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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2021/04/18(日)   CATEGORY: 未分類
ブータンとイスラムを都内で堪能
16日午後、日米共同声明の中で、52年ぶりに台湾海峡の平和と安定の重要性が言及され、さらに香港と新疆ウイグル自治区の人権問題への懸念をも表明された。この声明は日米中関係の歴史的な転換点といえる。
現在の習近平指導部の力による現状変更は国際社会からの孤立を招いており、これはかつての日本のたどった道を彷彿とさせる。歴史の国中国であれば、このままいけばどんな結末となるかわかりそうなものだが、今のところはわかっていないよう。
 
 さて、本題です。ブータン留学から帰った学生Tさんからブータン料理の食材を戴いたので、ブータン料理の作り方を知りたくなった。レシピはクックパッドとかに転がっていないので、日本で唯一ブータン料理を提供する店である代々木上原のガテモタブン向かった。孤独のグルメでも紹介された代表的なブータン料理店である。お供は院生Wくん。私は料理に対する情熱がナッシングなので、料理がとくいな院生Wくんを巻き込んで作って貰おうという腹黒い作戦である。
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 余談であるがガテモタブンってチベット語の綴りが思い浮かばないと思ったらただのブータンと多分をかけあわせた親父ダジャレらしい。

 さてここで一口マメ知識。ブータンはチベット文化圏であるが、政治的にはチベットと微妙な関係にある。ダライラマ5世が1642年にチベットに政教一致のダライラマ政権をつくりあげたほぼ同時期にドゥクパ・カギュ派がブータンに政権を確立した。両者は宗派が異なることもあり17世紀には衝突を重ね、ダライラマ政権とは距離をとった存在であった。そうこうするうちに1951年、人民解放軍がチベットを蹂躙した。

 Tさんによると、ブータンの人はチベット人をもちろん嫌いではないけど、チベットが中国に滅ぼされた時は、「あー、やっぱりね」と微妙な反応をしたそうな。それは歴代ダライラマ政権が中国皇帝やモンゴル王公の帰依をうけることで繁栄する一方、彼等の干渉をまねいたことに対する「やっばりね」である。

 ちなみにブータンは中国とインドという二大大国に囲まれており、力でおしてくる中国は大嫌いで、主にインドに依存している。が、だからといってインドを全面的に好きではないという、大国にはさまれた国にありがちな立ち位置である。

 Tさんにうかがったブータンの食生活はモモ以外はあまりチベットとにていない。チベットは高地で寒冷なので米はとれないが、ブータンでは全国民の需要をまかなう米が国内でとれるとのこと。代表的なブータン料理、エマダツィは米と唐辛子とチーズを一皿にもりあわせたものでそれを毎日戴くのだそうな。これがチベットだと大麦を粉末にひいてそこにバター茶をかけるツァンパってことになるから、主食レベルで随分違う。
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 お店ではエマダツィのランチをたのむ。美味しいまずい以前の問題で辛くて完食できない。チーズフォンデュで唐辛子を食べているといえばわかるだろうか。孤独のグルメでは主人公が料理を食べ続けるうちに唐辛子が調味料から野菜へとパラダイムシフトした、といっていたが、辛くて完食できずそのシフトが起きない。

 Tさんによるとヤクのしぼりたてのミルクからつくられたチーズで食べるとエマダツィはすっごい美味しいそうだが、日本にはヤクおらんし、唐辛子もブータンの唐辛子は日本のものとは異なるのでそのあたりが原因か。

 とにもかくにもブータン料理の偵察を終えて、当初は家に帰ってチベット語のオンライン授業をやるところだったのだが、行きの電車で東京ジャーミー(イスラムーのお寺)が近くにあることがわかったので前から是非是非いってみたかったのでMくんに授業時間をずらしてくれと頼んでジャーミーに向かう。
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 Wくん「モスクって異教徒とか女性ははいれないんじゃないですか」 

 私「このモスクは在日トルコ人が経営していて、トルコはイスラム圏でも世俗化が進んでいるので大丈夫。とくに日本だと『中で何やっているかわからない』という評判がたつとイスラム教徒全体があやしい目でみられるから礼拝時間以外は人をいれてるの。海外のモスクじゃこうはいかないから絶対行かないと」
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 礼拝堂にはいるには女性は貸しスカーフで髪を包むことになっている。さらにコロナでマスクをしていたのであとで自分の写真みたら中東のイスラム女性みたいな風貌になった。Wくんはびびって入ろうとしない。私は気にせず礼拝堂に入ると、正面にメッカのカーバ神殿の方角を示すキブラがあり、その右側にイマームの説教台。カリグラフィーに囲まれもちろん偶像がいっこもない空間はうっとりするほど美しいトルコのモスク。

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館内にはハラール食品をうるスーパー、そして食堂もある。この食堂は異教徒でも入れるが、現在ラマダーンなので人がまばら。コーヒーとチャイを頼むが、イスラーム教徒ならラマダン中は本当は水をのんでもいけないので申し訳ない。モスクの入り口にはイスラームの基本知識やムハンマドの生涯と教えを記した無料の啓蒙本が一杯おいてあり、とりあえず一セットいただく。東京ジャーミーの案内パンフは礼拝堂の中のクルーアンを引用したアラビア語のカリグラフィーをすべて解説してくれていてとても便利。
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 トルコの文化を紹介するイベントも定期的に開かれているようなので、イスラム圏について知りたい方、トルコが好きな方、また、代々木上原でたまたま下車した方、ブータン料理に東京ジャーミーなど多角的に楽しめますので是非どうぞ。
 
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DATE: 2021/04/06(火)   CATEGORY: 未分類
GWに読みたいチベット本
 ここ半年、チベット関連の書籍を多数寄贈戴いたものの、個人的な疾風怒濤で御礼もご紹介も遅れに遅れ、私の心の中には不義理の嵐が吹き荒れていた。このままではまずい・・と思いつつも新学期が始まってしまった。こうなったらここでやるしかない。とにかくコロナで身動きできないGWはチベットの本を読みましょう。

 最初にご紹介する二冊はいずれもチベット人の著者によるもので、1950年にはじまる中国共産党の東チベット侵攻の歴史の体験や見聞を下敷きにした小説で、物語としても面白く仕上がっている。また日本人の手になる後二冊は、前者は仏教、後者はチベットの歴史と社会について専門書と一般書をつないでくれる平易な解説書なので、概説以上のことを知りたい方、これから専門的に学びたい方は是非お手にとってご覧ください。

では、アムロ、いきまーす!
 

『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』(ツェワン・イシェ・ペンバ(1932-2011) 著 星泉訳 書肆侃侃房)
白い鶴

 著者のペンバ氏はチベット人として初めて西洋医学を学び、英語で自伝と小説を書いた方。小説の舞台は1925年、東チベットの秘境ニャロン、主人公はこの地に宣教に入ったアメリカ人の宣教師夫妻である。彼等はニャロンの地な一定程度受け入れられるが、1950年、中国共産党の侵攻が始まるに及びすべてが終わる。タイトルの『白い鶴よ翼を貸しておくれ』は中国に護送途上青海でなくなったダライラマ6世の辞世の句からとったもの。

『ナクツァン あるチベット人少年の真実の物語 』(ナクツァン・ヌロ著 棚瀬慈郎訳 集広舎)
ナクツァン

 著者の自伝的小説。1950年代の中国共産党によるアムド(東北チベット)における弾圧の体験が反映しており、チベット現代史の研究にとっても価値ある証言である。

『構築された仏教思想 ツォンカパ』(松本峰哲著 佼成出版社)
松本哲峰

 著者は種智院大学の先生でカーラチャクラ・タントラを専門とされている方。チベット仏教最大宗派ゲルク派の開祖ツォンカパの生涯、その代表作である『ラムリム』すなわち、『悟りの道にいたるための修行階梯』についての詳しい解説書。

『チベットの歴史と社会』上巻〔歴史篇・宗教篇〕下巻〔社会篇・言語篇〕(岩尾一史・池田巧編 臨川書店)

 主編のお二人の先生は京都大学系であり、彼等の提供した場に集う"脂ののった"若手から中堅のチベット研究者が、それぞれの得意分野からチベットの様々な側面を自由に執筆した"集合体"が本書である。
岩尾本

 80年代まではチベット学の研究者は減る一方で、チベット学会の大会では発表者を探すのが大変だった。その頃私は「このままではチベットはマジで忘れ去られる。チベット学が消えてしまえば、チベットの輝かしい歴史(17世紀のダライラマの権威は宣教師をして東洋のローマ法王と言わしめていた程)と世界に誇る仏教哲学(モンゴル・満洲など帝国のトップを必ず魅了するレベルの高さ)は世界から忘却されてしまう、と不安に駆られていたが、その後、チベットを研究する学者は世界的に増加し、このように日本においても若手から中堅の学者がたくさん出現し杞憂に終わった。

 今度はこの若手・中堅が次の世代を育てチベットの精神文化が忘れ去られることのないように次代につないでいってもらいたい。
 

 
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DATE: 2021/03/23(火)   CATEGORY: 未分類
中陰(仮住まい)の日々
 三月四日に立て直した自宅に戻り、トラック四台分のゴミ引っ越し荷物の荷ほどきが、いつ果てるともなく続いている。

 捨てる決心がつかずに仮住まいにもって行ったものを、また新しい自宅にもって戻り、まだ捨てる決心がつかないため、引っ越しとはゴミが右往左往することなのだと思う。

 一区切りついたので、仮住まい中の心理変化について忘れない内に記録しておきたい。生まれた時から同じ家に住み続けていた自分にとって、自宅が更地になり、新しい自宅にもどるまでは本当に心許なく、仏教でいう「中陰」すなわち、肉体が死んだ後、意識が次の体に入るまでの過渡期のような気分であった。以下三期(阿倍仲麻呂期、住めば都期、遷宮期)にわけてお話ししたい。

●阿倍仲麻呂期

9月2日 

 仮住まいに引っ越す。仮住まいは駅から遠く、風呂場にナメクジがでるほど古く,押し入れに白塗りの子がでてきそうな昭和物件。はじめは「何か」がいるような気がして怖くて仕方がなかった。

 その上、アコギな不動産業者は、ペットが傷つけないように襖と障子をはずして住めと言うので、夏は暑く冬は八寒地獄でつらいのなんの。その上配電が悪く鳥の部屋と猫の部屋の両方のエアコンをつけるとブレーカーがおちる。一階と二階のリビングを同じブレーカーにまとめるってどんな仕様よ。さらに、リビングの電気が壊れ、ガスが漏れ2回も業者が修理に入った。

 こんな貸し家であったたため、引っ越し当初は自宅が恋しく、引っ越しの疲労もあり、めまい・頭痛・急激な視力低下など体調絶不調。遠回りして自宅近くのスーパーで買い物をすると、今はない自宅に戻りたくなりメンタルも絶不調。引っ越しの日がくしくも満月であったため、満月をみるたびに、「あと何回満月がくれば自宅に戻れる」と指折り数え、気分は唐の長安で月をみて故郷を懐かしんだ阿倍仲麻呂

 生まれ育った家が解体されるのは見るにたえないので、引っ越した後は、自宅方面に足を向けることを意識的に避けていたが、一度夜中に用があって自宅近くまでいった時、遠目に家があったはずの場所に闇の空間が拡がっているのを見てしまい、何ともいえない暗い気持ちになった。

10月3日
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 しかし、自宅がなくなった現実を直視せねばならない日がやってきた。地鎮祭である。この日、工事関係者ならびに施工主が集まってお祓いをうけ、工事の安全を祈願する(私はあらゆる験を担ぐ)。庭の一角を残して更地になったわが家を見るのはとてもつらかった。庭にいた蛙やヤモリの行く末を考えると胸が痛い。本当はボロ屋で死にたかった。

 丁度この時期、愛鳥(オカメインコのごろう様) の一族である合気道道場の二階で自由にいきる58羽のオカメインコたちも、道場主がなくなって里子にだされ離散したため、私も愛鳥もともに難民である。帰る家がなくなるというのは本当に心許ない。メンタル中陰である。

10月20日
 この日、あらかた仕上がった自宅の基礎に、地鎮祭で授かった人形(ひとがた)と興福寺の鎮め物の中にもある魔除けの水晶玉を、浄水で清めて基礎の四方に埋めた。

 折角チベットを研究しているので、チベットでは新しい家を建てるときどんなものを基礎に埋めるのかを清風学園の平岡先生に伺う。先生「チューロ・リンポチェに聞いてみます」と勢いよく請け合われた。

 暫くして電話があり「リンポチェが砂マンダラの砂がいいというので、ガワン先生がギュメ大僧院の座主をつとめていらした時御作りになった、グヒヤサマージャの砂マンダラの砂をほんとうに数粒ですがおわけします。この砂は亡くなられた方の額につけると良い転生をするというお加持のあるものです」とのこと。
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 なので新居の基礎には水晶玉と砂マンダラの砂が埋まっている。

●住めば都期
 
 12月7日 

棟上げ式。朝十時から工事関係者が揃いふみで骨組みができた自宅の内覧をする。更地になった時に極限まで不安定になったわが精神は、家の形がともかくもできたことにより、この日を境に安定し始めた。何事もなければ同じ間取りで同じ庭がみえるこの家に来年三月には入れる。転生先の肉体がきまったような安心感(笑)。
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 また、この頃、不思議なもので、仮住まいになじんできた。おそらく、愛鳥と愛猫、チベットのご本尊群が入ったことにより、呪われた昭和家屋は「私の家」になってきたのだ。

 気がつけば仮住まいの二階の西向きの窓は見晴らしがよく、朝焼け夕焼けの富士山をみることができ、夜になるとコスギのビル群の夜景が美しい。また目の前には公園があり、秋は紅葉が美しく、初春は梅の香りが楽しめた。晴れた日、人がいないのをみはからって、昼ご飯をお盆にのせて公園で食べたら気持ちよかった。
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 また、近くに大学のキャンパスや風致地区となっている公園があるため、散歩や買い物が楽しい。ナメクジがでたり、下水が臭ったり、あちこち故障したりと、とさまざまな障害に直面しつつも、朝美しい富士山をみると「まっいっか」と全てがどうでもよくなった。

 仮住まいの目の前には江戸時代からの聖地を結ぶ古い道があり、裏手に地域で唯一残った幕末の郷倉があり、徒歩数分のところに鎮守の神社もある。家から道をみると江戸時代の巡礼が歩いているのがみえるようで歴史の学徒として嬉しいロケーションであった。
 
 12月21日 
 冬至の日の夜 約400年ぶりに超接近した木星と土星が二階の窓からきれいにみえた。空が開けている家はそれだけで精神衛生にいい(写真は冬至の日に近辺でとった写真のプレビュー。朝は富士山がきれいにみえ夜は金星と土星がきれいだった)。
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2021年1月1日
 年明けとともに鎮守さまに初詣。コロナを理由に毎年のお振る舞いの甘酒はなしとのことで、神主さんにお祓いをしていただき、福箸を授かる。しかし、今年初めてなので例年との差がわからず結構満足する。この鎮守様、仮住まいから駅前に買い物にいく途中にあり、富士山が見える絶景ポイントであり、中陰の間、アホほど通った。

 一月から二月にかけて、自宅は内装工事が入り、やがて足場がはずれ、配線工事が入り、完成に近づいていった。

 2月13日(土)
 23時08分頃、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生した。仮住まいは武蔵野の斜面にたっているので(だから見晴らしがいい)、この地震でものすごい揺れてびびった。新築自宅は地震・火災・大風・豪雨に強い造りとのことなので、ひっこせばこの不安はなくなるはず。

●新居へ遷宮

 2月27日
 関係者が集まって、自宅の仕上がり具合の確認が行われた。引き渡しは書類の都合で三月四日となるが、事実上はこの日が竣工日。奇しくも引っ越しの日より六回目の満月の日、さらにチベット暦正月15日の吉日であった。

 3月4日
 新居の鍵の引き渡しと同時に引っ越しを行った。造園業者に70万円とられたキンモクセイの移植はこの前日に搬入されていた。全体に外構にはいろいろ問題があった。引っ越し当日、キレイなものを先にいれるのが縁起がいいというので、まずは我が家のご神体、お鳥様とターラー尊を院生W くんに車だしてもらっておうつしする。

それからトラック四台で家具や本のはいったダンボール箱を運ぶ。業界では学者の引っ越しは本が多いので大変と言われているらしいが、運ぶ人はまだいい。この箱をあけて本棚にうつす私はもっと大変である。

 3月6日
 仮住まいを明け渡す手続きを行う。何もかも運び出された家はまた前と同じ気味の悪い空き家に戻った。これは私がこの家を自宅とみなさなくなったことによるものなのか、カラッポであることがそうみさせているのか、どちらかと言えば後者ではないかと思う。

 二年前淡路島にリトリートをたてたYさんは、こうおっしゃる。

私はリトリートを建てたあとも、仕事で東京や大阪に滞在することが多くて、リトリートに本当に腰を落ち着けたのは建って一年後だったんです。そうして落ち着いたある朝、なんか吉祥な感じがするので、庭にでてみると、私がこの土地を買う前からあった涸れ井戸に水が湧いていたんですよ。

 彼女曰く家でも精神でもカラッポのままだとよくないものがはいってくるのだという。

 そうか。何もない家はただの器であり、そこに誰かが住んで、愛するものを守り、良い仕事をしていくうちにその場がよいもの=自分の家になっていくのか。うちには涸れ井戸はないが、この器としての家を良い感情で満たし、論文や仕事が泉のようにわいてくる場にしていかなければならない。

 
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DATE: 2021/03/13(土)   CATEGORY: 未分類
チベット暦正月のチベット界隈ニュース
2021年3月10日は62回目のチベット蜂起記念日。亡命第一世代はどんどん鬼籍に入り、欧米の中国批判が強力であった期間に成長した第二世代は多少希望をもっていたものの、中国が経済・軍事において強大化する中、現在第三世代を中心とした全世代に無力感が拡がっているという。

 ここにきて風向きは少し変わり始めてもいる。これまで世界は中国市場を失いたくないがために、中国政府のさまざまな問題点に目をつぶってきた。しかし、香港の民主派をつぶし、ミャンマーの軍事政権のクーデターを援護し、ウイグル人を収容所にいれ年年軍事費を増強し太平洋に軍事進出し、はてはコロナの震源地となった中国に対し、EU、イギリス、アメリカは態度を変え、中国の問題点をはっきり指摘するようになってきた。その副産物で中国は日本に秋波を送り始めているが、これに飛びつきそうな二階幹事長は国内で右からも左からも袋だたきにあっている。

 先進国はもう中国警戒モード全開。

 こんな中国にチベットは62年支配されてきたのである(東チベットはもっと長く1905年から)。先頃、アメリカのフリーダム・ハウスが発表する、「世界自由度ランキング」(政治的権利・市民の自由にたいするアクセスレベルで計る)では,本土チベットはシリアとならんで世界でもっとも「自由のない国」と認定された(ソースはここ)。

  明るいニュースとしては、コロナが猖獗を極めるインドにおいてもワクチンの接種がはじまり、最近ダライラマ法王も第一回目のワクチンを接種受けた。以下がそのニュースです。

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●コロナ: ダライラマは最初の接種を受け、みなにワクチン接種を呼びかける(ソースはここ) CTA news 2021年3月7日 

チベットの精神指導者ダライラマはダラムサラの使節でオークスフォード・アストラゼネカのコロナ・ワクチンの最初の摂取を受け、接種対象者に「これは本当に本当に有益なものです。」と勧めた。
インドは1月16日からワクチン接種を開始しているが、それは医療従事者や最前線の関係者に限定されていた。


 最後に、2月27日の満月の日に行われた祈願会のクライマックスについて報告したCTAの記事を抄訳する。コロナ禍においてもチベットは各地をつないでバーチャルに祈願会を行い、伝統の法王法話も発信された。亡命しようが、コロナ下であろうがなんであれ伝統儀礼をきちんと行うチベットの気合いがつたわってくる。


●ダライラマ猊下が大祈願会の満月の法話を行う。
(ソースはここ)CTA news 2021年2月28日

ダライラマ猊下がダラムサラのお住まいのウェブカメラの前に登場されると、デプン大僧院の声明師(dbu mdzad)が重低音で祈願文の出だしを読誦した。それから『般若心経』を唱え、次にセラ大僧院の声明師が『悟りに至る階梯(lam rim)思想の系譜に捧げる祈願文』を唱え、最後にガンデン大僧院の声明師が[導師に教えを請う象徴的所作である]マンダラ奉呈を行った。これらはみなウェブカメラの中で行われ、ダライラマ法王はガンデン大僧院の現座主、元座主、前座主、主立った転生僧たち、ラダックの発心協会(Semkye Association)の僧侶たちをウェブ上でご覧になっていた。

ここで法王はパンディタ帽を一瞬かぶると祈願文の導入部を唱え、法話を開始した。
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「この法話会は大祈願会の一部として行われています。我々は[コロナで]対面では集まれないので、オンラインで集っています。祈願会の所作は非常に複雑で私は午後の法要をリードするために練習をしなければなりません。極楽に関する祈願文です。あまりに緊張していたので、あたりに鳥がとんでいるのも気づきませんでした。」

「私たちはパンデミックで対面で集まる事はできませんが、問題ありません。私の法話はどこからでもアクセスできるからです。もし中国に支配されているチベットの人々がそこにいるなら嬉しいですが。伝統に則り、私はまず前回途中まで話した仏様の前世のお話しをして、その後、ナーガールジュナの著された『宝行王正論』からのお話しをいたします。」

 「 我々は今21世紀を生きていますが、チベット人の多くは難民として亡命の地にあります。仏の教えは弟子達のニーズと性質に応じて授けられ、論理と理性を用いる鋭い知性によって保持されてきました。仏教はいまや多くの地域に広がり、さらに多くの人々の関心を引いています。」

 「歴史のお話しをすれば、七世紀に観音菩薩の化身として知られるソンツェンガムポ王が洞察力をもって中国と関係をもち、中国から妃を迎え、その妃が仏陀の像をチベットにもたらし、その像はラサの釈迦堂(ジョカン)に祀られています。王はインドの文字をモデルにしてチベット文字を作りました。[それから五代目の]ティソンデツェン王は偉大なるシャーンタラクシタをインドからチベットに招き、シャーンタラクシタは我々チベット人に仏典をチベット語に翻訳するように勧めました。その結果、我々はインドの言葉のサンスクリット語やパーリ語を用いずに仏典を理解することができるようになりました。」

 「シャーンタラクシタは[インドの仏教の最高学府]ナーランダ大僧院からやってきた方なので、我々チベット人は最初からナーランダの伝統を学んでいたわけです。つまりナーランダの学風である論理学と論証学によって仏教を学んだのです。これは他の仏教国にはみられないないやり方です。仏の教えがかくも完全に保存できたのは、シャーンタラクシタやチベット人の翻訳家たち、また、インドの学者たちのおかげなのです。チベットの人々は困難に際してもゆるがない信仰心をもちつづけました。誇るべき深淵なる伝統を我々は保持しているのです。強硬路線の中国の官僚ですらこれは認めるでしょう。」

 「私が毛沢東に会った時、彼がもつ一般大衆を救おうとする社会主義者の動機に深い感銘を受けました。しかしながら時が経つにつれてそれは変わっていきました。いまや富める者と貧しいものとの差は天文学的に開いています。本土チベットのチベット人は老いも若きもチベットの伝統を支持しています。それは釈迦堂の前で五体投地をする人々からもわかります。私は彼らに休めといってあげたいです。」

  「若者はチベット語に関心をもってください。最近は[青海省の省都]西寧ですらチベット語が教えられていると聞いています。これは過去に見られなかったことです。チベット全域のチベット人に我々の共通言語に関心をもつようにお願いしたいです。話し言葉は様々な方言がありますが、書き言葉は共通しています。[チベット語を学び仏典を読む時には]同時に仏陀がこういったことを思い出してください。『賢者が金の真贋を見極めるために、焼いたり、こすったり剪ったりするように、比丘たちよ。私の言葉を単に私を尊敬しているという理由からではなく、十分吟味してから信じなさい。』懐疑的であれ。学びそして試しなさい。」

 以下、仏の前世のお話しから王子ヴィシュヴァンタラVishvantaraの物語を取り上げました。ヴィシュヴァンタラの主な美徳は寛大さでした。ある廷臣が父王に「王子はあまりにも寛大なので、帝国の富を他に施して消費するまえに廃位するよう」にと訴えました。(なぜかここで話は突然ぶっ切れて『宝行王正論』の話となる)
 
 「『宝行王正論』の著者ナーガールジュナはパーリ語仏典の伝統にはあまりひかれなかったようで、サンスクリット語仏典の伝統に重きをおきました。彼は般若思想系の経典に記録されている仏陀の第二期の教え(第二転法輪)について説きました。この『宝行王正論』は空思想について扱うナーガールジュナの「正しい論理についての六つの著作」の内の一つで、さらに詳細な修道について説明しています。セルコンリンポチェの注釈に則って本書を解説します。」

 「本書の第一聯目では仏陀に対する帰依が説かれます。仏陀は欠点がなく、三阿僧祇という永遠にも均しい長い間、全ての命あるものに対して愛をもって接しさらに智恵を育み、善行と智恵を積んできた方です。ナーガールジュナは仏を素晴らしい教えの器であると言います。第三聯目では仏教を修行するためには良い転生をすることが不可欠であると説いています。良い転生は十の悪い行い(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・綺語・悪口・貪・嗔・邪見)を控え、良い行いを実行することによって得ることができます。酒を飲まず、正しい生活をし、人を害さず、困っている人に施しをし、他者を尊重し愛することによってさらに補完することができます。」

 最後に法王はラダック発心協会の懇請によって「他者のために悟りを目指す心を起こす」(発菩提心)の儀式を執り行った。

 「我々は社会的な存在であり、社会に依存しています。従って、シャーンティデーヴァが『悟りへの道』で説いたように我々は他者にやさしさを示す必要があります。」
シャーンティデーヴァはこういいます
 "苦しんでいる人はみな自分の幸福を追求しているがゆえにそうなっている。幸福な人は他者の幸福を願っているが故に幸せなのである" 8章129偈
 "自分のことばかり考えている愚者と他者のために行動している賢者、この違いを観察してみなさい。他にいうことがありますか?" 8章130偈
"自分の幸福を他人の苦しみと交換しない人は仏の境地に達することはできない。この輪廻の中においても幸福になることはない。だからあらゆる命あるものに対して利他的でなければならない"8章131偈

 仏の境地を目指す心をおこすための儀式(発菩提心)を主催した後、

「この心こそが仏の教えの心髄です。わたしはもちろん本尊のヨーガを行いますが、私の主な修行はこの他者のために仏の境地を目指す心を陶冶し、空を理解する智恵を育むことにおいています。私はいわゆる祝福の系譜なるもには重きを置いていません。以上です。」
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DATE: 2021/02/11(木)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ即位の年のお正月
今年のチベットの正月(ロサル)一日は西暦で2月12日。今年は旧暦の正月と同じ日であるが、チベット暦は閏月の入れ方が旧暦と異なるのでずれる時は一月くらいずれることもある(写真はチベット人のおうちで作られるお正月のお供え)。
正月のお供えチベットは今年新しいシキョン(首相)が選ばれる変革の年である。願わくばそれがよい方に向かう変化であってほしい。


 チベットの伝統的な社会では一年を通じてカラフルな祭りが行われていたが、中でもお正月のそれは非常に盛大であり、この世にあるすべての命あるものの平和と安楽を21日かけて国をあげて祈りたおす
 その名もムンラムチェンモ(大祈願祭)である。

 この期間、社会は敬虔な雰囲気に包まれ、チベット的な感性がもりあがるため、中国の支配に抗議してのチベット人の過去三回の大蜂起は三回ともこのチベット暦正月の期間に起きている。ダライラマ亡命の契機となった1959年のチベット蜂起、ダライラマの平和に関する五項目の提案が契機となった1988-89年の蜂起、そして北京オリンピック開催が契機となった2008年のチベット人蜂起の三回である。

 このため中国政府はチベット人の蜂起を警戒してチベットのお正月にはチベット人を一段と厳しく取り締まるため、かつてのようなムンラムのもりあがりは中国支配下のチベットからは見いだすことはできない。
 では「インドのチベット人居留地で行われているお正月の雰囲気をお伝えしましょう」と云いたいところですが、どうせならチベットがまだ中国の支配下に入る前のお正月を紹介しちゃいましょう。現ダライラマ14世の即位式に参加したイギリス人ベイジル・グールド卿(の目撃したチベットのお正月である。

ベイジル・グールド卿(Sir Basil J. Gould, 1883-1956 )は英領シッキム政務官として、ダライラマ14世の即位式に参加するため1940年1月から6月にかけてチベットの都ラサに滞在した。1940年に行われたダライラマの即位式はチベット暦のお正月(西暦二月九日)に合わせて行われたので、この時の記録には伝統的なチベットのお正月の雰囲気がよく描写されている。以下はグールドが1941年に記した『ダライラマ14世(1935-)の探索・認定・即位に関する報告書』 からお正月関連の描写を引用したものである。

・王座への帰還

チベット暦正月というのは、年中行事として旧年の厄を払いが行われて新年を寿ぎ、二十一日間に亘る大祈願会が開催され、伝統的な華麗な式典とともに宗教儀礼が行われる時期であり、いつも何万という僧や巡礼者や地方の人々が〈12a〉ラサに集まってきて、そのためラサの人口が三、四倍にふくれあがる時期でもある。チベットの二月は、確かに寒くはあるが、チベットでは三回来ると言われている最も厳しい寒波の季節は一月の終わりごろにはもう終わっており、収穫と脱穀は終わったが耕作を開始するにはまだ早いし、羊の群れもあまり面倒を見る必要はないという時期なので、チベット人たちにとっては休日とするのにふさわしい時期なのである。またダライ・ラマ十三世はこの時期にいつもノルブリンカからポタラ宮へと数週間ほど居を移していた。そしてこの時、どこで正月を過ごすチベット人もみな、黄金の王座のことを考えていたのである。それゆえこうした多くの利点からしても、またすべてのチベット人の幸福のためにも、チベット政府としてはチベット暦一月こそが最も吉祥な日程であるとして、ダライ・ラマがポタラ宮に入り、歴代ダライ・ラマたちの王座に登る日として宣布したのである。

旧年の厄払い

[西暦]2月7日、ラサの住人とチベット全土から集まった訪問客の群衆は、ラサにいるイギリス人、中国人、ネパール人その他の外国人といった大勢の人々と一緒になって、旧年の厄払いをする年末恒例の儀礼(dgu gtor)を見に、ポタラ宮の中庭を囲む屋根や回廊に詰めかける。同様に{そこに集う者として}、煌く香炉、シンバル、金色の太鼓を携えた約100人の僧侶、仮面をつけた福の神である「和尚」と小坊主(ha phrug)の一行、黒帽を被った踊り子と、その他終日の儀礼に参加する大勢の人々が、ポタラ宮の内奥から伸びる急な〔石の〕階段を順に駆け下りて〔石畳の〕内庭に入る。中央の階段を用いてよいのはダライラマと和尚だけである。その上方には、主殿に沿って高さ100フィートの壁があり、その壁には三列四段となる数の張り出し窓とバルコニーがはめ込まれ、窓はそよ風にゆらぐフリル状の絹布と極彩色の服で飾られている。最上階の中央には、ミイラ化された故ダライラマの遺体が、その黄金の祠が完成するまでの間安置されていた小さい集会殿があり、その外側に{次のダライラマのものとなる}まだ誰もいないバルコニー席がある。<14a>その右は摂政であるが、彼はほぼいつも薄い黄金の帳(dar sang ser po)の後ろにいるので姿を見ることはできなかった。これ以外〔の部屋〕に、内閣、僧侶、俗人官吏といった様々な位の人々が身分に従って座っていた。内閣の隣にいるダライラマの家族の座所に、大勢の人々(見物人)が目を向けた。ダライラマの家族は初めて体験するチベットの大規模なページェントに興味津々のようであった。

・正月

2月9日(チベット暦元旦)、外国人の中では英国使節だけが、ポタラ宮の大集会殿で催される新年の仏教的な祝賀に立ち会うことを特別に許された。彼らは空席になっているダライラマの王座に絹のカターを捧げ、それから摂政と宰相にも〔全員が〕贈呈し、供された儀礼的な茶と食べ物を食した。他の国の者たち (使者)は、次の日の仏教色のより薄い儀式(恒例の謁見)に参加した。こうして数日間にわたり、新年の祝賀は慣例に則って執り行われていった。(後略)

・即位式

(前略)
しばらく通常の新年の儀式が続いた。三が日には、初日にポタラで行われる宗教色の濃い新年の儀式、二日目に行われる世俗色の濃い新年の儀式、三日目に政府〔僧俗官僚すべて〕による国家神託官ネチュン〔護法尊〕の訪問などがある。これに加えて、ラサの各家庭で新年は我々のクリスマスを思い起こさせるような形式と精神で私的に祝われる。それ以外の日は裸馬の競馬、力比べ、封建時代の武者行列、弓術などの形で、古いしきたりが維持され、多くの宗教的・半宗教的な新年の儀(政教一致の娯楽)がある。

これらの内もっとも印象的なのは、チベット暦の正月15日と<25b> 25日頃に開催されるものだ。15日の日、厳格な儀式である祈願会の日々から一息ついて、街はリラックスした喜びに包まれる。一周約半マイルの大聖堂(釈迦像を祭るジョカンのこと)の環状巡礼路(bar bskor )のぐるりには、バターをこねて作られたカラフルな様々な意匠をくっつけた巨大なミラミッド型の構造物がたてられる。〔夕方〕満月が上ると、群衆が聖なる建物のまわりに押し寄せてくる。

日没後一時間で摂政がダライラマの両親と親族をともない、(p.97) 兵隊を前後に従えて、これらバター細工を子細に観覧するのが見受けられた。群衆は軍隊が整列した道におしよせ、警護僧は群衆をかきわけて道を作る。道は召使いのもつ長い棒の先にくくりつけられた油壺のかがり火(gsal byed dpal 'bar)に照らされている。

もっとも人気のある飾り細工には褒美がだされ、受賞したものはトランスに入った国家神託官などの姿が「ジュディ & バンチ・ショー」*1 のようになったものであった。

〔その夜〕警護僧の努力にもかかわらず、摂政が巡礼路を一周するのに一時間半もかかった。それから帰路についた。何年も昔の「マフェキングの夜」*2 に感じた喜びと賑やかな楽しみを思い出しながら、寒さや騒がしさに耐えられない子馬にのって、満月に近い光に照らされ、大地には灯明の光がきらきら輝く中、信じられないほど青い星空を背景にしてたたずむポタラ宮の前を通り過ぎた。

 正月の25日、会場は大聖堂の外庭となる。行事は、チベットに向けられる悪しき影響力や意図を覆すこと、そして、祈願会の行われる20(21)日間 、デプン大僧院の僧官が〔ラサの市長(mi dpon)から司法権を取り、僧侶達が政教に対して障がないようにする法事を行う習慣がある。25日、僧官が〕握っていたラサの町の管理権が再び俗官 <26a> の手に戻されるのである。
モンラムジョカン

 この鉄の龍の年において、この儀式の差配にもっとも深く関わった二人の俗官は、お馴染みの「〔イギリスの〕ラグビー校への留学組であった。まずラグビー校で「リンカン」と呼ばれていたチャンゴーパ閣下(sku zhabs byang ngos pa) *3 、そしてキププ閣下 (sku zhabs skyid sbur ba)*4 であった。前者はヤソ(ya so) として、同僚のプンカン・シャペの息子 (yab gzhis phung khang sras) *5 とともに一生に一度やってくる非常に名誉ではあるが同時に費用のかかる、約六百人の封建時代の騎馬隊を組織し指揮するという仕事を行っていた。彼はまたラサの水力発電施設を管理し、内閣のために英語の通訳もしていた。後者はラサの二人いる司政官の一人であもった。

 主な観客は摂政、内閣、ダライラマの家族であり、彼らは大聖堂の大門を見下ろすバルコニーに座った。封建時代の歩兵隊の行列と模擬戦が終わったあと、ヤソの装束の者に率いられた封建時代の騎兵隊が登場する。(p.98) ラサの俗権をにぎる僧侶たちが権威を象徴する鞭を地面にたたきつけ、ラサの市長の召使い達が拾い上げる。トランペットとシンバルと太鼓をもった僧侶たちが大聖堂から行進し、外庭を囲んだ形で並ぶ。儀式の司祭は香炉とバターランプと聖水のはいった水差しをもって真ん中にたち、祈願を行う。高い旗竿が通りに建てられ、町から追い出されることになる悪霊の像が〔外に〕取り出される。
ヤソの装束

ついに神託官ネチュンが突進してくる。ネチュンは踊り、よろめき、体を前後に揺らしながら、両手につかんだ短剣を振り回し、九舞 (dgu 'cham) を踊り突然倒れた。随員の助けをかりて立ち上がると、またよろよろと歩き出した。近づいてくる彼をみると、本当に神霊に取り憑かれていることがみてとれた。神託官の顔は死人のように青く、トランスによって放心状態であった。神託官は何度も何度も卒倒しては、ふたたびはね起きて、またあらぬ方角に歩き出した。群衆は神託官の周りにつめかけ、神託官はやがて骸骨の面をつけた人々と、黒い帽子をかぶった踊り手と旗をもった男たち〔と九舞をしながら、トルマの後に〕の列の後について消えていった。<26b> 市門 (rgyal sgo'i 'gag) のところで、悪霊の像は一斉射撃とともに降ろされ〔トルマは火にくべられた〕、神託官は消耗し意識を失い、大聖堂へと運ばれていった。


*1 Judy & Punchとは17世紀にイギリスで初演されたドタバタ人形喜劇。
*2 第二次ブール戦争時、南アのマフェキングでイギリス軍が217日間の籠城戦ののち1900年5月17日解放された。この晩ニュースに接したイギリス民衆がお祭り騒ぎになった。
*3 本名リンジンドルジェ (1904-1945)。リンカン家 (rin sgang) の出身。1913年にチベット政府が独立をアピールするべくイギリスに送った使節に同行した四人の男児の一人。グールドはこの四人をチベットからイギリスまでエスコートし、四人はイギリスのウェールズ地方のラグビーのパブリックスクールで教育をうけた。リンカンは1918年にチベットに帰還し、1938年には六位の官吏であった。
*4 リンカンと同じく1913年イギリスにわたった四人の少年のうちの一人。帰国後チベット政府より電信の建設を託されるも失敗する。1938年には六位の位階にあり、治安判事であった(Holy city p.247)。
*5 本名、bkra shis rdo rje。1938年に摂政ラデンによってカロンに任命され、1947年のラデンの対タクタ蜂起につらなり投獄。
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