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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2019/07/28(日)   CATEGORY: 未分類
パリで国際チベット学会 ②強烈な欧米人研究者列伝
■1979年開催の第一回国際チベット学会

今年は国際チベット学会(IATS)が創立40周年を迎えた。開会式ではオスロ大学のクヴァルネ教授(Per Kværne)が、1979年の第一回国際チベット学会の集合写真を映し出して思い出話をした。それによると、はじまりは、1977年のこと、マイケル・アリスとクヴァルネが二人でワインを飲みながら、「若いチベット研究者がジャンル・国籍関係なしで交流・発表できる場を作ろう」とこの学会を構想し、SNSのない時代対面で一人一人に構想を伝えて13人を集めて計画を始動した。
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そしていよいよマイケル・アリスがホストとなって第一回IATSが、オックスフォード大学で開催された。賓客としてはチベット最後の日々を目撃したチベット学者ヒュー・リチャードソン(1905-2000)を迎え、55人が集まり、今と同じく会費なし、発表言語も自由のゆるい会であった。本会は開催される度に規模が大きくなり、今年は20ヵ国以上600人が発表を行った。

 国際チベット学会の発起人となったマイケル・アリスはすでに故人である。今回の会はチベット史家のエリオット・スパーリンクが死んで最初の国際チベット学会でもあった(写真の前列中央)。この二人は人権活動家として知られ、強烈な生涯を送っている。本エントリーでは彼ら二人の人生をしのびつつ、チベットを研究するとこうなる人って結構いるんだよね的な話をしたいと思う。

■IATSの発起人マイケル・アリス(1946-1999)の激動の生涯

 故マイケル・アリスはチベットの研究者であるばかりではなく、ビルマ建国の父アウンサン将軍のお嬢さんでビルマ民主化の指導者であるアウンサン・スーチーさんの夫である。

 スーチーさんのお父さんは彼女が二歳の時に政敵に暗殺され、お母さんは独立ビルマの大使としてインドに赴任したため、スーチーさんは15才から海外暮らしとなる。1962年、ネウィン将軍のクーデターによりビルマは軍事政権に舵を切り、経済の停滞がはじまった。スーチーさんは1964-67年にはオックスフォード大学のセント・ヒューズ・カレッジ (St. Hugh's College) に留学し、卒業後はニューヨークの国連事務局行政財政委員会で書記官補を勤めた。折りしも、国連事務総長はビルマ人のウ・タントであった。

 一方のマイケル・アリスはブータン王家の英語教師の募集に応じて、1967〜73 年、ブータン図書館に勤務していた。1971年、ブータンにきたスーチーにマイケルがプロポーズをし、二人は結婚した。結婚に際してスーチーさんは旧宗主国の男性と結婚することにより、自分のビルマに対する愛をビルマ人が疑わないかとずいぶん悩んだという。しかし二人は仲が良く二人の男の子にも恵まれ、マイケル・アリスがオックスフォードで第一回国際チベット学会を開催したのは次男キムがうまれた二年後のことである。
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 二人の幸せな生活は1988年、スーチーさんの母が発作で倒れたことによって終わりを告げる。スーチーさんが母の看病のためにビルマに帰国したところ、ラングーンは民主化運動のうねりの中にあり、民主化勢力はスーチーさんに運動への支援を求めた。スーチーさんは父が政治闘争の中で暗殺されたこともあり、政治に関与することに当初逡巡したが、結局民主化運動の先頭に立つ。建国の父の娘であり、美人で弁のたつスーチーさんが演説すると、国民は熱狂した。脅威を感じた軍事政権は「民主主義はイギリス人の思想であり、彼女はずっと外国にすみ外国人と結婚した売国奴である」と宣伝し、スーチーさんを意図的に『アリス夫人」と呼び、建国の父アウンサン将軍とのつながりを否定しようとした。

 1988年8月8日、後に8888 蜂起と呼ばれるビルマ全土に広がった民主化の動きは、軍事政権によってつぶされ数千人が命をおとした。ビルマ版天安門事件である。翌、1989年、東欧の社会主義政権がドミノ式に倒れ、ダライラマ14世がノーベル平和賞受賞した年、軍事政権はいっそう硬化し、スーチーさんは軟禁され、民主化を要求した学生たちも逮捕された。逮捕された学生たちが監獄で拷問にあうことを懸念したスーチーは、自分を監獄に送るように要求し、軟禁中の自宅でハンガーストライキを始めた。

マイケル・アリスと二人の息子はビルマに飛び、ハンストするスーチーさんにつきそった。スーチーさんに何かあれば国際社会もビルマの国民も軍政を非難することは明白であったため、軍政は監獄内の学生の待遇改善を約した。スーチーさんはハンストを停止し、マイケル・アリスと二人の息子はイギリスに戻った。

 翌、1990年5月27に スーチーさんが軟禁中であるにもかかわらず、彼女の率いるNLDは総選挙で地滑り的勝利を得た。ここで軍事政権は予想外の結果に狼狽し選挙の結果をなかったことにし(笑)、スーチーさんの二人の息子にはビルマのビザがおりなくなり、イギリスの家族とスーチーさんの間の連絡は途絶えるようになった。軍事政権は「夫と息子に会いたいならイギリスへ帰れ」との無言の圧力をかけてきたのである。

 翌、1991年のノーベル平和賞はマイケル・アリスの奔走により、スーチーさんに贈られた。受賞式にはマイケル・アリスと二人の息子がかわりに出席し、スーチーさんがそれでもラジオくらいは聴けているかも知れない、もしそうなら息子の声を聴きたいだろうと、二人の息子がノーベルスピーチを行った。
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 1993年 ダライラマ14世を含む7人のノーベル平和賞受賞者がスーチーの解放を要求してビルマへの入国を試みるも拒否される。7人はビルマ難民キャンプを訪れ支援を表明。そのままジュネーブにとび国連人権委員会アピールを行った。
 1997年 マイケル・アリスが前立腺ガンと診断され、国連のコフィ・アナン事務総長、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、アメリカ政府がマイケル・アリスのビザ発給をビルマ政府に申請したが軍政は認めず、再会が叶わないまま1999年3月27日、マイケル・アリスは享年53才で激動の人生の幕を閉じた。

 結局、スーチーさんの自由が実現するのは、2012年のことであった。国際的に孤立したビルマにおいて中国の影響力がまし続けたことに危機感を感じていた軍事政権は、この年民主化勢力に[形だけの]譲歩をはじめたのである。やっと出入国の自由をえたスーチーさんは20年ぶりのノーベルスピーチをオスロで行い、ダライラマ14世との会合も果たした。

 現在スーチーさんはロヒンギャ難民問題で国際的な非難をあびているが、軍人議員が優勢な議会において、ビルマの人々のほとんどはロヒンギャをビルマ人と認めていないという状況下で、スーチーさん一人を責めるのはあまりにも酷であると思う。
 
 人権活動家のチベット史家 エリオット・スパーリング(1951-2017)

 開会式では前回の学会の開催以後になくなったメンバーに対して黙祷も行われた。その面々の中でも圧倒的な不在感をかもしだしていたのは前述したエリオット・スパーリングであった。彼はどこにいても目立つ人であった。学者としての業績はむろんのこと、黒いシャツ、黒いサングラスというアレなファッションに、忌憚ない発言、そのうえみごとな×ゲ、彼はチベット支援のいたるところに顔を出していた。
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 彼の人権を守るための活動はチベット人に留まらずウイグル人にも及ぶ。2014年、中国当局に逮捕されたウイグル人の経済学者イリハム・トフティ氏を擁護したことから、中国に入国禁止となった。その三年後、インディアナ大学を引退したエリオットはニューヨークに居を定め、チベット人支援に本腰をいれようとしていた矢先、66才の若さで急死したのである。一人暮らしのエリオットの死を最初にみつけたのはイリハム・トフティ氏の娘であった。

 2014年7月7日に、エリオットが中国への入国を拒否されアメリカに送還された時、彼はバッテンがつけられた自分のビザをニューズ・ウィークに公開し、「私はこのビザを中国共産党人権賞と呼んでいます」といい、「[北京政府の入国禁止の]ブラックリストからはずれる手段があるのかはわからないが、私は自分の行動を変える理由をみいだせない。」「私は声高に異議を唱えたことは認めるが、それ以外、何も悪いことはしていない。そして、ビザを得るために北京の権威主義に従う意志もない」と言い放った記事をみて、「ああ、彼、絶好調だな」と思ってたらその二年後急死してしまった。エリオットに捧げられたパネルは、みなが最後に彼との思い出を語っていてほろりとした。
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 マイケル・アリスにしろ、エリオット・スパーリングにせよ、象牙の塔の中にこもることなく、あえて厳しい現実に関与し、ビルマや中国の民主化に挺身したことは、特筆すべきことであろう。

 思えば第一回国際チベット学会に参加した「若い」研究者たちは、みな1959年にチベットの亡国を目の当たりにし、難民となった若き日のダライ・ラマの言動と行動に感化され、ともに年を重ねていった人々である。思えばダライラマ14世も、静かな場所で仏教の研究と修行にうちこみたい人であったが、実際はチベット人のため、仏教のため、世界中の救いを求めている人々のために、現実世界へ関与する人生を歩むことになった。それを考える時、ダライラマの人生がチベット研究者の人生にも同期したと解釈することもできよう。

 国際チベット学会が巨大化し、当初のような情報交換、親睦の機能が低下してきたため、最近は若手チベット学者会議が、本会議の間に開かれ、国境をこえた交流を深めている。かれらは団塊の世代の子供世代なので、数も多く一つの勢力となっている。願わくば彼らも親世代同様、チベット学や研究対象であるチベット文化本体が消滅していかないようにそれぞれのジャンルで業績をだしてほしいと思う。
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DATE: 2019/07/15(月)   CATEGORY: 未分類
パリで国際チベット学会 ①トラブル編

■ついに私も大学者

欧米の学会は時差がきつくて不眠症が悪化するので避けてきたが、今回は英語の本を出版して宣伝しなければいけないし、学会が結成されて40周年ということもあり、パリで行われる国際チベット学会に参加することとした。
直前まで発表の準備をし、もろもろに忙殺されていたため、旅行の細かい準備までできずとりあえず地球の歩き方の地図部分だけ破り取って持って出発。

 空港について保安検査場でパスポートをとりだしてふっとめくってみると、なんかビザがたくさんはってある。「去年更新したばかりなのに多くね? 」よぎる不安。よく見ると私が手にしていたのは今年の1月に失効した古いパスポートであった。

 その昔、江上波夫先生が海外にでられた時、周りの人が「先生パスポートは?」と聞くと、「パスポートとは何だ」と答えたというレジェンドが頭をよぎる。私もついに江上波夫大先生と同クラスの大学者になったのか

 去年ロシアに行くのに、ロシアは入国時点で半年パスポートの期限が残ってなければいけないので、まだ半年以上期限が残っているのに新しいパスポートを作った。まだ期限が残っている古いパスポートには穴が開けられなかったのでそれで取り間違えたのである。てか同じ場所に保管すな、自分。
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「このまま家に帰って一週間寝て暮らそう」と一瞬思うが、パネルを主宰しているのでそうもいかず、次の日の便に振り替えてもらう。ちなみに、チェアマンを頼んでいたMichael van Praag教授がその朝、怪我で学会キャンセルとか伝えてきてるので、始まる前からこのパネルは呪われていた
 
 翌日、11時間の飛行の後、シャルル・ド・ゴール空港につく。ターミナル1は建設された70年代はアバンギャルドだったかもしれないが、今見ると社会主義ソ連風というか、ペテルスブルグの地下鉄風というか、タルコフスキー風というか、暗いしょぼい怖い建物。出口にでても案内表示がなく非常に不親切。あとで聞くとこのターミナル使った人はみな迷いまくっていた。

■北斗の拳の世界

空港から市内にでる電車は治安の悪い地域を通るので、強盗が多発している。在フランス日本大使館情報によるとギャングは複数人のってきて一人がとびこんでバッグをうばい、もうひとりがドアをしめて逃走を手伝い、バッグを放さないとホームまで引きずり出される、welcome to this crazy world ! な北斗の拳の世界である。そこでタクシーにのるが、あとで聞くとタクシーも渋滞で停車したところで路肩に潜んでいるギャングが窓ガラスを割ってバッグをとり、運転手も助けてくれないというので、アジア系女性の一人旅に安息の地はない

学会が指定したホテルはパリのはずれの13区にあり、とにかく大人数を安くとめることを優先したようで、会場から遠く、交通の便も悪く、サービスも悪いと三拍子揃ったすごいホテル(帰国の際空港まで一緒したカナダ人教授も「私の知る限り最低のホテルだ」と言い放っていた)。このホテル、初日から盗難が二件、発生して、2000ユーロとコンピューターとパスポートが取られたとかで、警察もきていた。どんだけセキュリティが甘いんだこのホテル。

しかし、パリも国際学会もはじめてのWくんは脳内で美化されたパリに酔っており、

「空港から市内にくる電車の中でいろいろな人種の人が乗り降りするのをみて、これが人権先進国の姿なんだ、とワクワクしました」という。

「この子は早く現実をみた方がいい」と思っていたら、その機会は意外に早くやってきた。

発表の終わった翌日、ちょっと一息とWくん市内で観光とルーブル美術館の前を歩いていたら、私とWくんはヒジャーブをかぶったイスラム系のローティーンの若い女の子に声をかけられた。彼らは、子供のための署名を集めているので署名してとしつこくつきまとう。署名をすると、今度は寄付をしろという。この時点で何かおかしいと思い、私はふりきったが、オメデタイWくんは同情して六ユーロだした(写真は無残な姿を晒すノートルダム大聖堂。屋根がおちてカジモドはもう住めない)。
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すると、その中東系の女の子はさらに電話番号を書けといってきて、気づくと二人の女の子も加わり総計三人に囲まれてまさに財布がとられようとしていた。つまり、募金は財布をださせるための手口で、署名で気を取られているすきに他の二人が財布をぬくシステムだったのである。さすがにWくんは途中で気づいて逃げたが、「人の善意を利用するなんてひでえ」とウツロな目でつぶやていた。

しかし、大柄なアフリカ系の男に張り倒されて財布とられたなら同情するが、イスラム系のローティーンの女の子三人にほだされて財布をとられそうになったのは笑い話にくくっていいと思う。

「目を覚ませ。これがパリだ! 」と私は勝ち誇ったのであった(何に勝つんだよ)。


■松岡修造がいるみたいな暑さ

今年の日本は梅雨空が続いて寒いがパリは連日めっちゃ暑く、みな半ズボン、ノースリーブ。二週前は熱波でヨーロッパで人が死にまくっており、私がいた間も連日快晴。一日のうちほんの数時間風がふくだけでほぼ無風。会場のinalcoは冷房がはいっているのが一階の講堂だけで、あとは蒸し風呂。ただ窓をあける以外の涼み方がないので人が部屋にはいってくるととにかくムッレムレ。

パリは緯度がたかいので夜は23時まで明るく朝は4時から明るいから、涼しくなる暇がない。結果、西日があたる部屋、中庭に面して風がまったく通らない部屋ははっきりいって地獄。汗まみれ。私達のパネルの部屋は西に向いている上に中庭に向いていたので、うだった。ホテは遠いからシャワーをあびに気軽にも戻れない。あまりに暑いので松岡修造がパリにいるのかと思い、検索したが、修造は長野にいた。パリの暑さは普通に地球温暖化が原因。

暑いとくればとすべてが臭い始める。もともとパリはネズミの都。世界遺産とかで古いものは古いままだし、中世から下水があるからネズミは繁殖しほうだい。Wくんは学会初日にトラムの駅まで歩く途中巨大なネズミの死骸をふみかけてショックで座り込んでいた(写真はひと目をはばからないパリの恋人たち)。
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そう花の都パリはとっても不衛生。トイレをがまんできない観光客や浮浪者が物陰で(地下鉄通路とか、公園の茂みとか、観光地の影になった場所)あたりかまわずシーをするので、折からの暑さで臭う臭う。シテ島におりる階段なんか17世紀からの立ちションの匂いが染み付いており、オエッとくる素敵な空間。
 恋人たちの都というより、し尿の都だね♥️

■パリ観光

というわけで、観光する気はもともとナッシングであったが、2019年4月15日に焼けたばっかりのノートルダムと、ダライラマの外交官ドルジエフ関連の史跡だけはちょっとだけは見に行いった。世界最大の観光都市パリは、川が流れていて、橋がかかっていて、お土産物屋が軒を連ねていて、観光客しかいなくて、お店は一見さんの観光客から全力でぼったくろうとしている店ばかりだから国際版の嵐山。
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こうエンドレスに毒づいていたらK先生がパリの人も同じことをいっていると賛同?してくれた。

ここでネガティブな方へのワンポイント・アドバイスです。行きの飛行機で見た「ミッションインポッシブルフォールアウト」ではトム・クルーズがさんざんパリの町をバイクで走り回っていました。なので、北斗の拳がきついという方はこれを見ればパリにこなくてすみますよ。

後編は40周年を迎えたチベット学会のレポート。
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DATE: 2019/06/17(月)   CATEGORY: 未分類
サカダワの食卓(手抜き)
チベットでは仏様が生まれ、覚りを開かれ、亡くなられた月はいずれもチベット暦4月であり、この聖なる月に積まれた善行は他の月に比べてン万倍になると言われているため、菜食したり、聖地を巡礼をしたり、布施をしたりで盛り上がる季節である。

 今年は西暦6月4日よりサカダワ月に入った。6月6日は先代の二回目の命日であるため、4日からつきあいの外食以外はベジにしている。ただし、ダシまでは徹底していないのでへたれベジである。料理に興味のない自分は、この期間、ベジ用のカレーとか、ラーメンのレトルト食品に、ゆば、豆腐、納豆など大豆製品を食べているだけなので、食事の準備が異様に楽である。バンザイ。
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みんなもやろう! 楽だよベジ。
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 サカダワにはいって三日目に先代の命日がきた(二年目)。今年の命日は去年のような不思議なこともなく、淡々と過ぎていった。卒業生のTくんが命日のお花を届けてくれたのでお墓にお供えし、先代と過ごした過去の日々を思う。ちなみに、2世は自立心が強く、指よりも文字通り頭に乗る、頭・肩のりインコになりつつある。何とかせねばホトトギス。
三回忌

そして、16日の本日は満月。サカダワの満月の日は一番功徳が増える日なので、この日は例年、NPO、NGOへの寄付をする。

 人間の活動によって生じた地球温暖化は異常な夏の暑さと豪雨・台風被害をもたらしているばかりか、ものすごい速さで地球上の生物を絶滅においやっている(BBC5月7日の記事)。なので、もともとWWFの会員なので寄付がラクっちゅーことでWWFの"南米の海をまもるための「イルカが教えてくれること」プロジェクトに寄付。そして、これも毎年恒例であるが日本野鳥の会に「野鳥の密猟や違法な販売を防止し、輸入の禁止を求める活動」に寄付。希少なインコを密林から誘拐してくるな!

 ちなみに、ダライラマ法王は、チャールズ皇太子が運営する熱帯雨林保護プロジェクトのCMにでていることが示すように、人間の活動が地球を破壊しつつあることに早くから警鐘をならし、COP24の会議が行われるたびに参加者にメッセージを発信している。

 ここで印象に残っているダライ・ラマの環境発言をいくつか。同じ文脈で同じ内容の発言を何度もされているので覚えたことなので、正確なソースは提示しませんが、大たいこんなところだと思います。

「私達には地球しかないのです。地球がだめになったからよそに住むとかできないのです。だから、みなで協力して地球の環境を保全していかねばなりません。」

「人間が作り出した問題は人間が解決できるはずです。」

「社会のリーダーたちは浪費をみせびらかすのではなく、率先して質素な生活を送り、みなの手本になるべきです。」

「私たちは自分の利益になると思い込んでいるものを、他人のことを意に介さずにがむしゃらに求め続け、他人ばかりでなく自分自身をも傷つけてしまうことになります。この事実は今世紀に入ってよりはっきりとしてきました。たとえば、核戦争を今起こしたら、それはそのまま自殺行為です。あるいは、目先の利益を求めて大気や海を汚染すれば、それは私たちの生存の基盤を破壊していることになります。個人や国家の相互依存(縁起)の度合いが増加しつつある現在、私が「普遍的責任感」(増上意楽)と呼ぶものを育てていく他、残された道はありません。」


最新のダライ・ラマの環境問題へのコミットメントを示した記事をいかにはっときます。

ダライ・ラマ法王、環境活動家グレタ・トゥーンベリさんに支援を表明
2019年5月31日

インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

ダライ・ラマ法王は、わずか16歳のスウェーデンの環境活動家の少女、グレタ・トゥーンベリさんに書簡を送り、私たち全員が気候変動の危機に直面していることに、更なる関心を高めるべく懸命に取り組んでいることへ深い感謝の念を表明された。

「貴方が、若者たちに共に声をあげるよう呼びかけている様子を見て、私は大変勇気づけられました。貴方は、気候変動についての科学的合意と対策の緊急性に対して人々を目覚めさせているのです」

「私もまた、環境保護を熱烈に支持する者です。ご存知のように、われわれ人間は地球を破壊する力を有する唯一の生物です。しかしながら、地球を破壊する力があるならば、地球を守る力もまたあるはずなのです」

「貴方が、われわれの唯一の棲み家である地球を守ることの緊急性に世界中の人々の目を開いたことは、じつに勇気づけられることです。同時にあなたは、あなたと同世代のきわめて多くの兄弟姉妹に対しても、こうした運動に参加する勇気を与えているのです」

法王は最後に、トゥーンベリさんの取り組みに対する支援を表明されるとともに、祈りを捧げられた。
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DATE: 2019/05/22(水)   CATEGORY: 未分類
出雲で修験!
 5月18日は出雲の山中で山伏の先達に率いられ全長18kmの巡礼道を、若干ワープしたものの、歩いてきた。このハードな行程になぜ東京くんだりから参加したのか、その理由を説明する。

●神仏霊場という奇跡

明治元年に神仏分離令がでるまで、日本の神仏は一体であった。仏が日本に合わせた姿で適宜あらわれたものが日本の神々と考えられたため、お寺が神社を管理していた。しかし、明治元年、神仏分離令により神と仏は切り分けられ、神は明治政府の庇護の下、独立した新しい伝統を創始する一方、寺は幕府の庇護を失い多大なダメージを受けた。中でも被害が大きかったのは神仏を一体のものとして祀っていた修験道であった。修験道はほぼ壊滅した。

 そして現在に至るまで、お寺と神社はお世辞にも仲がよいとは言えない状況にある。しかし、ここ出雲では20の神社と寺が協力して神仏霊場を構成し(サイトは→ここ)、寺と神社を結ぶ巡礼路をつくり、その巡礼路を大峯修験の山伏がひきいて歩く「行脚」を行っている。神話の国出雲であるから、神社は風土記にのっているような由緒があり、寺も松江の藩主からみの名刹が多い。第一番はもちろん出雲大社である。

神仏を一つの霊場として考え、山伏の歩いたであろう古道を、本物の山伏に導かれて歩けば、古式の巡礼を追体験できる。もともと古道オタクで、百観音巡礼も十年かけてやっているし、修験の山も若い頃は結構登山していたので、東京から参加となったわけである。参加を決めたもうひとつの理由は、前々からの知り合いの出雲峯寺の住職快遍師が先達となっているから。万一私が山道から転げ落ちた時も知らない山伏よりは親身になって拾いにきてくれるだろう (迷惑)。

行脚はずっと廃れていたわけだから、復活すれば、考えようによっちゃもっとも新しいトレッキングスタイルである。私は時代の先端をいっている。折りしも5月。 脳内イメージでは、風かおる中、花々の咲く出雲の山を山伏のふく法螺貝の音をききつつ、古い道を歩くのは気持ちいいであろう。

しかし、そんなもんじゃなかったのは以下の通り。
 
 集合場所となるのはゴールの日御碕灯台。車社会の出雲ではゴールに車を置くのが合理的らしい。一般参加者はと見ると思ったより少ない。この日十年に一度のホーランエンヤという神事があること、いままでになくきっつい山道であることが少ない理由だという。

鰐淵寺から山へ

まずはスタート地点の鰐淵寺において正式参拝する。お寺の方に迎えられ、山伏さんたちが本堂前で法螺貝をふき、全員で般若心経を唱える。それから8:07くらいに裏山を登り始める。
鰐淵寺

先頭に立つ山伏さんが、
ざーんき、ざんげ (慙愧・懺悔)、というと

続く人々は「ろっこん、しょーじょう」(六根(眼・耳・鼻・舌・身体・意識)が清浄たれ)と答える。

これを歩きながらずっと続ける。下りの時はみな声は大きくなるが、上りの時は小さくなる。一方、さすが先達の声は上り下りのいかんにかかわらず、ぶれない、みだれない、
スゴイ!

一時間ちょっと歩いて遥堪(ようかん)峠につくと、ここで、山中を通しで歩く山道ルートと最初と最後だけ山道を歩き途中は出雲大社でゆっくりする地道ルートとの2つのグループに分かれる。私は山道ルートを希望したが何と私を除けば男性二人しか一般参加者はいない。ちらっと不安がよぎるが、まあ修験世界にもダイバーシティは必要であろうと、すべての女性を代表する気概で山道ルートに入る。かつては山の神様は女性なので女が山に登ると山が荒れると忌み嫌われたが、私は心はおっさんなのでたぶん山の神様気にしない(実際荒れなかった)。

まず、鈴谷峠にいくまでは何の問題もなし。尾根筋を歩くとシャクナゲは残念ながら終わっているものの、新緑は美しい。何時間歩いてもOKな感じである。

恐怖の弥山登山

とか余裕をこいていると、弥山の頂上手前にきて半端ない急勾配がはじまる。人間の力だけでは登れないためロープがはってあり、それにすがってよじのぼるのだが、最近雨がふらず山内は乾燥しきっており、落ち葉や枯れ木や乾いた土が足を滑らせるため、摩擦係数ゼロ。すべるすべる。木の枝をつかみ、ある時は木の根をつかむという、文字通りはいのぼり、ずりおちる世界。

やっと足場の悪いところは終わったかなとおもいきや、次は岩がそそりたつ。

まんま岩。

そこにロープが下がっている。山伏さんはそこをレンジャー部隊のように登っていく。
ちょっと待て。足は鍛えてあるが、腕は何も鍛えてない。キーボードより重いものをうったこともない。当然のことながら、体をひっぱりあげられず、最後は先達快遍さんのさしだす金剛杖にすがってひっぱりあげられた。
まるで、蜘蛛の糸でひっぱりあげられるカンダタである。芥川龍之介である。

 教訓。修験行脚は腕も鍛えないとつとまらない。あと、軍手と地下足袋も必須。

このありえないレンジャー訓練の後、尾根筋にでて、木が伐採されているため視界がひらけた。マツクイムシにやられた森を伐採して新たな森を再生させる出雲市のプロジェクトが行われているとのこと。もともとの豊かな森に戻せば、山の動物たちが里におりてもこなくなるし、スギ花粉で皆が苦しむこともないだろう。

やがて弥山の頂上につくと、眼下にひろがる出雲平野は文句なく美しい。上がったり降りたりしてきたので、こんな高さまでのぼっていた実感はなかった。山上の祠に山伏さんが、法螺貝と祝詞を奉納。われわれは般若心経を唱えて、もたせていただいたおにぎりを食べてここで休憩。平岡先生からひやかしの着信が何個かはいっている (怒)。
須弥山長城

私「いくらなんでも、ここから先はもう少しマシな道ですよね」

快遍師「ここから猪目峠に向けてダラダラ下りですが、下りも足にくるんですよ。それから登ったり下ったりしますが、あともう少しかと歩き始めてもまだまだで結構きつくて大変でした。」

私の中の何かが「これ以上いってはいけない」とささやく・・・。

私「適当なところで車道におりて、タクシーよんで地道に合流します」そう、私はもうダイバーシティはどうでもよくなっていた。この道はやばすぎる。

快遍師「ケータイが入るようなので、坪背山の登山道に入る直前に車道をよぎるので、そこにバスに迎えにきてもらいましょう」。

私「ありがたきしあわせ」

そこで、弥山の頂上から下り始めたのだが、すべるすべる。ロープをつかんでおりはじめたが、仰向けにすべり、左手を地面につこうとしたらそこに石。肘をしたたかにうつ。一瞬折れたかと思ったが、関節が動くので「大丈夫です。折れてません」と叫ぶ。

みかねた快邉師、金剛杖のはしっこをつかむようにいう。これが不思議。先達と歩幅があうせいか、転ばなくなった。上りになっても息が切れないので、六根清浄が唱えられる。不思議だ。これは山伏の力が金剛杖を通じて私に入ってきているに違いない。

かくして、無事に車道におりたつ。修験の神秘。

登山口にでると、ちょうどバスがついたところで、地道のスタッフが山道の山伏さんとともに登山路の確認をはじめる。全体に予定が遅れているといっているようだが、私のせいではない(ビリじゃないもん)。とにかく道がすべるのが原因。

一般参加者のお二人のうち年配の方が「大山修験よりも、大峯修験よりも、きつい」とか言っている。

快遍師「大峯はたかだか四キロですから」

三代さん(ウォーキング協会の元事務局長。地道の参加者を案内されていて、私に金剛杖を貸してくださった)「このルートはアルプス登る人の訓練に使われているんですよ」

ここで私は迷うことなくリタイヤをきめ、快遍さんたちが坪背山の登山道に入っていくのを「心は師と一緒です。いってらっしゃーい」と手を振っておみおくり。

出雲歴史博物館で一生分の勾玉を見る

さて、出雲大社につくと、地道の方たちに一時間遅れることをつげて、その間出雲歴史博物館で行われている「古墳文化の珠玉」という特別展を見に行く。昨日空港についた時盛大に宣伝されていたので、見に行きたいと思っていたので嬉しい。
こふんぶんか

私がころんで傷ついた肘を気にしていると参加者の山ガールのお二人が、バンドエイドをはってくださる。出雲の人はアホな東京もんにもやさしい。この特別展は今度東京にいくらしく、その間こちらは二〜三ヶ月休館するとのこと。東京でみるより絶対こっちの方が空いてるし並ばなくていいので嬉しい。

古墳時代、玉は権威の象徴であり、副葬品として出土した勾玉のネックレスや腕輪は現代にも通用する美しさ。原石が磨かれて瑪瑙や翡翠の勾玉などにかわっていく過程は「金剛石もみがかずば、玉の光はそわざらん」という昭憲皇太后の歌を思い出させる (誰も知らんわ)。

展示によると、江戸時代の国学や明治維新以後の神道ブームにより、玉は古代の装飾品の象徴とみなさるようになり、お札に記された想像上の神功皇后や天照大神の胸を、菩薩の装飾品に勾玉くっつけたような折衷飾りが覆うことになる。極めて面白い。

現代中国の仏教政策

この博物館で、地道スタッフの一人伯耆大山寺のX師とお話しする。

X師によると、今度、中国仏教界に招待されて普陀山に行くとのこと。向こうの方は真言密教の勉強がしたいそうで、彼はあちらの仏教学院で真言宗の講義をするとのこと。前に招待されて中国にいった時は、日本のお寺を正確に真似て伽藍を作っていたので驚いたとのこと。

私はここでピンときた。13世紀にモンゴル帝国が元朝をたてチベット仏教に帰依して以後、中国ではチベット仏教が皇室の仏教として力をもち、漢地の仏教はどんどん衰退していった。しかし、辛亥革命以後、漢人ナショナリズムはボーボー燃え盛っている。中国のアキレス腱であるダライラマがチベット仏教の最高権威者であることもあり、中国政府はいま、仏教の脱チベット化に邁進している。

 彼らのマイノリティ嫌いは漢服復興にも現れている。チャイナドレスとして知られるあの服装は実は満州人が漢地を征服してたてた清朝の貴族の着衣であり、辮髪も満州人のヘアスタイルである。今、漢人はヤバンな満州人の服装は中国じゃない! 漢人の伝統衣装、漢服をリバイバルしようと息巻く。しかし、いかんせん資料がない。早稲田大学の卒業式の時もそれとおぼしき服装をしてくる中国人留学生もいるのだが、靴がスポーツシューズであったり、デザインも迷走していたりで、なんかうまくいってない感じ。

しかし、仏教なら日本に中国から直輸入された伽藍や教義をまもる真言宗・天台宗・禅宗諸派がある。これを手本とすれば具体的な漢仏教の姿を再現できる。これをどう評価するかであるが、日本仏教が維持できなくなった僧伽や教義が、今後は中国大陸に戻り、復活していくのなら仏教全体としては望ましいことであろう。しかし、漢人ナショナリズムと中国共産党の政策が原動力である以上、あまり明るい未来は想像できない。

 外来の影響力が全くない純粋な文化なんてどこの国にも存在しない。文化は伝播し、習合していくものだから。他者の影響をうけない純粋なものを追求するのは、ナルシストとかナショナリストとかの病んだ心である。

とか、沈思黙考しているうちに一時間たったので、坪背山の登山口にバスで移動して山から降りてくる山道グループの一行を待つ。しかし、でてこない。地道スタッフの山伏さんが法螺貝で呼びかけるが応えはない。ケータイは国道にいる我々が、そもそも圏外である(爆笑)。

私はバスの中でハトムギ茶のみながら昼寝。しばらくすると快遍師一行が登山道を降りてきたので私もバスを降りてお迎えする。全員、よれよれの土ホコリまみれ。聞けば四人全員がそれぞれ転んで、一人は五メートルほど滑落したという。行かなくてよかったあ。

ここから地道ルートと山道ルートのメンバーが合流して高尾山の中腹をまわってゴールの日御碕神社に向かう。鹿よけの柵をあけて山中の柵にそってあるく。しばらくして山中の下り坂がはじまると、親指の爪が靴の中で前に圧迫されて痛い。疲れよりも足の親指が痛いのがつらい。ここはチベット人がヒマラヤをこえてインドに亡命した苦しみを思い耐える


●市街地でロッコンショージョー

しばらくおりると宇龍地区の市街地にでた。

市街地を、ザーンキ、ザンゲ、ロッコン、ショージョーと叫びながら歩くと、家の中から「なんだなんだ」とお年寄りがでてくる。行脚の山伏が錫杖の音をひびかせながら、この通りをロッコンショージョーするのは江戸時代以来であろう。失われた生活音がいっときここに蘇っているのである。私は江戸時代を今体感している(自分でも何いってんのか分からない)。
市街地

 海にでると目の前に権現島という美しい島が現れた。三代さんによるとここでは和布刈神事が行われるのだという。写真をとっているとまた取り残され、走って一行を追う。しばらく山中の舗装道路を歩くとかつて日御碕神社の親寺であった神宮寺があり、いよいよ日御碕神社の門がみえてくる。
権現島jpg


●そして、ゴールへ

何と神仏霊場の20社寺の宮司さん、住職さん達総出で迎えてくれている。拍手で「行脚おつかれさま」と声もかけていただく。この時、一番うしろで動画をとっていたのだが、あとでみたら画面が下に向きがちでワロタ。
拝殿前で山伏四人が法螺貝を奉納し、みなで般若心経を唱え、昇殿して正式参拝をする。
しぬほど歩き回ったあとなので正座がつらい。胡座をかきたい(こらこら)。
日御碕神社

宮司さんはスサノオノミコトの息子、天葺根命(あめのふきぬのみこと)のご子孫。天葺根命はスサノオノミコトがヤマタノオロチを倒して手に入れたアメノムラクモノツルギを天照大神に献上した人物である。その方にお祓いをしていただき、代表して快遍師が神前に榊をけんじる。見ればかかとに大きな穴が開いているが、山道の厳しさが感じられたと綺麗にまとめておく。

 快遍師が榊を献ずると、今度は日御碕の側の代表が榊を献じて、お神酒を頂戴し、お札などを拝領して、神仏霊場の合同祭事が完了。

 この神社は天照大神とスサノオの尊の二柱の神をお祭りしており、別名日沈宮。三代さんに導かれて海にでると、目の前に経島(ふみじま)という島があり、御神体はもともとこの山の上に祀られていたのだという。今はうみねこの島になっている。最後に大量の鳥を見ることができたのは嬉しかった。この日はほぼ満月。行脚・巡礼で若干でも六根が清浄になったような気がする。

 昔の人はみな歩いていた。しかし、車や電車が発達すると、かつての道はより大きな道に潰され、使われなくなった道は草や木に埋もれた。山中にある修験の道はとくに明治以後衰退したため、おそらくは一部は登山道とも重なっているであろうが、その実態はようとして知れない。土地の学芸員さんが修験の古道を現在、探索中というので、新しい道が発見されたらトライしてみたい。
おみやげjpg

●後日談

 翌日、筋肉痛で死んでいると、快遍師から「昨日は能海寛(1900年にチベットに侵入試みて消息不明になった方)の誕生日だったんですよ。彼の故郷の浜田では能海寛ウォークがあったようです」と新聞記事を送ってくださった。私は霊感ゼロだが、こういう時は不思議を感じる。また三代さんから河口慧海にパーリ語を教えた出雲出身の釋興然の出身寺、奥出雲の岩屋寺の現状を教えていただく。現在明治期の日本とチベットの関わりを調べているので非常に参考になった。

今丁度百二十年前の日本とチベットの関係を調べているが、行脚の功徳で上記のように資料集めがはかどりそうな予感がある。もうちょっと楽なルートならまたいってみたい。
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DATE: 2019/05/09(木)   CATEGORY: 未分類
仁和寺でオススメチベット灌頂
仁和寺は七世紀に創建された古刹であり、かつては皇族出身の法親王が主をつとめていた格式の高い寺である。去年国立博物館で仁和寺の宝物に関する展覧会があったが、これは六年越しの観音堂の修復基金を集めるための出開帳。観音堂が修復中のためご本尊の千手千眼観音様と観音さまの眷属である二八部衆が展示され、インスタOKであったため、多くの人が写真をとりまくっていたのも記憶に新しい(かくいう私もいろいろな角度から激写した)。

 で、いよいよこの観音堂の修復が終わり、375年前の姿にもどったのである(新聞記事)。この盛儀を記念して行われる一連の行事の内に、チューロ・リンポチェが行われる千手千眼観音の灌頂がある。以下フライヤー。
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日時:5月25日(土)
阿闍梨: チューロ・リンポチェ 通訳: 平岡宏一(清風学園校長・種智院大学客員教授)
場所: 仁和寺御室会館2F(京都市右京区御室大内33)
会費: 一万円(昼食代・拝観込)
お申込み先は info@samya.jp / Fax 075-352-0900

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灌頂を受けた方にはもれなく修復なった観音堂の内拝も許可されるため、鮮やかに修復された壁画を間近に見ることもできる。
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 チューロ・リンポチェは2009年に遷化されたロサン・ガワン先生の下で幼児より学び、先生のシャプチ(高僧の付き人僧)として日本に何度も来られ、その間清風学園の校長先生である平岡宏一先生と強い縁を結ばれた。彼は博士の学位をとる前後に生まれ故郷のネゴ僧院の僧院長生まれ代わりに認定され、その名に転生僧の敬称であるリンポチェを加号されるようになった。

 幼児期に転生僧に任命されると、甘やかされた結果勉強がおろそかになる者も多い中、彼の場合は学位をとる直前に認定されたため学問もできる転生僧となった。

彼は自らの前世が主催していた僧院に戻ろうと、これまで何度も中国当局に申請をだしているが、転生僧を迎えて地域のナショナリズムが高揚することを恐れ、当局はいまだ入国を許可していない。

 2016年にダライラマ14世が清風学園でチッタマニの灌頂を授けられた際、来日したチューロ・リンポチェは綺麗なカップを大切にもっていて、法王様に使って頂くのだ、と嬉しそうに話していた。実は、ダライラマが口をつけたコップ、座った席、用いた法具、お供えとかを式後、モンゴル人は奪い合うように持ち去っていく。ダライラマの近くにあるからその力を帯びていると思うのである。なので、リンポチェもこのコップを宝物にするかと思いきや「このコップはダライラマに会うことのできない故郷の人々の下に送る」とおっしゃっており、ほろりとさせられた。

 リンポチェは法話のうまいお坊さんとして今ひっぱりだこである。2017年から2018年にかけてガンデン大僧院はヨーロッパに布教ツァーを組んだが、その団長が何を隠そうこのチューロ・リンポチェであった。チベットやっててしみじみ思うのが、昔からの知り合いが欧米でもチベットでもどんどん偉くなっていく。

私は2012年に出雲の峰寺で彼の話を初めて聞いたが、阿闍梨としての風格があることはむろんのこと、法話が非常にうまいことに感心した。詳しくはこのエントリーをご覧いただきたい。

 そして観音様はチベットに深いご縁のある仏様。何しろチベットは観音菩薩によって開かれたとされ、歴代ダライラマも観音の化身として崇められている。観音さまの本場からきた高僧は当然観音灌頂を十八番としている。観音の力をもっともよく知る高僧から灌頂を授かることができ、巧みな法話がきけ、仁和寺観音堂の内拝もできることのできる稀有な機会ですので、みなさんぜひふるってご参加。以下にリンポチェの略歴をおいときます。

●チューロ・リンポチェの経歴

1971年 東チベットのリタンのババ地方に生まれる。
1980子供の頃に通称ネゴ・ゴンパ(gnas sgo byang chub chos gling)_というお寺に入門。ネゴ・ゴンパはバクバ地方最大の名刹で、ネゴとは一番霊場を意味する。250人のお坊さんが共同生活し、仏教の勉強、修行に励んでいる。
1983年に9人のグループでインドに亡命。
同年、ガンデン大僧院ジャンツェ学堂ファラ地域寮に入門しロサン・ガンワン師に師事
2002年 ネゴのチューロ・リンポーチェの転生者に認定。
2003年 博士(ゲシェー)位獲得
2004年 密教を収めるためギュメ密教大学へ。
2014年 ギュメのゲクゥ(律僧)就任中、ダライ・ラマ法王の説法会。
2017~2018年 ガンデン大僧院チャンツェ学堂ヨーロッパツァー団長を勤める。 イタリア・スイス・フランス・ベルギーを歴訪。



 
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