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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2023/01/31(火)   CATEGORY: 未分類
円覚寺中興の背景にある近代ナショナリズム
 博多湾の元寇(げんこう)遺跡群が、幕末から明治にかけてもりあがった「神風よ、もう一度」的な近代ナショナリズムの下に再評価されていたことを、かつてブログに書いた。今回は元寇時に政権担当者であった北条時宗ゆかりの円覚寺を訪い、近代ナショナリズムの聖地ではないか? という視点から歩いてみた。結論から先に言うと、案の定境内には日露戦争前後からの「神風よもう一度」の痕跡が多数みいだされた。
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 そもそも、円覚寺に興味をもったきっかけは、『花田仲之介先生の生涯』である。花田仲之助は日露戦争時に馬賊を率いてロシア軍の後方攪乱をしたことで有名で、日露戦争直前には西本願寺の僧侶に化けてウラジオストックに潜入していた。潜入中、花田は清水松月と名乗り、土地の日本人コミニュティー(といっても女郎屋やばくち打ち)に仏教を説法し、軍関係者が訪れても「私はもう坊主で結構です」とスパイ業を廃業したかのようにふるまっていた。しかし、1904年日本とロシアが開戦するや、乞食坊主の衣をぬぎすて軍服に着替え馬賊を率いた。「敵を欺くにはまず味方から」を地で行ったのである。ちなみに1901年に河口慧海についでチベット入りした成田安輝は、この花田仲之助と同郷で、成田は花田に促されてアメリカから帰国し、その後チベット潜入の特別任務についた。

 この花田は、日清・日露戦争に先立つ1892(明治25)年、円覚寺の禅仲間とともに励精会を結成している。この禅仲間のメンツは錚々たるもので、日露戦争で遼西義軍を率いた同郷の橋口勇馬(1862-1918)、後に総理となる平沼騏一郎 (1867-1952)、澤柳政太郎(1865-1927)、早川千吉郎(1863-1922)、北条時敬(1858-1929)、根津一(1860-1927)、神尾光臣(1855-1927) 、与倉喜平(1868-1919) である(残りはwikipediaで確認してw)。

 花田が励精会を結成した1892年は明治9年から円覚寺の管長をつとめていた今北洪川がなくなり、弱冠34歳の釈宗演が住職の座をついだ年であった。この釈宗演は当時の僧侶としては珍しく慶應義塾大学に入学し、仏教を学びにセイロンに留学し、明治26年にはシカゴ宗教万博に参加し日本仏教の評価をあげ、彼がアメリカにおくった鈴木大拙が禅を世界のZenにまで普及させた。これらの事蹟から、彼が円覚寺中興の祖とあがめられるのもむべなるかなである。

 日本史に疎い私はそれまでの円覚寺のイメージは「北鎌倉の駅から一番近い寺」「鈴木大拙?」くらいであったが(ひどい)、調べたらこのお寺、北条時宗が元寇の際に戦没した人々を敵味方なく弔うために建てた寺であり、34歳でなくなった時宗自身の墓所でもあった(写真は彼の遺体の上に立てられた仏日庵の中にある時宗像)。つまり、円覚寺とは、外国からの暴力を奇跡的な「神風」によって切り抜けたあの鎌倉時代を想起させる格好の場なのである。
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 なのでその線で調べてみると、明治天皇の后である昭憲皇太后も、「讐(あだ)なみは ふたたびよせず なりにけり 鎌倉山の 松のあらしに」という歌をよせているし、日露戦争勃発の年には明治政府は北条時宗に従一位を追贈している(もともとは従四位)。境内には神風特攻でなくなった方の慰霊碑「呑龍地蔵大菩薩」も祀られており、博多の元寇遺跡と同じく、円覚寺の再興には近代ナショナリズムの勃興が作用していた痕跡はいたるところにあった。
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 円覚寺を訪れた日は関東に雪が舞った翌日であった。当初のプランでは、歴史散歩ということでまず金沢文庫駅で待ち合わせをし、称名寺で鎌倉文化をみたあと、中世古道の朝比奈切り通しを歩きでこえて円覚寺にいく予定であった。しかし,いきなり人身事故で金沢文庫と能見台駅間京急が運転見合わせとの報が入り、仕方なく集合地点を北鎌倉に切り替えた。結果円覚寺周辺をゆっくり回ることができたので、このあたりに天の配剤を感じる。

 明治維新を境に幕府の庇護を失った日本の出家集団は縮小し、必然的に在家仏教に力を入れざるを得ず、円覚寺も明治に入ると在家の仏教者(居士)の参禅を積極的にうけいれ始めた。たとえば、1894年には夏目漱石も円覚寺内の帰禅院で参禅している。

 円覚寺が明治・大正期・昭和初期の知識人・文化人のサロンでもあったことは夙に指摘されてきた。円覚寺の近郊にある東慶寺の墓地にはゆかりの知識人がねむっている(東慶寺のトップは1905年に円覚寺の住職である釈宗演が兼任している)。墓地は本堂を通り過ぎた谷戸の奥の斜面にあり晴天の日でも薄暗い冥界の雰囲気をもつ場である。お墓はだいたい五輪塔で、小林秀雄など著名人のお墓であっても、墓標を見なければ墓主が分からない。有名どころとしては鈴木大拙・西田幾多郎(この二人同郷)、岩波茂雄(夏目漱石の弟子で岩波書店の創業者)、和辻哲郎(帝大で美学教えていた『古寺巡礼』の著者)などの墓が同区画に並び、円覚寺の住職であった釈宗演・井上禅定らも別区画にともに眠っている。

 学生たちと薄暗い墓所をあがっていくと、一番奥に自然石でできた苔むした碑文が見えた。何となく興味を引かれてすいよせられていくと、「向陵塚」という三文字が記されている。由来を記した石版を読み進めてびっくり。これ一高の墓である。奇しくも同行していたゼミ生のAちゃんは、一高文化が好きで日比谷高校文化について卒論を書いていたため、二人で苔むした碑文を読み上げる。ネットでは誰も記録していないようなので以下に全文を記す(句読点は私がつけた)。
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向陵塚由来
我等が、ここに向陵塚を建立したのは、その昔
向陵の地に寝食を共にして、学を修め、友情を温
めた第一高等学校同窓生の魂の落着き所として
永く後世に残そうとするものであります。
 第一高等学校(通商「一高」)は、明治八年東京英語
学校として創立され、同十年東京大学預備門と
改称、更に同十九年第一高等中学校となり、同二
十七年第一高等学校としてその輝しい歴史を
繰り広げ、戦後昭和二十五年学制改革により終
焉となりました
 この間明治二十三年本郷向が丘(故に我等は
「向陵」と呼ぶ)の地に校舎の外に寄宿寮を設け、全
寮制の下に切磋琢磨し幾多の人材を世に送り
ました
 柏葉と橄欖をあしらった校章、二本の白線の
帽子は、時の世に有名で毎春行われた紀念祭や
紀念祭毎に生徒達によって作られた寮歌は、満
天下を風靡?しました。寮歌のうちでも「嗚呼玉
杯に花うけて」「春爛漫の花の色」「アムール川の流
血や」等現代でもよく唱われている歌が多々あ
ります
 今はなき第一高等学校の同窓生が、ありし日の
良き寮生活に育まれた智恵と正義(まことょと
友情の絆をいとおしみ、永く我等の魂をともど
も止めんとした所以はかくの如くであります
 昭和五十二年五月
 向陵塚建立世話人会


この「アムール川の流血や」という寮歌は1900年の義和団事件の折、ブラゴヴェシチェンスク市のコサック隊が中国人市民3000人を虐殺してアムール川に投げ込んだ事件を受けて作られたものである。その酸鼻極まりない光景は、現場にいあわせたスパイ石光真清が『石光真清の手記』で記している(この手記は花田仲之助の僧侶時代の話も詳しいw)。石光はこの事件でロシアの脅威を肌で感じ、参謀本部の出資でハルピンで写真館を開き、シベリア鉄道沿いのロシアの動向について情報収集に努めることになる。

 ちなみに、石光はその後すぐ日露戦争に召集され、戦場でばったり軍人にもどった花田仲之助と再会する。日露戦争直後の1906年にはチベット・モンゴルから戻った成田安輝ともばったり大陸の草河口であっている(成田と石光は同じ薩摩出身で陸軍幼年学校で一緒だったので互いの素性をしっていた。成田は成績不良で落ちこぼれてエリート軍人になりそこなっていたけど)。

 向陵塚は先ほどの呑龍大菩薩と同じ年、時の円覚寺の住職井上禅定師の時代に建立されている。敗戦とともに日本の空気はがらっと代わり、戦中の青春を美化することはできなくなり、そのうちどんどん同じ時代を知る人がいなくなっていく。この二つの記念碑からは生存者たちの寂寞がつたわってくる。苔むした名刺入れをみながら、「最後の一高生がここで寮歌うたったのはいつのことだろう」と感傷に浸たる(2007年に永代供養にきりかわっているのでその時かも)。

 日比谷高校文化で卒論を書いたゼミ生のAちゃんは「先生、一高のお墓につれてきてくれてありがとうございました」と喜んでいるので、ここで「今日みるべきものは見たな」とつきものが落ちたような気分になり、家路についた。思えば出だしに人身事故がなければ、この墓地をゆっくりまわる時間もなかったので、くるべくしてこの塚の前に私とAちゃんはたったのであろう。

 近代にはいった日本は外国からの脅威を強く感じ、駆り立てられるように戦争を拡大し続けた。その戦いはつねにきついものであったため、ことあるごとに元寇の時と同じく「神風」が待望された。博多や円覚寺などの元寇遺跡はその過程で注目をあび、新旧のナショナリズムが時代をこえて一体化した場へと昇華したのである。

 最後にアムール川の流血の歌詞をwiki からコピペしておく。当時の東アジア情勢の不穏と一高の自治の精神が伝わってくる歌詞である。
一、
アムール川の流血や
凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は
怪雲空にはびこりつ
二、
コサック兵の剣戟(けんげき)や
怒りて光ちらしけん
二十世紀の東洋は
荒波海に立ちさわぐ
三、
満清(まんしん)すでに力つき
末は魯縞(ろこう)も穿(うが)ち得で
仰ぐはひとり日東(にっとう)の
名もかんばしき秋津島
四、
桜の匂い衰えて
皮相の風の吹きすさび
清き流れをけがしつつ
沈滞ここに幾春秋
五、
向が丘の健男児
虚声偽涙(きょせいぎるい)をよそにして
照る日の影を仰ぎつつ
自治寮たてて十一年
六、
世紀新たに来れども
北京の空は山嵐
さらば兜の緒をしめて
自治の本領あらわさん
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DATE: 2022/12/31(土)   CATEGORY: 未分類
ダライ・ラマ秘話⑦ご本尊ワティ・サンポ
 御正月恒例、ダライラマ秘話も今年で七回目となりました。
今年は、ダライラマ法王が、観音菩薩の灌頂を行ったり、観音関係の法を説かれる時、たびたび言及し、また、会場に本尊として置かれている「ワティ・サンポ」と呼ばれる観音像をテーマにしてみたいと思います。

 開国の王ソンツェンガムポの時代にチベットにもたらされたこの観音像は、ソンツェンガムポ王の再来として同じく観音菩薩の化身と崇められるダライラマにとって、とくに重要な意味を持つ像である。この像の起源についてチベットの史書にはおおむね以下のように記されている(『チベット仏教王伝』岩波文庫参照)。
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 7世紀、ソンツェンガムポ王は、チベットの地に仏教を導入するにはまず本尊が必要であると考え、頭から化身の比丘を発し、比丘はシンハラ(スリランカ)の地にとんだ。比丘はシンハラの海岸の砂地の下に埋まっていた栴檀の木を掘り出すと、木には四つの裂け目があり、四つに割れたその部分部分から十一面観音像が自然に出現した(チベットではこのように人の手にならずに出現する像をランチュンという)。

 比丘がこの観音像をチベットに持ち帰り、王がこの観音像に祈願すると、像の胸から光線がでてネパールの地に向かった。王は光のさした方角に再び化身の比丘をおくりこむと、比丘はインドとネパールの国境地帯の森の中に、牛が乳を注いで供養している白檀を見つけた。

 この白檀を上から四つにきるとそのたびに、マンユル、カトマンドゥ、インド・ネパール国境、チベットにそれぞれ祀るようにという声がして4体の観音像が自然と出現した。その声に従って、聖ワティはマンユルに、聖ウカンはカトマンドゥに、聖ジャマリはインド・ネパール国境に安置され、最後の部分から出現した観音像はソンツェンガムポ王に献上された。

 この観音像こそ、現在もポタラ宮の最上階の観音堂(パクパラカン)に祀られるあの著名な観音像である。観音堂はポタラ宮の中でもっとも古く、ダライ・ラマ5世は17世紀にこの観音堂の横に自らの宮殿(白宮)をたて、ダライラマ5世の摂政サンゲギャムツォは5世の死後このお堂をつつみこむ形で赤宮をたてた。
 
 京都の西本願寺の前に薫玉堂という歴史ある香老舗がある。昔この店舗の上階には小さな展示室があり、そこに加工前の沈香の木が置かれていた。その解説によると[うろおぼえ]、「最高級の香である沈香は香木が熱帯の砂地の中で様々なバクテリアに分解された結果少量できるものであり、過去にはその価値は同じ重さの金ほどもあった」という。

 熱帯のスリランカ(シンハラ)の砂地の下からほりだされた香木から現れた観音像は、この稀少な香木のでき方と同じである。この事実を知って感動したので、ハーバート大学のvan der Kuijp氏が京都に滞在されていた時に、この薫玉堂につれていき、チベットの年代記をつんつん提示しながら、熱く語った。

 ちなみに、現在、ネパール盆地にも一本の栴檀の木から生じた四体の観音像が「四姉妹観音」として祀られており、ヒンドゥー化したネパールにもこの伝説はかろうじて共有されている。

 この後、ソンツェンガムポ王はインドの八大聖地の土などの像の素材を積み上げて玉座の上で瞑想に入ると翌朝、それは自然と十一面観音像になった。この像は「五つのものから自然に現れた像」(ランチョンガデン)と通称され、さきほどのシンハラからもたらされた観音像もこの像に合体し、それ以後の歴史を通じて、チベットでもっとも信仰を集める観音像となった。

 1959年、ダライラマ14世がラサを脱出してインドに亡命した際、ポタラ宮の観音像も、ラサのジョカンに祀られるランチョンガデンも持ち出すことはできなかった。つまり亡命直後のダライラマの周りには由緒ある観音像は存在していなかったのである。そこで、法王は亡命と同時に、カムパ・ゲリラ(チュシガンドゥク)とゾンカ・チョデ僧院の僧にワティ・サンポ像をもってくるようにとのミッションを下した。

 この像が法王の下にもたらされるまでの経緯は、人類学者のジョフ・チャイルズ(Geoff H. Childs)氏によって明らかにされている(Pagpawati Jowo's Rescue Chapter 6 of G. Childs' The Rising Mist )。チャイルズ氏は1959年に実際にこのミッションを遂行したにヌブリのリクジン・ドルジェにインタビューしている。

 これによると、ワティ・サンポは1959年時点ではネパール国境に近いキロンからほど近いパグパ・ワティ(聖ワティ寺)という寺院に安置されていた。ある夜、リクジン・ドルジェの夢枕にワティ・サンポがたち「私を安全なところに連れて行けば、この先ずっといられるが、パグパ・ワティ寺に置いておけば、あと1、2年ももたないだろう」と告げた。

 気になっていたところ、ダライラマからの手紙がもたらされ、そこには「ワティ・サンポを3月中にヌブリに連れてくるように」と書かれていた。リクジン・ドルジェは村人を率いて、カムパゲリラの護衛をうけながらキロンにいき、ワティ・サンポをヌブリの町にもたらした。村中をねりあるいてその祝福を分かち合った後、像をダライラマに奉献した。

 リクジン・ドルジェ曰く、「村から像がでていった日のことは、今でもはっきりと覚えています。しかし、もう像は安全なのだと思うと嬉しかった。数ヵ月後、パグパワティ寺が破壊されたという知らせを受けたとき、私は自分たちが正しいことをしたと満足しました。私たちが動かなければ、ワティ・サンポが夢で語っていたように、この像はもう私たちの手元にはなくなっていたからです」

 2022年6月1日、法王がダラムサラで青年たちに講話を行い観音菩薩の灌頂を授けた際に、このワティサンポに言及し、
「このキーロン・ジョオ(ワティ・サンポ) をチベットからネパールに持ち込んだのは、ゾンカ・チョデ僧院の僧侶とカンパ・ゲリラのメンバーでした。その後、ここダラムサラに運ばれ、私が保管しています。初めてワティ・サンポを見たとき、幸福感に包まれたのを覚えています。ゾンカ・チョデ僧院が南インドに再興されたとき、この像をどこに置くかという問題がおきました。占ったところ、私のところに置くと良いということでした。」(ニューデリーダライ・ラマオフィスのサイト:HIS HOLINESS THE DALAI LAMA GIVES “IN PRAISE OF DEPENDENT ARISING & AVALOKITESHVARA EMPOWERMENT” BDL MEDIA | June 1, 2022 |
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 本観音像は現在、ダラムサラにある法王個人の瞑想室の本尊として祀られている。Raghu Rai のHis Holinessの写真が分かりやすいので掲示したが、法王の後ろにみえる丁度ページの継ぎ目の左にみえるのがワティ・サンポである。法王は「表情が変わり、時には微笑んでいるようにも見える」とたびたび言及し、昼夜目にしているこのワティ・サンポと非常に強い繋がりを感じていることがわかる。
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DATE: 2022/12/10(土)   CATEGORY: 未分類
2022年を振り返って
 年末恒例、チベット・マニアがみたこの一年世界のニュースです。

印象的だったのは本年、一時代を築いた人があいついでこの世を去ったことだ。ゴルバチョフ (8月30日)、エリザベス二世の崩御(9月8日)、安倍晋三元首相(9月17日)、江沢民(11月30日)など名前をあげると、錚々たるメンバーである。

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 また、つい一昨日12月8日、第102代ガンデン座主リゾン・リンポチェが94才で逝去された。ガンデン座主はゲルク派学僧の最高位であり、アジアにおいても存在感のある方であった。謹んでご冥福をお祈りします。
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 天安門事件がおき、ベルリンの壁がくずれた歴史の転換点とも言われたあの1989年にも、昭和天皇、手塚治虫、松下幸之助、美空ひばり、のらくろの田河水泡など一時代を築いた有名人があいついで世を去った。あの時と同じく将来今年も歴史の転換点になるといわれるのであろうか。

 少なくとも、2月24日、プーチンが自分の個人的な歴史観を満足させるため、ウクライナに侵攻し世界を戦争にまきこんでからは、独裁体制の方が民主主義よりすぐれているという中国やロシアの主張に対して、「ないわー」という空気が支配的になった。

 また、ウクライナが必死で抵抗する姿をみせたことにより、欧米がこぞってウクライナを支持したことも(戦争開始直後はアメリカゼレンスキーに亡命の打診までしていたそうな)、大国の軍事的恫喝にさらされている弱小国に、強力な軍事同盟に属さないと自国が護れないこと、自国民が自国をまもる姿をみせないと支持をえられないことをつきつけた。

 結果、いままでロシアを刺激しないようNATOへの参加を自重してきた、北欧やスイスまで加盟を検討するようになった。ようは世界の安全保障環境が大幅に変化したのである。やはり今年は歴史の転換点となるかもしれない。

 さて、チベット関連の四大ニュース時系列でいきます(関連するURLもはっています)。
 
2月24日 ロシアがウクライナに侵攻。チベット仏教徒のブリヤート人は貧しさからロシア軍に多数在籍していたため多数が戦死(詳しくはココ)。このエントリーのコメント欄に他には見えない形でおそらくはブリヤート人と思われる方から、感謝の言葉がはいったのが印象的だった。

5月27日 チベット最大の辞典『モンラム大事典』が完成(ネットでひけます)。チベット文化の中枢である仏教文化について多数の語彙解説を含み、それは中国共産党ではできない事業であるため、チベット文化の正統な継承者は難民社会であることを示した (詳しくはココ)。

9月8日 エリザベス二世の崩御にともない、かねてよりダライラマ14世と交友関係にあるチャールズ国王即位。

9月17日 ニュー・カーダムパ・トラディション (NKT) の創設者であるケルサン・ギャツォ死去。この方はもともとダライ・ラマと同じゲルク派の僧でイギリスに駐留していたが、シュクデンと呼ばれる護法尊を祀ったことからゲルク派と決別した。それ以後、この派の支持者(主にヨーロッパ人)はダライラマが欧米を訪問するたびにアンチ・ダライラマデモをかけることで有名なグループとなった。しかし、このグループに中国の資金が流れていることをロイター通信が報道した2016年、会は解散した(詳しくはココ)。
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DATE: 2022/11/16(水)   CATEGORY: 未分類
ウクライナ戦争で被害をうけるチベット仏教徒たち
ロシアのプーチン大統領は、2022年2月24日、一方的にウクライナに侵攻した。こうしてはじまった戦争は、ロシアの敗色濃いながらも九ヶ月たった今も終わる兆しをみせていない。

 今回はこの戦争でロシアの中にある二つのチベット仏教国カルムキア共和国(カスピ海の北に位置)とブリヤート共和国(バイカル湖の東に位置)がどのような状況であるかをロシア語メディアから拾ってみた。
 以下の青字がニュースの主要部分からの引用である(日付ごとにならべてある)、以下黒字部分はその要約である。

 今回の戦争は突如として始まったため、軍事演習と言われて現地にいたロシアの兵士たちが、そのままウクライナに放り込まれた。この兵士たちはロシアの中でも貧しい共和国出身者が多く、一番の戦死者をだしたのはダゲスタン共和国、2番目がブリヤート共和国であった。
 3月2日のニュースは戦争勃発当初ウクライナの発表したロシア人捕虜の中に自分の息子をみつけた母親がたった一人で戦争反対のピケをはったというものである。
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 6月28日のニュースはブリヤート人の兵士の妻たちが、すでに四ヶ月も戦地にいる負傷した夫たちを故郷に戻すよう抗議したというもの。しかしこの頃はまだ抗議ができただけましであり、すぐにロシアでは抗議者を逮捕する法律を制定した。
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 7月17日のニュースでは戦争を拒否したブリヤート人たちが収容所をへて前線に送り込まれたことが報じられた。

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 この間、ウクライナは西側の支援の下、徐々に優勢となり、窮したプーチンは9月21日に予備役を動員すると発表した。これまで人ごとのように戦争をみていたロシア人はいざ自分が死地に送られるかもしれないと知ると大量に国外に脱出を図り始めた。
 しかし、この動員はモスクワやペテルスブルグのような大都市よりも、ブリヤートなどの〔ロシアからみた〕僻地で積極的に行われていた。NHKの世界のトップニュース(10月11日)の特集で、この件がとりあげられ、この地が狙われた理由は人口が希薄であり、武装した当局が兵士を徴発にきても抵抗できるような力がないからであるという。ある村は徴兵年齢の男性がほとんど徴発されたというからひどい話しである。

 もともとスラブ系ではない民族はプーチンのスラブ人ナショナリズムに嫌悪感を懐いていたが、今回の戦争でロシアからの離脱やロシアの崩壊を期待する声が上がり始めた。
 このような状況を受けて、9月29日、 ゼレンスキー大統領はコーカサスやブリヤートなどの非スラブ系先住民に向けた演説動画を発表し、ロシアに対して立ち上がるように呼びかけた。  
 10月28日にはカルムキア共和国の民族主義者たちがつくる会議がロシアからの独立宣言を発表した。
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 ロシアはヨーロッパへのエネルギーの輸出を停止し、ウクライナのインフラを破壊し、囚人を戦地に投入するなど戦い方は汚くなる一方である。さらに、この戦争のおかげでヨーロッパは化石燃料に回帰し、来年はさらに空中に放出される二酸化炭素の排出量がふえるであろう。ロシアの独裁者の気分一つで地球が大きな被害を受けている。
 さらに、チベット仏教徒の人口はロシアの戦争や中国の同化政策で減るいっぽうなのに、地球人口は80億人を突破した。
 なんかもういろいろいやになってくる今日この頃なのであったった。
●2022年3月2日
ブリヤート女性、ウクライナの戦争捕虜の中に自分の息子を見つける(ソースはここ)

〔ブリヤート共和国首都〕ウランウデでは、自分の息子である契約軍人のセルゲイ・オチロフがウクライナで拘束されていることを知った女性が、孤独にピケを張り、「戦争に反対」と書かれた横断幕を広げた。
出典はこちら オンラインマガジン『バイカルの人々』 (интернет-журнал "Люди Байкала)


●2022年4月25日
ロシアの貧困地域出身の兵士は、ウクライナで他の兵士よりも多く死亡している。(ソースはここ)

MediaZone調べによると、死亡したロシア人のほとんどは貧しい地域の軍人であり、最も犠牲者が多かったのはロシア連邦の2つの共和国、ダゲスタンとブリヤートであった。
ダゲスタン人とブリヤート人は、他の地域よりも頻繁に戦争に行く。死者の多くは、平均給与が月2万ルーブル(約220ユーロ)をやっと超える程度のこれらの貧しい地域出身者である。


●2022年6月28日 
ブリヤート人の軍人の妻が夫のウクライナからの帰還を求める。兵士たちは精神的にも肉体的にも消耗している(ソースはここ)

『シベリアのリアル』(Сибирь.Реалии )によると、「演習」のためにウクライナに滞在しているブリヤート人兵士の妻たちが、共和国首脳に夫を帰国させるよう求めるビデオを撮影した。
・・・・彼女たちによると、夫たちはもう4カ月も軍の現場にいて、精神的にも肉体的にも疲れ切っている。全員が軽度から中程度の重症度の挫傷を負っている。・・・・妻たちは、ロシアのテレビがこの「無法状態」に注意を払わないことに不満を抱いている。

●2022年7月17日 
ブリヤート人の契約軍人が戦闘拒否のため、ルガンスク近郊の予審拘置所に移送。(ソースはここ)

契約軍人のコメントを録音した音声は、「フリー・ブリヤティア」財団のアレクサンドラ・ガルマザポワ会長からMediazoneに提供されたもの。
・・・・・彼等はブリヤート州の32364部隊に所属し、数カ月戦地にいた後、辞表をだした。曰く「私たちは皆、辞表をだしたが、司令部は否定的な反応を示した。つままり、司令部からの脅しが始まった...。・・ドニプロ・ペトロフスクとヘルソン地方の軍事調査部の責任者が来て、ルガンスク近郊に突撃部隊を作ったので、収容施設におくった後に全員をそこに送ると言った」・・・・彼によると、8~10人の軍人のグループが軍司令官室に連行され、ガレージに3~4日間閉じ込められて一食にされ、その後、リハビリセンターとして作られたルガンスク近くの予科練収容施設に送られるという。

●2022年9月29日
ゼレンスキー大統領の先住民に向けた演説動画(ソースはここ)

コーカサスの民たちよ!
私は今、キーウ市内の1860年代にダゲスタンとコーカサス全体の英雄であるイマームのシャミルが住んでいた地区にいる。ご覧のとおり、ウクライナはあなた方の英雄を讃える術を知っている。私たちは、私たちの民の文化を融合させた場の記憶を維持している。(中略)

コーカサスの民たちよ! ロシアの全ての民たちよ! この戦争を望む1人の人物に仕える多くの人の中に混ざるべき理由は、あなた方には一つもない。あなたたちは、ウクライナで死ぬ必要はない。あなた方の息子は、ウクライナで死ぬべきではない。あなたたちには、そのような義務はない。あなたたちの親に対しても、あなたたちの子供に対しても、あなたたちの未来に対しても、あなたたちの大地の未来に対しても、そのような義務はないのだ。あなたたちはそのことを知っているはずだ。

私たちは、あなた方が犯罪的動員に対して抵抗しているのを見ている。ロシアは動員によって自らの正規軍の失敗、犯罪的命令の失敗を覆い隠してしまおうとしている。あなた方は、そのような失敗などないと嘘をつかれている。

ロシアは孤独となった。もう孤立しており、この戦争によって裁かれる。「真実に対して武器を掲げた者は皆、実のところ、自らの死へとその武器を掲げているのだ」。クレムリンはどうやら、イマーム・シャミルのその言葉を知らないようである。しかし、この言葉はコーカサスでは知られているはずだ。その言葉は、この戦争に人が送られているシベリアやその他の地でも聞かれるべきだ。
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犯罪動員の最初の一週間で、すでに戦争へ送るために集まった人より多くの人がロシアを出国した。クレムリンはこれにどう対応しているか? 彼らは、自国民に対峙させるために軍をロシア国境に送っているのだ! 恥だ! 何らかの偽「住民投票」、何らかの自白と併合からなる嘘は、ロシアにとってさらに大きな恥辱で終わることだろう。
その恥ずべき戦争には、誰も参加すべきでない。ダゲスタン人は、ウクライナで死ぬべきではない。チェチェン人、イングーシ人、オセチア人、チェルケス人、その他ロシアの国旗の下に入ることになったあらゆる民についても同様だ。総じて、約200の様々な民がいる…。あなた方は、誰が彼らをウクライナに送っているか知っているだろうか。送っている者たちは、人々を「貨物200便」(編集注:軍の死亡者運送を示す軍用語)にしたがっているのだ。
あなたたちはそれを望んでいるのだろうか? あるいは望んでいないのか? 私は、あなたたちが生きたがっていると確信している。私は、あなたたちが嘘に疲れていると確信している。私は、あなたたちが今こそ戦わねばならないことを知っていると確信している。
ロシア国民が戦争へ行くことになるように、人々は意図的に貧困へと追いやられている。借金を作り出された。人々は、弾圧で脅され、プロパガンダで嫌がらせを受けている。あなたたちは、それを変えることができる。誰があなたたちにとっての本当の象徴であるか、誰があなたたちにとって英雄であるか、誰があなたたちの歴史上のプライドであるか、そして、誰があなたたちを単に利用したがっているのかを、あなたたちは理解しなければならない。
「戦いたまえ、さすれば勝たん!」

●2022年10月28日
オイラト・カルムック人会議(Конгресса ойрат-калмыцкого народа)がカルムキアの独立宣言を発表した(ソースはここ)
オイラト・カルムック人民会議は、2015年からエリスタで開催されている民族活動家の民衆大会「チュルガン」を調整する機関である。・・・同組織の指導者は、議会をカルムイク人の唯一の正当な代表機関とする。
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〔この宣言文では〕クレムリンの政策に同意しないことを表明し、オイラト-カルムイク人の議会は「オイラト-カルムイク人のロシアへの植民地依存からの完全な解放の必要性を宣言する」と「ロシア連邦からカルムイク共和国の分離、主権独立国家の宣言と設立を達成する決意を宣言する」とある。
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この宣言文書の著者は、カルムイキアの独立は、カルムイキ民族の言語、文化、伝統、存在そのものを維持するための最も重要で唯一の条件であるという。宣言文は、他国政府に対してカルムイキアの解放の必要性を認識するよう訴え、「正義を勝たせよう」という言葉で締めくくられている。
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DATE: 2022/10/16(日)   CATEGORY: 未分類
CTAがダライラマの転生について立場を表明
九月末、亡命チベット政権の内閣がダライラマの転生問題についての立場を表明した。その背景には現在中国内で行われている転生に関する歪んだ宣伝キャンペーンがあるようである。転生問題についてはダライラマは2011年にすでに「転生に関する詔勅」を発布し、転生にまつわる歴史・思想などについて詳細に述べ、自らの転生いかんは自らの意志で行うこと、認定は伝統的にダライラマの財産の管理をおこなってきたガンデンポタン(兜率宮)が行うとはっきり表明している。

 今回の内閣のポジション・ペーパーはこの勅令をふたたび裏書きしたものであり、2020年1月29日にアメリカの下院において可決した、「チベット政策及び支援法案」(HR 4331)においてもチベット仏教指導者の継承はチベット仏教コミュニティによってのみ決定されるべき独占的な宗教問題であるとうたわれている。つまり国際的にもダライラマの意志は裏書きされている。

 内閣がポジション・ペーパーを発表した直後、The Tribune Indiaが「中国がお手盛りの15世を選ぶことを防ぐためにはダライラマは転生しないと発表するであろう」という記事を流した(原文はここ)。これまでダライラマは「自分が最後のダライラマになる」、また、「金髪のお転婆娘に産まれる」と自らの来世については様々なコメントをしてきたが、そのすべての前提に「救済にとってもっとも適した姿になる」という文脈あった。なので、今回の「仏教にとってマイナスにはたらくなら、ダライラマとして生まれない」というのも、その文脈でよむべきものである。菩薩は救済のために必ず転生をするのだから別にダライラマの姿はとらなくてもいいのである。

 しかし、チベットがこのような状態である限り、チベット人はダライラマの存在を必要とし、その声にこたえるとやっぱりダライラマとして生まれることになると思う。中国は本土でダライラマをたてたとしても所詮パンチェンラマと同じく偽〜と呼ばれるだけのことである。国際的に承認されないダライラマ15世を何人たてても意味が無いことにはやく中国は気づくべき。
 
 CTAが発表した声明文を以下に翻訳しました。原文は写真ではりました。クリックすると大きくなります。

 
ダライラマ14世の転生問題についてのチベット中央政権(CTA) 内閣の立場
2022年9月29日

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中華人民共和国政府は2007年に、いわゆる「蔵伝仏教活仏転世管理法」(チベット仏教における生き仏の転生を管理する法)と呼ばれる法律を採択した。それ以来、中華人民共和国はすべての僧院組織の運営を掌握し、特にラマ(生き仏) の転生を認定する権限を完全に掌握し、彼等の政治的目的のために利用し続けている。

さらに、中国政府は同時にワーク・ショップ、公開討論会、トークショーを行い、様々な手段を用いて輪廻転生問題一般、特にダライ・ラマ猊下の輪廻転生について誤った話を喧伝している。これらの活動は、チベット全土のすべての出家者と俗人に対して行われている。

また、ダライ・ラマ猊下の生まれ変わりの問題は、私たちのコミュニティの中外で議論され続けているのは事実である。そこで、チベット中央政府内閣(カシャク)は、みなに対する情報として、このポジション・ペーパーを発表する必要性を感じた。

ダライ・ラマ猊下がご自身でたびたび断言されていること、また、神々の予言により、内閣(カシャグ)は法王が113歳まで生きられることを固く信じている。

生まれ変わりを認定する制度は、チベット仏教に特有の宗教的な慣行である。この思想の根底にある思想は、死後の生があるという原理を受け入れることにある。

米国をはじめとする自由を愛する世界中の民主主義国家が、この件に関する法王の考えに全面的に賛同してくれたことに感謝しつつ注1、我々もより多くの国から同様の支持を得られるよう、可能な限り真摯に取り組んでいきたいと思う。

注1 2020年1月29日にはアメリカの下院において、チベット仏教指導者の継承はチベット仏教コミュニティによってのみ決定されるべき独占的な宗教問題であること、米国領事館がチベットの歴史的首都ラサに設立されるまで、米国に新しい中国領事館を設立してはならないことなどを定めた「チベット政策及び支援法案」(HR 4331)を可決したこと。

ダライ・ラマ猊下の転生については、猊下が1969年以来繰り返し述べてきたこと、2011年9月24日の公式発表*注2、あるいは将来だされるであろう指針により、本来〔猊下の〕自由裁量である。いかなる政府も個人もこの件に干渉する権利はない。

*注2ダライラマ法王が、転生に関する基本思想・歴史、そして自らの転生者はガンデンポタン(ダライラマの自坊)のスタッフによって認定されることをのべた勅令。全文はここでよめます。

〔転生を認定するという〕この宗教的活動は、ダライ・ラマ猊下が述べ、委託した責任を負うべきものによって執行されなければならない。私たちは、その時がきた時の中央チベット自治政府が、託された責任を果たすことにリーダーシップをとることに全幅の信頼を寄せている。
内閣は、この問題に関して対処すべき他の関連事項に取り組んでいる最中である。
すべてが保証されますように。

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