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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2022/07/24(日)   CATEGORY: 未分類
オンライン学会参戦日記
三年一度の国際チベット学会(iats2022)は今年はプラハで開催だ。院生Wくんは開催決定の際の「ビールが水より安い」という売り込み文句にまんまとのせられ、ウクライナで戦争がはじまろうが、コロナで出入国の手続き煩雑きまわろうがおかまいなしに、対面参加を即決していた。
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 私はDan Martin 先生の記念論集のサプライズパーティがあるので、行きたかったのだが、あらゆる要素がいまは海外旅行するなといっているような気がしたのでオンライン参加にした。
 そしたらオンライン参加は事前に発表動画をとって送れとのことで、その締め切りが6/25日。

6月25日

 締め切り日に元院生Mから電話。嫌な予感しかしない。

 元院生M「センセー、発表資料は紙に書いて紙芝居みたいに手にもってケータイでうつせばいいんですか
 
 「いますぐパソコンにzoomをダウンロードしろっ。手書き紙芝居なんかするくらいなら、発表やめろっっっ。」

 聞けばzoomが何かもわかっていない。この子が院をでたあとでコロナ禍になったから、彼は遠隔授業の経験がないんだ。そのあとも、zoomのダウンロードもやり方わからないというので、合掌して電話をたたっきる。今日が締め切りでこの状態では打つ手はない。

 すると、何日後かに院生M「締め切り延ばしてもらいました。友達にzoom の使い方をならって動画学会本部におくりましたとのこと。
 プログラムが発表されると私は初日7/4の14:00からで、なぜか元院生Mと同じパネル。院生Wくんは別パネルで同じ時間帯であった。初日、同じパネル・・・・やな予感しかしない。
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7月1日

院生Wくんは学会初日二日前に日本をたった。格安航空券でアブダビとフランクフルトで乗り継ぐので38時間だかかかるからだという。合掌して見送る。
 
7月3日 

 しばらくしてWくんのTwitterは不穏な状況をつげはじめる。
アブダビ空港でオーバーブッキングとなり、これはなんとかなったものの、フランクフルト→プラハ便がキャンセルとなり、彼はその時座席を失った千人からの人と共にルフトハンザにほおりだされたのである。ルフトハンザのカウンターは人手がたりてないことが明白で、長旅で疲れゾンビ化した乗客の怒声と暴力にみちあふれていた。
 彼が深夜便でついた頃には当然近郊のホテルは満杯。ルフトハンザは「行ける人は電車で行け」というが、荷物が手元にないWくんはそれもできず、フランクフルト空港の薄汚い空港の床にねるハメになった。

 まだ発表原稿を仕上げていなかった彼は夜の空港を徘徊してコンセントを探し周り、やっと探し当てたコンセントからパソコンに電流を送っていると、後ろに人の気配が・・・・。
 同じように疲れ切った乗客が彼に電源タップをわけてくれとにじりよってきていたのであった。

 Wくん「僕はあの人の眼を忘れられません。。。」
 こうして夜のフランクフルト空港で発表前日に彼の発表原稿は完成したのであった。

 一方私は発表は明日だというのに、オンライン参加者がいったいいかなる形でハイブリッドの学会に参加できるのかの指示が無く、さっぱり分からない。学会本部にもメールしまくったが音沙汰なし。やっとギリギリになって学会から、プログラムの該当パネルにURLがでるからそれがzoom参加の入り口であるとの通知がくる。発表動画はYOutubeに53本並んでいて、参加者はいつでもみることができる。
 発表動画がながれたあと10分の質疑応答時間があり、そこだけzoomで会場とやりとりするわけである。

7月4日

 いよいよ私と元院生Mと院生Wの発表日。時差があるので、一番早い元院生Mでも19:15分からである。すると18:00頃、元院生Mから入電。
 元院生M 「センセー、僕の発表あと一時間で流れるんですが、会場のzoomに入れません。センセーも同じパネルだからセンセーも参加できませんよ。」
  確かに指示されたURLでは入れない。私の発表まではあと二時間あるからそれまでになんとかしなければ。

 元院生M 「センセー、センセーがもし参加できたら僕の御陰ですからね。」
 学会本部にメールしてURLが機能していないことを告げるが返事が来ない。仕方ないので院生Wくんに直電。

「あなたも私と同じ発表時間でほんっとに悪いんだけど、いますぐ私の発表が流れる部屋にいって、会場のパソコンをみてきて。大会本部にメールしているけど返事がないのよ」

院生W「はい・・・・わかりました・・・・」
やばい。電話口の声は死んでいて、電話をきった瞬間に私の指示を忘れるであろうというレベル。フランクフルトで28時間の床生活をしてこれから英語での発表を控えている彼にはもう師匠に回す気はのこっていなかった。

 しかたないので、別の部屋にいるK先生に電話して部屋に急行してもらったが、そこで分かった事実。
 午前中はパソコンのzoomが起動していなかった。そしてURLも違っていた。そこでやっとつながったが、そのゴタゴタで結局質疑応答の時間はとれなかった(学会は同時にいろいろなパネルが動いているので予定はミリも動かせない)。

それから四日後・・・

 元院生M「センセー、発表のyoutube動画、spitiの先生のが一番いいねがついててぼくのが次なので、僕の勝ちです」

 私「いいね! を競い合う場じゃねえ」


7月16日
  Hバード大学のKP教授よりメール。

「この前のパーティ(Dan Martin の記念論集出版サプライズパーティ)、お前こなくてよかったよ。あの学会スーパースプレッダーがいたのか、みんなコロナにかかった。お前の学生にうつしてないか心配だから連絡した。咳がでてとにかく不快なんだよ!!!」

 ちなみにその直後、学会本部からもコロナが蔓延しているから、かかった人は学会に申し出てね💖というメールがきていた。

 幸い院生Wくんにはうつってなかったが、これでうつっていたら、Wくんはオーバーブッキング、フライト・キャンセル、ロストバゲージ、コロナ感染という不幸の役満。

 ちなみに、7月4日、当日の私が送った苦情にたいし学会から謝罪メールがきたのは、7月16日のことであった。
 時差12日。

 オンライン参加にして本当によかった。 

最後に学会らしい情報
「モンラム大辞典の完成について」

モンラムさんというお坊さんが中心となって紙媒体にしたら233巻のチベット語の辞書がでた。これはパソコンやケータイからひける電子辞書であり、現在も新たな語彙が加わっているので、紙媒体で買うよりはアプリで使う方がいい。ダライ・ラマ・トラスト(ダライ・ラマの資産管理団体 webはここ)が協賛して各宗派の高僧たちも執筆者となった結果、これまで本土チベットででていた蔵漢大辞典(三冊)よりも遙かに大部のチベット語辞書がでたわけである。
 チベット語の語彙解説については難民チベット人社会の方が文化を維持している分ちゃんとできるってことを、某政府にオラオラ示したもことになろう。以下辞書についての説明。
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Monlam Grand Tibetan Dictionary)2022年版
2022年3月28日
モンラム・チベット情報工学研究所

モンラム大辞典(Monlam Grand Tibetan Dictionary)は、2012年4月30日に初版を公開して以来、継続的に増補を繰り返し、現在は2021年12月末日までに編纂したものを公開している。本辞典の編纂責任はモンラム・チベット情報工学研究所(Monlam Tibetan IT Research Center)が負い、亡命チベット難民のコミュニティーに関連する様々な文化事業団体と提携した継続的なプロジェクトとして、35の編集部会、200名以上もの編集委員に原稿依頼して行ったが、当事業は亡命社会におけるチベットの言語・文化に関する最大規模の事業のひとつである。
本大辞典は、見出し語399,500語、625,552の語釈、240,884の例文よりなる、ウェブ版、Windows版、MacOS版、iOS版、Android版といった様々な環境で利用可能に編纂された電子辞書であり、紙媒体で印刷すると本編148巻、補遺75巻の計全223巻より構成され、総ページ数は、133,870ページ、総音節数64,663,121音節、総重量230kgある、世界にも類をみない大部の辞典となった。今日までモンラム大辞典はiOSだけでも全世界で700万ダウンロードのユーザ数を獲得できている。
本辞典の編纂方針については既に2度にわたる国際チベット学会(International Association for Tibetan Studies)の辞書部会にて報告を行ったが、チベット内外の各分野の有識者や編集協力者を様々な議論を繰り返し、内外の辞書編纂プロジェクトに関与したことのある多くの研究者から助言を得ると同時に、現代の辞書学の成果に立脚した編纂作業を実施することができた。
基本的な編集作業としては、まずは見出し語の調査・確定を行い、それに対する語釈の分量の確定、語彙の分類・それらの分類、同意語・キーワード、反対語・同義語・類義語・省略語・語源・図版・例文・出典文の掲載・注記など、これまでの編纂されてきたチベット語の辞書編纂方針を土台と適宜尾しながら、同時に様々な改良を加えながら以下の基本要素を編集していった。
また本辞典で、主として1950年以前までに広く用いられている語彙を収録し、宗教・芸術工学・論理学・文法学・語源学・舞楽学・天文数学・文芸学・韻律学という伝統的な十分野の専門術語を採用しただけではなく、歴史、伝統的な土地占い、現代の地理学、古語、方言、政治用語、科学用語、哲学や実践法など以下の図に示すような各分野の専門的な語彙を、39万語以上採用し、古代インドからチベットへともたらされた専門用語の60%以上の用語を現状では採用できた。これらまだ完全なものではなく、今後随時増補・改訂を繰り返しさらなる充実をしてゆく予定である。

本辞典は、今日の辞書学の成果に基づいて編纂した最初のチベット語辞典であり、編纂にあたり、チベットの伝統的な宗教の各宗派・各学説が、特定の見解などに偏向することなく、ひろく協力関係を構築しながら、一致協力して編纂するという基本方針を忠実に反映させながらも、国際的に活躍しているチベット学研究者からこれまで寄せられてきた多くの要望をも反映し、これまで辞書編纂の経験のある編集委員の経験を活かしつつ、現行版を公開している。
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DATE: 2022/07/17(日)   CATEGORY: 未分類
トーハクにおけるチベット仏教美術展のお知らせ
トーハクがどうしたことか、館蔵のチベット美術の名品を企画展で展示してくれるとのこと。
『清朝とチベット仏教』(この本アマゾンでなく早稲田大学出版部に直接注文してね)という拙著をだした身としては、是非いかねばならぬ。
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チベット密教美術の専門家田中公明先生によると「康煕帝の第10皇子が制作させた曼荼羅や、寺本婉雅が将来した乾隆帝の御衣で表装したツォンカパ伝のタンカなどが出品されます。何れも本邦初公開です。」
とのことで、康煕帝の10子といえばあのチベット仏教通で有名な胤禮。そのマンダラが何故日本に入ったのかも興味深い。とにかく誰がいかなくとも私がいく。

2022年7月26日(火) ~ 2022年9月19日(月) 平成館企画展示室
当館のチベット仏教関係資料をまとめてご紹介するのは、1999年の東洋館開館30周年記念特集「河口慧海将来品とラマ教美術」以来、約20年ぶりです。
サイトはここから





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DATE: 2022/06/22(水)   CATEGORY: 未分類
ダライラマの側近(ケンポ)たち
7月3日から国際チベット学会がチェコのプラハで開催される。プラハといえば1989年の感動のビロード革命で共産党政権が倒れて、その結果大統領となったバーツラフ・ハヴェル(1936-2011)は、ダライラマと深い交友関係にあった。2011年のハヴェルの死去の際にはチベット社会を代表してダライラマから弔辞が送られた。

 そんなプラハなので、本来なら喜んでいくところだが、西洋人の夏休みにあわせた予定なので学期の途中だし、ウクライナ戦争で日本の飛行機はロシアの上を飛べないのでえらいこと飛行時間がかかるし、円安だし、コロナだし(欧米はコロナ気にしないんで市中感染めっちゃ多い)、結局オンライン参加とあいなった。

 それが10日程まえ、「オンライン参加の人は6月25日までに自分の発表を動画でとって学会に送れ」と言われていることを人に言われて気づいた。学会からくるメールをロクに読んでいなかったのが敗因。

 「もう間に合わないので対面でいく」という人まででてきて、私も一瞬そうしようかと思ったけど、15時間以上も飛行機のるのやだし、録画するしかない。

 オロオロしていると、逐電していた元院生Mから連絡がきた。

M「せんせい〜、やらかしました。国際チベット学会って七月なんですね。九月だと思っていて、仕事休めなくて出られません」

この師にしてこの弟子あり。

私「国際チベット学会は昔から西洋人の都合で七月です。ウランバートルの時も、パリの時も七月であなた参加してたでしょ。参加費はらったんだから、オンライン参加に切り替えるしかないね。」

M「録画ってどうやるんですか。ケータイでできますか」

私「zoomでパワーポイントで共有して自分のパソコンに録画するの。」

M「ケータイじゃだめですか」

ふと思う。zoom録画になれていない人はケータイで発表の声と顔だけ録画してパワーポイントと資料は事務に送りつけるのではないか。そうなったら学会事務、地獄だな。

 今、zoomで録画してみたが、生で発表する時は、パワーポイントのタイミング間違えようが、文法間違えようが、終わってしまえばそれまでだが、録画すると見直しできるので、パワーポイントのミススペルとか、切り替えの遅れとかが正視に耐えない。しかし撮り直すのも面倒くさい。もうやだ。

ちなみに発表内容は寺本婉雅の外務省報告やダライラマ13世伝に基づいて、ダライラマ13世の側近について明らかにしたもの。以下に発表内容とはややずれるがダライラマの側近についてつれづれに思ったことを備忘に書きつける。
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ダライマの内廷に仕える僧侶たち(ケンポ)のトップは総管ケンポといい、大臣の一人に数えられる高官である。その下の四位の僧官の中にダライラマの身辺に常侍する僧官として御膳係(スルポン)・御褥係(シムポン)・法事係(チューポン)の家政のトップである三ケンポがいる。

で、寺本が外務省に提出した「北京におけるダライラマの側近に関するレポート」によるとダライラマには二大側近として
かの有名なドルジエフ(日露戦争中の日本は彼をロシアのスパイといって忌み嫌ったが実は忠実なダライラマのしもべ)とラメンケンポ(侍医)をあげ、公使館などで交渉するケンポとして以下の七人をあげる (名前は多少手を入れている)

1. ドゥルワ・ケンポ (漢名 謝庭華)
2. ロサンテンジン・ケンポ
3. ロサンカンチュン・ケンポ
4. ヂャムツァンツチュム・ケンポ
5. お食事係(gSol dpon) ・ケンポ (寺本がスルポン堪布といっている人)
6. 法事係( mChod pa)・ケンポ (寺本がチョパ/チョドバ堪布といっている人)
7. クンデリン寺のジャサク・ラマ

このうち、5と6はダライラマのお食事や法事を準備する係で、ラメンケンポは侍医で、この三人は本当にダライラマの身の回りの世話係。ダライラマの行脚中はおそらくは、支援を申し出る人々を仕切って食事や寝床の世話をしていたと思われる。ダライラマ伝をみると、ダライラマはチベットからモンゴルまで移動する際に、休憩する場所、野営をする場所が先々に準備されていたので、その手配をしていたのが、この側近たちと思われる(写真はなまずひげが侍医、真ん中はジャルサン、右がお食事係)。
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 ロシアのブリヤート出身のドルジエフはロシアとの交渉係として同道しており、ドゥルワは前のエントリーで述べたように日本や清朝との間の交渉係として呼び出された人である。
 2もモンゴルにいるダライラマが何度も北京内廷に派遣した僧なのでおそらくは中国語に通じた僧、3,4は詳細不明。

ダライラマは北京で
初回 1908年10月14日で頤和園の仁寿殿で顔合わせ。
二回目 同年  10月30日に紫光閣でモンゴル王公もまじえての賜宴。
三回目 同年  11月2日 西太后の誕生日の前日に南海の小島の宮殿で長寿儀礼執行。
と三回西太后と会見するんだけど、

 頤和園の仁寿殿にはドルジエフと5.6.7の四人が陪席し、
 紫光閣ではこの四人プラス侍医、1と2が入った14人が陪席している。

 各国公使館に出入りしていたケンポは、ドゥルワケンポがそうであったように、ダライラマが連絡をとりたい地域(この場合は日本)にコネのある地域の高僧がとりたてられている。この場合の側近は期間限定で、たとえばドルジエフは最終的にはダライラマの意をうけてロシアに行き、チベットのために活動するし、ドゥルワもこのダライラマの北京滞在のあと、1909年、に中央チベットに戻り、シッキムのダライラマには随伴せず、デプン大僧院ゴマン学堂の座主に就任している。
 つまりドルジエフやドゥルワケンポはダライラマの必要に応じて内廷に呼ばれ対象国との間の折衝を行っていたと思われる。
一方、ダライラマ13世と苦難の外国くらしの9年間をともにした侍医ラメンケンポは、帰国後総管ケンポに就任している。

 寺本婉雅は「直弟子になればドルジエフのようにダライラマの側にいける。そのための支度金をだせ」と参謀本部などに願い出ているが(チベット仏教に対する知識がまったくない寺本が直弟子になれるのかは謎であるが)、しかし、この申し出はダライラマに自由にアクセスできるドルジエフのようなポジションは簡単には得られなかったことを示している。

 この三回目の西太后との同席で、ダライラマのためにしつらえられた席が低く、また王座から遠かったため、側近たちは清朝宮廷に抗議すべきかを、日本公使館に相談にいくが、日本公使館は自重を説いた(寺本の日記に基づく)。

 この後、ダライラマは光緒帝と西太后の死去をうけて清朝を見限り、英領シッキムへと亡命するが、その後、ダライラマ工作につくのは寺本に代わって西本願寺の青木文教と多田等観となる。
 寺本はダライラマに北京行きをすすめた時、ダライラマの目的達成のためには「日本の官憲は微力を尽くす」と約束していたが、日本公使館は前述したように全く動かなかった。ので、おそらくは寺本はダライラマの信頼を失い人員交代となったと思われる。

 ダライラマの内廷の様子がおぼろげながら見えてくると、これは遊牧民国家などのケシク(恩寵)制の仏教版かと思ってしまう。ケシクとは君主の恩寵(ケシク)を得る者という意味で、ようは側近である。

 多様な民族と交渉する遊牧民は、ケシクに様々な地域出の子弟を集めて家政(警備・食事係・車馬の手入れ係・家畜の世話係・おしとね係・書記)を行わせ、ケシク内で共に生活する中で君主を中心とした仲間意識をはぐみ、君主はその中から適性をみて使者・商人・戦士・通訳などとして外に派遣する。彼等が仕事を終えてまた内廷に戻ってくれば、もとの食事係やおしとね係の仕事に励む。王の身近で恩寵(ケシク)をうける人が出世するのである。

 多民族から構成され、内廷の仕事が外の実務に切れ目無く続いているのがケシクである。
 中央チベットの大僧院には各地から多民族の子弟が留学にやってきており、学問を終えた後に故郷に戻るものもいるが、僧院長や学堂長に出世してラサに定住する者も多い。

 ダライラマがある地域の有力者と連絡をとる必要が生じた場合、チベットの大僧院の中にいるその地域出身者が故郷とダライラマの間をつなぐ役目を行うのは自然な流れであり、とくに1904年から1913年までのダライラマがラサを離れていた期間中は、それらの人々はチベットから、あるいは地域から呼び出されてダライラマの移動に随行していたと思われる。一身のように身軽な宮廷であり、しかし、実務交渉はすべてケンポが行うため、外部のものはダライラマとは容易に言葉は交わせない。
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 結果として、ポタラ宮の外にあってもダライラマの神聖性はまもられたのである。

 ちなみに、現在もダライラマの身の回りの御世話をする役僧の方は側近中の側近であり、外部の我々は彼等を介してしかダライラマとは接触できない。よくダライラマに突撃してプレゼントを手渡ししようとする人がいるが、あれは伝統的にはNGである。必ず側近僧を介さねばならない。だいたい通訳が間にはいるので失礼な話しはカットできる。寺本は日本からの手紙はチベットの側近僧がチベット語に翻訳する際にずいぶん改められたと書いている(笑)。
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DATE: 2022/05/22(日)   CATEGORY: 未分類
とあるチベット学者の5月日記
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5月4日
 お客さんをお迎えしたのでレストラン・タシデレから「チベットお試しセット」をおとりよせする(https://tashidelek.jp/online/)。ご近所のIさんがお庭のバラを届けてくださり、テーブルの上には季節の花が。庭の春菊も花盛りで良い季節である。自分で料理をつくらないところはまだまだであるが、人並みのおもてなしの10%くらいはしている気がする。猫は復活してきた。
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5月11日
国連クラシック・ライブ協会主催のチャリティ・ミュージカル「赤毛のアン」を見に行く。始まりにあたって挨拶をされた代表のKさんは、世界中で教育を必要としている子供たちがたくさんいるという文脈でチベット難民への支援に触れてくださり、ありがたく合掌する。『赤毛のアン』は昔は青春小説だと思っていたけど、改めて見直してみるとこの話深い。

 カスバート家のマシュー・マリラ兄妹は農作業を手伝わせるため、男の子を孤児院からひきとろうとした。しかし、実際に現れたのは女の子のアン。手違いだからと送り返そうとするが、アンの境遇を聞くうちに可愛そうになってしまい、ひきとって育てることとなる。当然情が移る(笑)。アンはキレやすいが(笑)、非常に賢く最終的には教師となる。

 この小説の書かれた20世紀初頭は弱者に厳しい時代である。孤児であり、女の子であるという二重苦を背負ったアンが、プリンス・エドワード島の豊かな自然の中で愛する人を増やしていき、頭の良さで幸せを掴んでいく過程は、マイナスからのスタートでも人は幸せになれるというサクセス・ストーリーである。
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5月14日
アイフォンが認知症になり、私の知らないうちにいろいろな方に着信を残していることがわかり、買い換えざるをえなくなる。iphone13をまともにかうと12万円するので、中古のiphone12に古いiPhoneのデータを移し替える。そしたら突然ブラックアウトして何をやっても起動しない。これは俗に言う安物買いの銭失い・・・。ほぼ諦めつつも表参道のアップルストアで強制再起動したら起動した。めでたき哉。

 無事に古いデータはiphone12に転送され、iphoneの転生も完了。これまで機種がかわっても必ず同じオカメインコケースにしていたが、今回このケース生産終了していて同じものがない。しかたないので、透明ケースの中に初代ごろう公の羽をいれてお守りとする。待ち受け画面も初代ごろう公なので両面ごろう公。
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5月17日
法王事務所を訪問。代表のアリヤさんから、チベット外務省出版部(DIIR PUBLICATION)からでた、貴著Harnessing the Dragon's Fume Challenging the Chinese Communist Party's distorted Tibet Narratives (『龍の毒気を抜く 中国共産党のねじまげられたチベット情報を糾す』 )をいただく。龍とは中国共産党、その毒気とは世間をまどわす事実に基づかないプロパガンダ。それを一つ一つ論破していく労作。

 その翌日『チベット幻想奇譚』(春陽堂書店)を拝受する。『セルニャ』(金魚の意味)で現代チベット作家の小説を翻訳しているチームの新刊。チベット版遠野物語、あるいは、私の好きな漫画今市子氏の『百鬼夜行抄』のチベット版みたいな感じで、古くからの神々が現代を舞台にしていまだ力を行使しているというストーリーが多い。おすすめです。
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この日、家に戻ってきたら『渡清一年日誌』がY さんから届いていた。Yさんは私よりずっと目上のオカメインコ友達であるが、最近私が日露戦争期のチベットやモンゴルからの留学生に関する論文をだしたところ、Yさんの祖父君が日露戦争まっただなかの1905年に清朝に日本語教師として渡り(全く同じ時期に寺本婉雅や川島浪速も北京にいた)、そこで過ごした一年間の日記がおうちに保存されているとのことで、送っていただいたのである。崩し字がかなり厳しいが、読めるところもある。Yさんの祖父君が北京や保定でであった現地の日本人は歴史上の有名人ばかり。この日誌、立派な歴史資料である。

 多くの家ではこういう明治期の日記や書簡は何となく個人情報感がただようこともあり、廃棄されがちである。これを大事に保管してくださっていたYさんには感謝しかない。オカメインコはこれまでにもたくさん私に良いものを運んで来てくれた。オカメインコの神よ、これからも私にたくさんの資料とよい人を連れてきてくださいさい。
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DATE: 2022/04/23(土)   CATEGORY: 未分類
タイとロシアの古い縁
2022年4月7日、国連人権委員会でロシアの理事国資格を停止する決議が行われた。結果は93ヶ国が賛成(セルビア、アルメニアも含めて欧州諸国はまとまった)。24ヶ国が反対。58ヶ国が棄権。
タイ

 反対国はアレな国々なので分かりやすいが、棄権国の中に仏教国家で平和な国のイメージのあるタイが含まれていることを意外と思う人がいるかもしれない。しかし、実はタイ(当時はシャム)とロシアの繋がりはロシア帝国期に遡る長い関係があるのである。

 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世は皇太子時代(1890〜1891)ロシアの軍艦にのってアジアを旅をした。旅の記録はオリエンタリストとして有名なウフトンスキー公が行って豪華本で出版された(Travels in the East of Nicholas II. Emperor of Russia: when Cesarewitch, 1890-91)。ちなみに、現在ペテルスブルグにあるチベット・コレクションの大半はこのウフトンスキー公の力でそこにあるものである。

 ニコライ二世(当時皇太子)とウフトンスキー公は1890年12月23日にインドに上陸し、マドラスにおいてブッダガヤ復興運動が始まる直前の神智学協会の本部を訪れている。翌1891年にはセイロン(現スリランカ)、3月19日にはシャム(現タイ)に上陸し、ラーマ五世(チュラロンコン大王)とその皇子たちと交遊した。

 ニコライの旅は日本の大津で精神がちょっとアレな巡査に切りつけられ終わったが(大津事件)、この旅を通じてニコライはオリエンタリスティックな嗜好を強く持つようになった。てか、当時のヨーロッパのオリエンタリズムの流行にそのまま染まった。

 このあとロシアとシャム皇室同士の関係はどんどん深まり、この年の暮れにはシャムのダムロン王子がニコライのパパ、アレクサンドル三世とクリミア半島のリヴァディャ宮で謁見。


1896年にニコライ二世が即位すると、1897年にはラーマ五世自身がロシア帝国の都サンクトペテルスブルグを訪れ、シャム・ロシア関係は公式のものとなった。大使の交換も行われ、ラーマ五世お気に入りのまだ十代のチャクラボンス皇子 (Chakrabongse1883-1920)がロシアに送られた。

chakrabongse.png1899年には友好条約も締結された。

シャムが当時ロシアを非常に重視していたことは、インドで発掘されたばかりの舎利(仏様の遺骨)をラーマ五世は、他の仏教国をさしおいて、まずロシアに分骨したことにも現れている。

ことの起こりは、1898(明治31)、イギリス人の考古学者ウィリアム・ペッペがピプフラワーで舎利の入った容器を発見したことに始まる。その容器の銘文はアショーカ王時代のものであったため、舎利は限りなく真正に思われた(実は世界中の舎利を集めると象三頭分になるというくらい舎利は後世になるほど増え続けていたw)。
 
 当時、欧米で仏教は大ブームとなっており、それを追い風として伝統的な仏教国(スリランカ、ビルマ、日本)が結束して仏陀が悟りを開いたブッダガヤーの地を仏教徒に返還せよ、という運動をおこしていた(聖地復興運動)。それに対してブッダガヤーを支配するヒンドゥー教徒の地主は対立していた。インドを支配するイギリスはインド、スリランカ、ビルマ、いずれも自国の植民地であることから、どちらの側につくこともできずにいた。

 そこに、イギリス人の手によって真正の舎利が発掘されたのである。インド・イギリス政府は仏教徒の怒りを買わないため,舎利を仏教徒に寄贈することとし、当時唯一仏教王として独立国をはっていたシャムに白羽の矢が立った。
 1899年1月、ラーマ五世はインドに舎利奉迎の使節を派遣し、3月、持ち帰られた舎利はシャム各地で歓迎をうけた。

 仏教徒にとって真正の舎利は相当な権威をもつので、スリランカ独立の父のダルマパーラはこの舎利を手土産に鎖国中のチベットにいるダライラマ13世と連絡をとろうと考えていたという。

 ラーマ五世はこの舎利をスリランカとビルマに分骨することを決めていたが、その前に、たまたまロシアから一時帰国中であったチャクラボンス皇太子に舎利をロシアに持ち帰らせた(しかしこの事実は翌年まで伏せられた)。

1900年、3月4日、 ウフトンスキー公がロシア帝国下のチベット仏教徒60人を率いてチャクラボンス皇太子を訪れ、舎利を奉迎した。このチベット仏教徒はほとんどがブリヤート人で、二名程カルムック人が入っていたという*註1。

*註1以上のロシアの仏教徒への仏骨寄贈問題は、村嶋英治(2022)「稲垣満次郎と石川舜台の仏骨奉迎に因る仏教徒の団結構想:ピプラワ仏骨のタイ奉迎から日本奉迎まで(1898-1900)」 『アジア太平洋討究』 43: 215-257に詳しい。

 なぜ、ロシアに舎利を送ったことが伏せられたのかは、当時イギリスとロシアが対立しており、イギリスの植民地となっている他の仏教国(スリランカ、ビルマ) に先んじて、ロシアの仏教徒を優遇したことが露見すると外交的にまずかったからであろう。

チャクラボンス王子はロシア女性と結婚し、1906年にシャムに帰国した後、空軍の創設に尽力した。そう、つまりシャムの軍隊はロシア帝国式なのである。
 
 ではなぜシャムはロシアと仲が良かったのか? これは普通に地政学で説明がつく。シヤムは西の国境にイギリスの植民地ビルマ(現ミャンマー)、東の国境にカンボジアとラオスというフランスの植民地がせまり、英仏にごりごり領土を削られている状況下だったので、軍事的にはこの両国と対立するロシアと友好関係を保ちたかったのであろう。

 1904年にイギリスに攻め込まれたダライラマ13世が、ロシアの庇護をもとめて北上したのもその流れである。イギリスの敵は自分の味方というわけ。

 ちなみに、舎利がロシアに送られたことを知ったシャム公使稲垣満次郎は「あのにっくきロシアが舎利を手に入れたとな。日本も仏教国として負けていられない」、と日本からもラーマ五世に働きかけ、東本願寺の僧侶を中心とする仏骨奉迎団がにぎにぎしくタイに旅立ったのであった。

 しかし、持ち帰った舎利をどこにお祀りするかで各宗派でもめまくった挙げ句、結局名古屋の日泰寺(日暹寺)を新しく建立してそこでお祀りすることとなった。現在もこのお寺は日本・タイ友好のシンボルである(→詳しくはここ)。
日泰寺

 仏教の存在感が今よりもずっと大きかった20世紀初頭、イギリス人の手によって発掘された舎利は各国仏教徒のナショナリズムを刺激しまくっていたのであった。

 日泰寺の初代管長は舎利奉迎団の一員でもあった曹洞宗の日置黙仙(ひおきもくせん1847-1920)。この人は辛亥革命直後の1912年にインドで仏跡巡礼を行った際、ダライラマ13世とカリンポンで謁見している。その時の通訳が当時カルカッタ大学で教鞭をとっていた山上 曹源(やまがみそうげん1878-1957)なのである(前エントリー参照)。

このダライラマ13世謁見記録の詳細は山上 曹源が山上天川名でかいた『今日の印度』の最後の方に付録でついているので、ごらんあれ*註2。
今日の印度

*註2 デジタル化されていますのでどなたでもここで読めます

 この謁見記によると、山上曹源はチベットの御用商人ニイジャンを「友人」と呼んでおり、ダライラマはカルカッタ大学で山上がパーリ語の授業をやっていることに興味をもっている。これは山上はこの時点である程度チベットと通じており、ダライラマも明らかに山上が身を置いている神智学協会(協会長がカルカッタ大学の学長)やそこから分岐した聖地復興運動などに親しみ始めていたことを示している(それ以前にダライラマは1908年に北京でシッキムのクマル王子から聖地復興運動などについて聞き及んでいる)。

 というわけでタイ(シャム)とロシアの友好はいまなお続いているのである。ちなみに、ダライラマ14世が亡命後はじめての外遊先がタイ経由日本だった。日本とタイは同じ仏教国で植民地になったことがないという共通点があるものの(日本は敗戦後アメリカに占領されたがたった五年だし)、日露戦争でも、第二次世界大戦でもロシアと干戈を交えており、決して友好国とは言えないことを考えると、随分異なる歴史を歩んだものである。

 
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