人がいるので、おそらくはこのお墓が季一郎の墓であると思われる。
このあと、伊藤博文の別荘に向かう統監道を歩いて、島崎藤村の終の棲家を見学した後、政界の奥座敷、別荘地群に向かう。前回訪れた時は工事中で入れなかったが、今回は入り口がちゃんとあいており、明治記念大磯邸園と表札もでている。
管理人「大隈邸と陸奥宗光邸を公開しています。あがって見られますよ。建物の構造がよく分かります」というので進むと、びっくり。建物がジャッキで四メートルもちあげられている。

私「上がるのは我々でなく建物かいっ」
なんでも、建物の基礎をなおすためにもちあげているそう。見ると施工主は国の事業といえば名前がでる隈研吾設計事務所。この事務所うちの近所でも[地元の反対をおしきって]公共建築をつくっているが、クレーンが動いているのをみたことない。国から仕事とりすぎてまわっていないんじゃないの。
ふと気づくと後ろに先ほどの管理人さんがいる。
私「これいつ本当に公開されるんですか。」
管理人さん「今年完成のはずなんですが、会計年度ですから来年の三月までです。でもホームページで確認してくださいね。西園寺邸と伊藤邸はそれがおわってからです」
私の心の声「これは来年三月の完成も怪しい」
管理人さん「早稲田の方とうかがいましたが、校友会とかにここにきてもらえるようにいってもらえませんか」
私の心の声「いや、その前に早く工事終わらせてよ」

こうして二年前と同じく再び内観ができないまま大磯別荘群の観覧は終わったのであったった。
伊東忠太のチベット風仏塔
伊東 忠太(1867-1954)は有名なジョサイア・コンドルの弟子で、平安神宮とか築地本願寺とか、ついでにいえばサハリン神社とか台湾伊勢神宮とかもつくった帝大卒の有名建築家。現在の自分の研究に何となく絡んでいるので、今年に入ってから、隙あらば伊東忠太建築をまわってきた。以下忘れないうちに気がついたことを記しておく。
●日泰寺舎利殿
3月22日に名古屋にいく用事があったため、伊東忠太が設計し1918年に名古屋の覚王山にたった仏舎利殿を見に行った。この寺は、タイの国王ラーマ五世から寄贈されたお釈迦様のお骨を奉納するために立てられた寺で、かつては日暹寺、現在は日泰寺という名で、今も昔も名前のまま日本とタイの友好の場となっている。特定の宗派に属さず管長は複数の宗派の長が輪番で行っているのも特徴的である。
ついでにいえば初代管長は伊東忠太のサポーターでもあり、ダライラマ13世とカリンポンで会見したこともある曹洞宗の日置黙仙である。ご縁があるのである。私の研究と(笑)。
覚王山駅で地下鉄をおりると、広大な参道がある。いかにも、かつては繁華な門前町があったであろう道幅だが、現在は団子屋と仏具屋の数軒が名残を留めるのみで、寂しい限り。境内は広大でご本尊はもちろんタイ式お釈迦様。仏舎利塔はこの広大な境内からさらに東北にむかって歩いた先にある。舎利殿までの道を歩いていると、道の脇に小さなお堂のようなものがたくさんある。小さいものはお地蔵さんのお堂くらい、大きいのはイナバの物置くらいある。うっそうとしげった森の中にそれらの小屋が点在しており、よくみると、一軒一軒が四国八十八箇所のうつしである。しかし、荒れ果てており、ホームレスの人が勝手にすみつくのか「お堂を勝手に改造しないでください」とか立て札がたっている。
かつてこの本堂から舎利殿までの道を昭和の巡礼者が88箇所めぐりも行いながら歩いていたのである。エンターティメントがお寺参りとか神社参りしかない時代には、ここがどれだけ栄えていたかと思うと、今の状況が悲しい。今はやさしくいっても心霊スポットである。
舎利殿につくと壁に囲まれて近づけず、一段高く木に囲まれているため、塀の外から中をみることもできない。台座しか見えない。でも大丈夫。私はネットでおとした写真も平面図ももってる。このたびは設置環境を確認しにきたのである。環境という意味で特筆すべきは、初代松坂屋の社長伊藤次郎左衛門が「仏舎利の近くに住みたい」と立てた別荘揚輝荘が近くにあり、かつては皇族・華族・実業家が集まっていたという。揚輝荘の庭の池には日泰寺の五重塔が逆さにうつるように設計されている。
この初代社長は家の行事として大般若転読をやるなど気合いのはいった仏教徒であった。私の目には大正、昭和初期の賑わう覚王山の姿がまぼろしのように見えたが、実際にあるのは揚輝荘をぶったぎる覚王山マンションである。帰り道、傷心を覚王山のスタバで癒す。
●総持寺のチベット仏塔
5月の連休、チベット・フェスティバルからの帰り電車をまっている時、仏像オタクのKくんがツイッターで総持寺の伊東忠太建築をまわったという記事を投稿していた。うらやましくなった私も翌日、総持寺駅におりたった。晴れてはいるがものすごい強風。地図をみると総持寺の広大な境内は駅近くなので、とりあえず適当に歩き出し、迷う。やっと境内に入り、後方にある墓地にはいると、K君からきいていたように、いきなり忠太のたてた田中家墓のチベット式仏塔が目に入る。これはすぐわかるから後にしよう。
総持寺は伊東忠太の作品が多く、この田中新七墓(1925年?) 以外にも、浅野セメントの初代社長の墓、林謙吉郎(1865-1920)の墓、何より伊東忠太の墓がある。これら田中、浅野、林らは当時関西で鉄道や東京でガス会社などを経営していた実業家たちである。
北陸の曹洞宗の名刹、総持寺が全焼して、再建を断念して鶴見にうつってきたのは1911年のこと。総持寺の宝物館の館長さんによると、当時は鶴見の町をあげてお寺を大歓迎したそうである。まもなくしてこのような実業家たちの墓がたっているのもその歓迎っぷりを示している。しかし、この寺も覚王山と同じく、今は町からの人の流れがない。広大な境内に信徒の姿がない。寂しい。
伊東忠太の墓はなかなかみつからずKくんに電話すると、「石原裕次郎のお墓のある通りをまっすぐ境内側に歩け」といわれ、やっと見つける。荒廃している。「このお墓の持ち主が分かる方は連絡ください」、的な看板がたっており、かなりヤバイ。15年くらい前の『東京人』の伊東忠太特集では伊東忠太の孫がインタビューされていたけど、あの人はいまどこにいるのだろう?。*(以下写真はすべてクリックするとおおきくなります)

最後に、楽しみにとっておいた、チベット式仏塔墓の田中新七墓にいく。近づいてみると仏塔の四面の一面ごとにチベット文字が二つずつきざまれている。反時計回りに一周してみるとオンマニペメフンとなった。チベットの観音真言である。そして残る正面にはShri m'aMと書いてある。ShrIは吉祥を意味するサンスクリット語、m'aMはそのままだと「母」。母音を表裏間違えて刻んでいたとするとmuM でお釈迦様の種字となる。このほかにも一面ごとに二つずつ花や傘のマークがあるが、これが純粋にチベット式なら八吉祥紋になるはずが、微妙に違う。なんともイラっとくるデザインであるが、このお墓ももう御世話をする人がいないのか伊東家のお墓と同じく管理者不在の立て看がたっている。

仏教の衰勢はおおうべくもない。明治・大正期の実業家たちの墓もこうして維持管理が放棄されはじめている。伊東忠太の建築史上における業績が忘れ去られれば、このチベット仏塔墓も処分されてしまうかもしれない。歴史家がこまめに記録していかないと一度目の前から失われるとそれは無になってしまう。
●護国寺で伊東忠太
5月28日、今度は護国寺でフィールドをする。護国寺は伊東忠太のサポーターの一人大倉財閥の創始者大倉喜八郎夫妻の墓があるのだ。もちろんお墓は伊東忠太のデザインである。当時名のある人の墓は一人一墓、しかも巨大なものゴリゴリ立てることが流行っていた。寛永寺墓地で渋沢栄一の墓をみたときはその巨大さに驚いたものだ。しかし、伊東忠太は仏塔形式の墓に家族で一緒にはいることを推奨していた。
忠太のたてた仏塔形式の建築物をリストアップすると以下のようになるが(リストは完璧ではない)、写真をみればわかるが大倉喜八郎の墓もふくめてなんとなく共通点がある。
1911 可睡斎護国塔(静岡)
1918 日泰寺舎利殿(名古屋市覚王山)
1920 林謙吉郎墓(総持寺)
1927 田中新七家墓(総持寺)
1928 大倉喜八郎墓(護国寺)
1931 中山法華経寺聖教殿(市川市)
1934 築地本願寺(築地)
1938 鮎川家墓(多磨霊園)


忠太はこの手のエキゾチック仏塔をガンダーラ式とよんでいる。覆鉢部分はガンダーラ式曲線にみえるが、しかし、相輪部分(塔のトップ部分)はチベット仏塔に近い。以下の写真で、伊東のフィールドノートに記されたチベット式仏塔の相輪部とガンダーラ式仏塔の相輪部を比べてほしい。

とくに可睡斎の護国塔、日泰寺舎利殿、総持寺の田中家墓はかなりチベット仏塔よりである。中でも一番チベットそのままは田中家であろう。オンマニペメフンがサンスクリット文字ではなく、チベット文字で彫り込まれていることもチベット式に伊東がかなり精通していたことを示している。
忠太はたくさんの建築を手がけたが、官公庁とかビルはてがけず、宗教建築(寺社墓)や政治家や実業家の邸宅を主に手がけていた。西洋建築には否定的で、神社をたてる時はちゃんと神社としてたて、和洋折衷の帝冠様式を嫌っていたそうだ。
「じゃあ築地本願寺はなんであんなにエキゾチックなんだよ」と考えたあなた、あなたのお寺のイメージは日本のお寺ではありませんか? 忠太のたてるお寺や仏塔は、1900年前後に発掘などによって明らかになってきた紀元前後の初期仏教の精舎形式、仏塔形式なのである。仏教を日本仏教ばかりか、インドからガンダーラをとおって、中国、日本、東南アジアに展開する世界宗教ととしてとらえた結果、源流にもどるあのようなデザインなっているのだ。
忠太は1902年から1905年まで、中国、雲南、ビルマ、インド、トルコなどをまわって建築調査を行い、その後も満洲で清朝皇帝の夏の離宮熱河の保護にあたっている。距離的にも近い、北京や満洲でみたチベット式の仏塔に影響を受けた作品が初期から昭和期まで存在するのもむべなるかなである。
●日泰寺舎利殿
3月22日に名古屋にいく用事があったため、伊東忠太が設計し1918年に名古屋の覚王山にたった仏舎利殿を見に行った。この寺は、タイの国王ラーマ五世から寄贈されたお釈迦様のお骨を奉納するために立てられた寺で、かつては日暹寺、現在は日泰寺という名で、今も昔も名前のまま日本とタイの友好の場となっている。特定の宗派に属さず管長は複数の宗派の長が輪番で行っているのも特徴的である。
ついでにいえば初代管長は伊東忠太のサポーターでもあり、ダライラマ13世とカリンポンで会見したこともある曹洞宗の日置黙仙である。ご縁があるのである。私の研究と(笑)。
覚王山駅で地下鉄をおりると、広大な参道がある。いかにも、かつては繁華な門前町があったであろう道幅だが、現在は団子屋と仏具屋の数軒が名残を留めるのみで、寂しい限り。境内は広大でご本尊はもちろんタイ式お釈迦様。仏舎利塔はこの広大な境内からさらに東北にむかって歩いた先にある。舎利殿までの道を歩いていると、道の脇に小さなお堂のようなものがたくさんある。小さいものはお地蔵さんのお堂くらい、大きいのはイナバの物置くらいある。うっそうとしげった森の中にそれらの小屋が点在しており、よくみると、一軒一軒が四国八十八箇所のうつしである。しかし、荒れ果てており、ホームレスの人が勝手にすみつくのか「お堂を勝手に改造しないでください」とか立て札がたっている。
かつてこの本堂から舎利殿までの道を昭和の巡礼者が88箇所めぐりも行いながら歩いていたのである。エンターティメントがお寺参りとか神社参りしかない時代には、ここがどれだけ栄えていたかと思うと、今の状況が悲しい。今はやさしくいっても心霊スポットである。
舎利殿につくと壁に囲まれて近づけず、一段高く木に囲まれているため、塀の外から中をみることもできない。台座しか見えない。でも大丈夫。私はネットでおとした写真も平面図ももってる。このたびは設置環境を確認しにきたのである。環境という意味で特筆すべきは、初代松坂屋の社長伊藤次郎左衛門が「仏舎利の近くに住みたい」と立てた別荘揚輝荘が近くにあり、かつては皇族・華族・実業家が集まっていたという。揚輝荘の庭の池には日泰寺の五重塔が逆さにうつるように設計されている。
この初代社長は家の行事として大般若転読をやるなど気合いのはいった仏教徒であった。私の目には大正、昭和初期の賑わう覚王山の姿がまぼろしのように見えたが、実際にあるのは揚輝荘をぶったぎる覚王山マンションである。帰り道、傷心を覚王山のスタバで癒す。
●総持寺のチベット仏塔
5月の連休、チベット・フェスティバルからの帰り電車をまっている時、仏像オタクのKくんがツイッターで総持寺の伊東忠太建築をまわったという記事を投稿していた。うらやましくなった私も翌日、総持寺駅におりたった。晴れてはいるがものすごい強風。地図をみると総持寺の広大な境内は駅近くなので、とりあえず適当に歩き出し、迷う。やっと境内に入り、後方にある墓地にはいると、K君からきいていたように、いきなり忠太のたてた田中家墓のチベット式仏塔が目に入る。これはすぐわかるから後にしよう。
総持寺は伊東忠太の作品が多く、この田中新七墓(1925年?) 以外にも、浅野セメントの初代社長の墓、林謙吉郎(1865-1920)の墓、何より伊東忠太の墓がある。これら田中、浅野、林らは当時関西で鉄道や東京でガス会社などを経営していた実業家たちである。
北陸の曹洞宗の名刹、総持寺が全焼して、再建を断念して鶴見にうつってきたのは1911年のこと。総持寺の宝物館の館長さんによると、当時は鶴見の町をあげてお寺を大歓迎したそうである。まもなくしてこのような実業家たちの墓がたっているのもその歓迎っぷりを示している。しかし、この寺も覚王山と同じく、今は町からの人の流れがない。広大な境内に信徒の姿がない。寂しい。
伊東忠太の墓はなかなかみつからずKくんに電話すると、「石原裕次郎のお墓のある通りをまっすぐ境内側に歩け」といわれ、やっと見つける。荒廃している。「このお墓の持ち主が分かる方は連絡ください」、的な看板がたっており、かなりヤバイ。15年くらい前の『東京人』の伊東忠太特集では伊東忠太の孫がインタビューされていたけど、あの人はいまどこにいるのだろう?。*(以下写真はすべてクリックするとおおきくなります)

最後に、楽しみにとっておいた、チベット式仏塔墓の田中新七墓にいく。近づいてみると仏塔の四面の一面ごとにチベット文字が二つずつきざまれている。反時計回りに一周してみるとオンマニペメフンとなった。チベットの観音真言である。そして残る正面にはShri m'aMと書いてある。ShrIは吉祥を意味するサンスクリット語、m'aMはそのままだと「母」。母音を表裏間違えて刻んでいたとするとmuM でお釈迦様の種字となる。このほかにも一面ごとに二つずつ花や傘のマークがあるが、これが純粋にチベット式なら八吉祥紋になるはずが、微妙に違う。なんともイラっとくるデザインであるが、このお墓ももう御世話をする人がいないのか伊東家のお墓と同じく管理者不在の立て看がたっている。

仏教の衰勢はおおうべくもない。明治・大正期の実業家たちの墓もこうして維持管理が放棄されはじめている。伊東忠太の建築史上における業績が忘れ去られれば、このチベット仏塔墓も処分されてしまうかもしれない。歴史家がこまめに記録していかないと一度目の前から失われるとそれは無になってしまう。
●護国寺で伊東忠太
5月28日、今度は護国寺でフィールドをする。護国寺は伊東忠太のサポーターの一人大倉財閥の創始者大倉喜八郎夫妻の墓があるのだ。もちろんお墓は伊東忠太のデザインである。当時名のある人の墓は一人一墓、しかも巨大なものゴリゴリ立てることが流行っていた。寛永寺墓地で渋沢栄一の墓をみたときはその巨大さに驚いたものだ。しかし、伊東忠太は仏塔形式の墓に家族で一緒にはいることを推奨していた。
忠太のたてた仏塔形式の建築物をリストアップすると以下のようになるが(リストは完璧ではない)、写真をみればわかるが大倉喜八郎の墓もふくめてなんとなく共通点がある。
1911 可睡斎護国塔(静岡)
1918 日泰寺舎利殿(名古屋市覚王山)
1920 林謙吉郎墓(総持寺)
1927 田中新七家墓(総持寺)
1928 大倉喜八郎墓(護国寺)
1931 中山法華経寺聖教殿(市川市)
1934 築地本願寺(築地)
1938 鮎川家墓(多磨霊園)


忠太はこの手のエキゾチック仏塔をガンダーラ式とよんでいる。覆鉢部分はガンダーラ式曲線にみえるが、しかし、相輪部分(塔のトップ部分)はチベット仏塔に近い。以下の写真で、伊東のフィールドノートに記されたチベット式仏塔の相輪部とガンダーラ式仏塔の相輪部を比べてほしい。

とくに可睡斎の護国塔、日泰寺舎利殿、総持寺の田中家墓はかなりチベット仏塔よりである。中でも一番チベットそのままは田中家であろう。オンマニペメフンがサンスクリット文字ではなく、チベット文字で彫り込まれていることもチベット式に伊東がかなり精通していたことを示している。
忠太はたくさんの建築を手がけたが、官公庁とかビルはてがけず、宗教建築(寺社墓)や政治家や実業家の邸宅を主に手がけていた。西洋建築には否定的で、神社をたてる時はちゃんと神社としてたて、和洋折衷の帝冠様式を嫌っていたそうだ。
「じゃあ築地本願寺はなんであんなにエキゾチックなんだよ」と考えたあなた、あなたのお寺のイメージは日本のお寺ではありませんか? 忠太のたてるお寺や仏塔は、1900年前後に発掘などによって明らかになってきた紀元前後の初期仏教の精舎形式、仏塔形式なのである。仏教を日本仏教ばかりか、インドからガンダーラをとおって、中国、日本、東南アジアに展開する世界宗教ととしてとらえた結果、源流にもどるあのようなデザインなっているのだ。
忠太は1902年から1905年まで、中国、雲南、ビルマ、インド、トルコなどをまわって建築調査を行い、その後も満洲で清朝皇帝の夏の離宮熱河の保護にあたっている。距離的にも近い、北京や満洲でみたチベット式の仏塔に影響を受けた作品が初期から昭和期まで存在するのもむべなるかなである。
トンドゥプ・ワンチェン氏収監中の10年について証言

トンドゥプ・ワンチェン(Don grub dbang chen)氏が来日して十年間の中国での収監生活について証言します。
北京オリンピック前に本土チベット人の生の声をあつめたドキュメンタリーをとったことを理由に投獄され、十年後にアメリカに亡命した方です。このドキュメンタリー『恐怖を乗り越えて」はかつて当ブログでその内容を紹介させていただいています(詳しくはここ)。
政府の悪口をいっても間違った情報をながしても逮捕されない日本にいては、事実を「記録」しただけで投獄されることは、想像もつかないことと思います(フィルムは逮捕前に別の人によって国外にでた)。これがお隣の国の現実です。
アムネスティーインターナショナルなどにより、各地で証言会が行われます。プログラムの詳細や会費の有無は受け入れ先によって異なると思われますので、お問い合わせください。

◉トンドゥプさんの講演スケジュール◉
●東京
日時: 5月26日(金)19:00〜(18:30オープン)
場所:【明治大学グローバルホール】千代田区神田駿河台2-1明治大学駿河台キャンパス「グローバルフロント」内
主催:「チベット映画上映&トーク」実行委員会 family_of_tibetan_asylees@ googlegroups.com
共催:明治大学現代中国研究所、アムネスティ・インターナショナル日本 中国チーム
●東京
日時:5月27日(土)14:00〜(13:30オープン)※家族4人(ラモツォと娘2人も参加)でトーク
場所:【ふれあい貸し会議室】新宿区新宿4-2-21 相模ビル7階
参加費:1000円
事前申し込み不要
主催:「チベット映画上映&トーク」実行委員会
family_of_tibetan_asylees@ googlegroups.com
共催:アムネスティ・インターナショナル日本 中国チーム
●名古屋
日時: 5月28日(日)14:00〜(13:30オープン)
場所:【名古屋YWCA 2階ホール】 名古屋市中区新栄町2-3
主催:アムネスティ・インターナショナル日本 名古屋グループ
共催:明治大学現代中国研究所、アムネスティ・ インターナショナル日本 中国チーム
問合先:TEL.090-3657-8392(津田)
●福岡
「伝えたい 知って欲しい ただそれだけ」
日時:6月 3日(土)14:00〜(13:30オープン)
場所:【福岡市市民福祉プラザ 5階視聴覚室】福岡市中央区荒戸3-3-39
主催: チベットを知る会
参加費 1,000 円(大学生以下無料)
問合せ先 info@AboutTibet.net
ドキュメンタリー映画「Leaving Fear Behind」
ワンチェンさんの講演
●大阪
6月 4日(日)13:00〜(12:30オープン)
場所:【金光教大阪センター】大阪市中央区久太郎町1-4-13
主催:スーパーサンガ
サイト: https://supersamgha.jp/info/1901/
平和祈念法要
映画上映『ラモツォの亡命ノート』
特別講演『チベット亡命者 空白の10年を語る』
●広島
6月 8日(木)19:00〜
場所:【合人社ウェンディひと・まちプラザ マルチメディアスタジオ】 広島市中区袋町6-36
主催:アムネスティ・インターナショナル日本 ひろしまグループ
問合先:090-3177-7336(野間)
●高知
日時:6月10日(土)14:00〜(13:30オープン)
場所:【高知市立自由民権記念館ホール】高知市桟橋通4-14-3
主催: བོད་(ぷー)ふぇす実行委員
問合先:090-2824-2118
●鎌倉
日時:6月11日(日) 16:45〜(16:30オープン)
場所:きらら鎌倉(鎌倉生涯学習センター)第6集会室 鎌倉市小町1-10-5
主催:アムネスティ・インターナショナル日本 鎌倉グループ
問合先:amnesty.kamakura@gmail.com
協力:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所